広がる波紋 2
篤志らが二年四組の教室に辿り着くと、希実の親友である木下有里が出迎えてくれた。
彼女は栗色のセミロングヘアにやや垂れ目。艶のある唇はほんのりグロスを引いているのだろう。若干小柄で性格も周囲に気を配る優しい女の子である。
希実とは中学からの友達らしく性格が正反対の二人が奇跡的にコンビを組んでいた。
「おはよう有里」
篤志は挨拶を交わすと荷物を机に預けた。
同じように希実と良一も荷物を置くと自然と篤志の周りに集まってくる。
先週末に始業式があった在校生は、クラス替えと自己紹介を終えており、何の因果かこの四人も同じクラスになっていた。
新しいクラスに馴染めるかどうか、多少不安だったこともあり四人は嬉しかった。
しかしこのメンバーに関してはある意味有名人なので、友人の心配は必要なかった。
篤志は言うに及ばず学校一の弄られキャラだし、良一は意外にもサッカー部のエース。ひょうきんな性格で何処でもムードメーカーとして活躍している。
須恵希実は陸上部のホープで、ミスポニテに選ばれるほどの人気を獲ている。
更に木下有里については、実は希実よりも男子に人気があった。
おっとりとした彼女の雰囲気が無性に守りたくなるらしい。そうなると女子からは疎まれそうだが、その癒しキャラぶりはもちろん、面倒見のよさも相成り、女子からの支持もあった。
しかしそんな四人を良く思わない者がいるのも確かだ。
それがこの二年四組の学級委員長、武田正輝である。
「うるさい、予鈴は鳴ってるんだ。いい加減に席につけ」
四人が雑談をしていると、武田正輝が現れ篤志に対して口を尖らせた。
「お前ら一年の時は人気があったんだろうが、俺のクラスで好き勝手はさせないからな。それに岡留、貴様は今年の生徒会選挙のために、あんな派手なパフォーマンス行うとは卑怯だぞ。絶対に貴様には負けないからな」
「ちょっと武田、あんた何言ってんのよ。話が飛躍しすぎよ」
武田が希実を睨むが、彼女に臆した様子はない。
「気にしないでくれ希実。武田は前からこうなんだ。顔を合わすたび言われるから、今では挨拶みたいな感じなんだよ」
「なんだと貴様。僕を愚弄するのか」
「愚弄っていつの時代の人間だよ」
良一が冷静にツッコミを入れる。
一部始終を見ていた周りのクラスメートがクスクスと笑い始めた。
「とりあえず仲良くしようぜ。せっかく同じクラスになったんだし」
篤志は武田に手を差し伸べ握手を求める。
しかし武田はその手を忌々しげに見つめると、片手で振り払った。
「貴様の魂胆は判っている。そうやって僕の心を油断させておいて、裏切るつもりだな。そうは問屋が卸さないぞ。絶対に貴様の不徳を見つけ出し衆人の下にさらけ出してやるからな」
そう告げつと武田は、四人のもとを離れ自分の席へと戻っていった。
「相変わらず、見えない敵と戦ってるな……」
良一は疲れた顔で呟いた。
ほか三人も同様の顔をしており、微妙な空気を残したまま本鈴が鳴ると担任が入ってきた。
担任は岩迫隆志という国語教諭で、三十三歳。
なんと十二歳年下の妻と二歳の子供がいる。見た目はどう見てもホスト。チャラチャラした髪とシルバーのネックレスを首にぶら下げている。年中ノーネクタイだ。
奮発してかった白の高級車を乗り回しているような教師で口も悪いが、面倒見はよく、授業も面白い。
意外にも進路相談から人生相談まで、親身になって聞いてくれる教師だった。
「いいかお前ら。今日は入学式で、ピカピカの一年共が主役だ。目立ちたいのは分かるがおとなしくするんだぞ。特に岡留。感極まって変なこと叫ぶなよ」
「叫ぶか!」
教室中が笑いに包まれた。
槍玉に挙げられた篤志は不本意そうにしているが、まだ新しいクラスに慣れない生徒が多い中、この教師は良くやっている。
「このあとすぐに体育館に移動することになるが、保護者はもちろん来賓も数多く来てるから粗相の無いように。特に深田。調子に乗って暴れるなよ」
「やだなぁ先生。僕は一度もそんなことしたことありませんよ」
良一はわざとらしく頭を掻きながら答えると、周りに同意を求めた。
「なぁみんな僕はそんなことするはず無いよな」
周りからは笑いとブーイングが響いている。すでに調子に乗っているのは明白だった。
「よしよし、それじゃあお前らのことを一応信じてやるから、目立つように居眠りをしたり、無駄にお喋りするんじゃないぞ。一人でも見つけたらこのクラスだけ一年間課題を倍にするからな」
一斉のブーイングが続いたあと、岩迫は咳払いを行い「嫌ならするな」と強制的に約束をし、その他連絡事項を行った。
「今日は昼前には全ての行事が終わるから、部活の無い奴はさっさと帰るんだぞ。それと最近テレビでも話題になっているが、鷹城市全域で行方不明の事件が多発している。警察からもかなり厳重に注意するよう通達が来た。夜道の一人歩き、夜遊びは絶対にしないように。犯人もまだ捕まっていないし、何より複数犯という噂もある。今日までは深夜の犯行だったのが、これからも深夜とは限らないからな。絶対に不用意な行動は避けるように。わかったか?」
まばらに返事が挙がるが、岩迫はあえてもう一度繰り返した。
「わかったか?」
全員が揃って返事を行うと、岩迫は満足そうな表情を見せた。
「よし、では時間だ。出欠はまだだが、全員居るな。居なくても今日は全員出席にしとくからそのつもりで。では移動開始」
実もふたも無い台詞を吐いた岩迫はそのまま教室を出ると、足早に職員室へと向かった。
残されたクラスメイトも順次教室を後にする。篤志も良一と希実、有里のグループで体育館へと向かうことにした。
「行方不明事件の現場って知ってる?」
希実が尋ねる。
「現場って、行方不明なんだろ?誘拐されたんなら、バッグとか靴とか落ちてるんじゃないか?」
篤志は答えたが、希実は首を振った。良一と有里も興味があるらしく希実の話を聞いている。
「あくまで噂だけどね。行方不明って報道されてるけど、現場は血まみれですごい状態なんだって。どう見ても殺人事件なんだけど、遺体がないから行方不明になってるとか」
「遺体が無いって、犯人が持って行ったのか?」
良一が口を挟んだ。
「いや、それが明らかに連れ去られたような現場もあれば、何かに食べられたような現場もあるって言ってた」
「言ってた?……言ってたって誰が?」
篤志が尋ねる。しまったという顔で希実が口を押さえるが、時すでに遅し。
「希実ちゃんのお父さんは警察官なんだよね」
有里が答えた。
「それって噂じゃなくて本当の話じゃないか。な、なんで報道されてないんだよ」
少し興奮気味に篤志が希実に詰め寄るが、希実がその辺の事情を知るはずもなく、結論が出ることはなかった。
希実は今の話を口止めにすると、新たな事情を聞けたら教えるということで話は終わった。
入学式は予定通り始まり、校長挨拶やら来賓挨拶、新入生代表挨拶にその他行程を踏んだあと、在校生による校歌斉唱まで行い、やっと終わることができた。
残念なのは気合を入れ化粧をしてきた篤志の母、恵が保護者席の最前列真ん中を陣取って居たことだ。
今年四十歳とは思えない美貌でどう見ても目立っていた。恥ずかしさのあまり他人の振りを決め込んだ篤志に対し、大きく手を振ったり、新入生入場で、娘コールをするバカっぷりを発揮し、本日のMVPを獲得していた。
その後、篤志は帰りのショートホームルームで岩迫にバッチリ突っ込まれるも、温情により課題二倍の刑は免れ、クラス内での面目を保つことはできた。
帰ったら母にイエローカードを提示することを胸に誓い、空腹に耐えながら帰途につくのだった。
翌朝、篤志はいつものように遅刻寸前に起こされ支度をした。
両親はすでに出かけており、朝食を摂る時間は無い。従ってバナナを一本もぎ取ると、足早に自宅を後にした。
なんとか遅刻せずに学校に到着するが、そこはいつもの風景とは一線を画した状態となっていた。
校門を抜けた先で、部活動勧の誘合戦が行われていたのだ。
賑やかに太鼓やラッパを持ち出す吹奏楽部、水着で勧誘する水泳部、正体不明の同好会も派手に騒いでいる。
入学式の一件で、すでに美雪の存在はルックスと共に知られていた。
そのため美雪が現れた瞬間、それは獲物を狙う肉食獣のように大挙し周りを囲んだ。
篤志は美雪の手を掴み、必死で脱出を試みるがあえなく失敗。さらに声を張り上げるが、兄は不要とばかりに大量の手が篤志を外へ外へと押し出していく。
美雪はすっかり萎縮し、涙目で兄の姿を探すが、見つけることができない。
あまりの勢いと人ごみに意識が遠くなっていくのを感じた瞬間、大きな怒鳴り声が響いた。
「いい加減にしなさい!」
陸上部として新入生勧誘を行っていた希実が一喝したのだ。
よく通る大声で叱られた集団は落ち着きを取り戻し、希実の進路にあわせて人垣が出来ていく。
「もう大丈夫だから」
希実は美雪を抱くと手を掴み、この集団を解散させた。
「すまん。助かったよ」
「あんたもあんたよ、兄貴なんだからしっかり守ってやんなさいよ」
「その通りなんだが、さっきのはお前じゃなかったら収集つかなかったよ」
「すいませんでした。私のために手間を取らせてしまって」
「いやいや、美雪ちゃんは被害者なんだから別にいいのよ。明日からこうならない様にうちの部長を通じて手を回しておくから、もう安心してね」
「すみません、そんなことまでさせてしまうわけには・・」
「気にしなくていいのよ。便利な上級生はこういうとき使わないとね」
希実は美雪にウインクをすると「いいから任せなさいと」と告げた。
「なにからなにまで本当にありがとうございます」
美雪は再度希実に深々と頭を下げた。
「そうだぜ、美雪ちゃんは今日からサッカー部のマネージャーなんだから、もうこんな勧誘合戦に巻き込まれることはないんだよ」
どこからともなく良一が現れるが、誰も声を掛ける者は居なかった。
その後は、勧誘者からの個別追撃を避けながら昇降口を目指し教室へ向かった。
今日からは通常授業となる。
進級して初めての授業は自己紹介から始まり、コミュニケーションを中心とした内容が多かった。
あっという間に昼休みとなり昼食をとる。学園には学食があるものの、生徒が大挙して訪れるため席取り合戦となってしまう。篤志はいつも教室で弁当か、購買で買った惣菜パンを食べていた。
男子数人で机を合わせ、雑談をしながらの長い昼食。
そこに希実と有里が神妙な顔つきで現れた。
「さっき学食のテレビでやってたんだけど、今朝運行していた市営バスが一台行方不明になってるって……」
「バスが行方不明?バスジャックでもされたのか」
「それがまったく分からないらしいの。二十人くらい乗せてたらしいけど、完全に音信普通になってるみたい。バスに乗っていた人も全員は特定されてないみたいだし」
「それがね岡留君。うちの生徒も乗ってたかもしれなくて、今日無断欠席している生徒を先生たちが確認をしてるらしいの」
有里が口を挟んだ。
篤志は希実を見ると思い出したように尋ねた。
「そういえば希実の親父さんからは何か聞けないのか?」
「それが今は電話は掛けづらいから、メールを送ってるんだけど返信はないし、ちょっとお手上げね」
「市営バスの運営会社からは何か発表はないのか?」
「う~ん……それもね、歯切れの悪いおじさん達が記者会見をしてたけど、何も分かってないみたい」
周りの友人らも、テロや運転手の暴走など色々と現実味のないやり取りをしている。
「まぁここで考えても仕方ないし、後は警察の仕事だ。すぐにでも見つかるさ」
良一が話しに区切りをつけるように意見した。
篤志は心に一抹の不安を感じていたが、それをごまかすように他の話題に切り替えた。
授業が終わり篤志は美雪と合流した。
夕飯の買い物を済ませ自宅に帰りつくと、この時間では珍しく母が帰宅していた。
「ただいま母さん」
「ただいま戻りましたお母様」
「お帰りなさい。二人とも」
笑顔で迎えてくれてはいるが、いつもと様子が違う。
「今日は早いけど何かあったの?」
篤志が尋ねる。
美雪は不穏な空気を感じ取ったのか、二人の様子を静かに見つめていた。
「それがね、篤志君、美雪ちゃんも落ち着いて聞いてね」
昼に聞いた話が篤志の脳裏をよぎる。昼から感じていた不安が具体的に大きく込み上げてくるのを感じた。
「実は今日実篤さんの会社から連絡があって、今日会社に来なかったらしいの。こんなことは初めてだし、お仕事大好きの実篤さんが、無断欠席なんて会社の人も不審に思って連絡をくれたんだけど、どうやら通勤途中に行方不明になってるみたいで……」
「行方不明ってもしかしてバスの話?」
母はゆっくりと首を縦に振った。
「今まで警察署に行ってたんだけど、何も情報が無いらしくて……。多くの人で探しているみたいだいけど……」
昼に聞いた状態から進展はまったくしていなかった。
「今は沿線の防犯カメラをしらみ潰しにあたっているそうで、大きくて目立つものだから、情報が入り次第連絡を頂けるということで一旦帰ってきたのよ」
篤志は入学式の日に希実から聞いた行方不明の話を思い出した。
『あくまで噂だけどね。行方不明って報道されてるけど、現場は血まみれですごい状態なんだって。どう見ても殺人事件なんだけど、遺体がないから行方不明になってるとか』
篤志は考えれば考えるほど頭が混乱した。
何を考えたらいいのか、何をしたらいいのか、多くの考えが生まれては消えていった。どれくらい時間が経っただろう。沈黙を破ったのは美雪だった。
「お父様は絶対大丈夫ですよ。何があっても、笑顔で帰ってきますから、ちょっと頼りないところもありますけど、今まで私の信頼を裏切ったことは一度もなかったですから。とりあえず今はみんなでご夕飯の準備をしましょう」
明るい声だった。
美雪も心配で心が押しつぶされそうなのは間違いなかった。それは気丈に振舞ってはいるが目には少し涙が溢れていたからだ。
篤志はふと、自分の弱さに気が付いた。
一つ年下の妹に励まされてるのだ。
不安はみんな同じ状況の中、あえて明るく振舞う妹に、心の強さを感じた。
母も同じだったようで、すでに零れ落ちていた涙をぬぐい、美雪の手を握るとキッチンへと向かった。
その日の夕飯はカレーだった。
父実篤の好物で、きちんと四人分用意し、食卓についた。
警察からの連絡はない。
一度こちらからかけては見たものの、状況は進展していなかったのだ。
テレビではこの事件が大きく取り上げられている。
忽然と消えたバスの謎などオカルト番組さながらの報道をしている。また最近続いている行方不明事件も併せて、かなり過激な内容で放送されていた。
結局この日、父は帰ってくることは無かった。
翌日、二人は学校を休んで連絡を待とうとしたが、母の反対により学園へ登校することになった。
「二人とも、新学期が始まったばかりだし、何より実篤さんは絶対に帰ってくるから、いつもどおり過ごしなさい。それに私と実篤さんが逆の立場なら、絶対に同じこと言われてるわよ」
笑みを浮かべた母にこう言われては返すことが出来なかったのである。
学園に到着すると、教室はバス消失の事件で盛り上がっていた。
篤志はそんな彼らに文句をいうこともなく、いつもどおり自分の席に着き、いつもどおり過ごそうと努めた。
「篤志、どうかしたのか?」
良一は篤志の顔を見ると、いつものようなおちゃらけた表情ではなく真剣な顔で尋ねた。
二人の様子を少し離れたところから見ていた希実と有里も同様に近寄ってきた。
篤志はどうやら自分が相当ひどい顔をしていることに気が付いたようで、良一に「すまない」と応えたあと、三人を連れて一旦廊下に出た。
「朝から厳しい顔して何があったんだ?」
良一が改めて尋ねる。
篤志は話すかどうか迷ったがそのままの状況を話すことにした。無意識のうちに誰かに話すことで、少しでも不安を取り除きたかったのだ。
「実はうちの親父があのバスに乗っていたらしくて、昨日から連絡が取れないんだ」
篤志がそう告げると、三人が絶句する。まさか身近な人間に関係者が居るとは思わなかったからだ。
「昨日は母さんが警察署に行って状況を確認して来たけど、テレビで報道されている以上の情報は無くて、結局今朝まで行方不明のままなんだ」
「おいおいケータイも繋がらないのか?」
「圏外のアナウンスが出るだけで、どうしようもなかった」
「ちょっと私お父さんに電話してみる」
希実が警官の父へと電話を掛ける。
固唾を呑んで希実を見守る中、彼女が父と会話を始めた。。
希実の父は県警の警部補をやっており、本件にも詳しかったが、新たな情報は何も無かった。また希実の父は情報が入り次第、早急に連絡をまわしてくれるように確約してくれたがそれだけだった。
沈黙が場を支配する。
それを始めに破ったのは篤志本人だった。
「いやいやごめんな、暗くしちゃって。とりあえず、うちの親父は絶対帰ってくるから心配いらないよ。ちょっと不安だったけどみんなに聞いて貰って少し気が楽になったよ」
篤志は明るく振舞うと、話を打ち切り教室へと戻っていった。
教室では行方不明の話題がいまだに場を席巻していた。
今日の昼食は美雪と美雪の友人、それといつものメンバーを含めた六人で、中庭のテラスで摂ることにした。
美雪の友人は中原佐緒里という女の子で、ハムスターのような落ち着きの無さがあったが、元気で陽気な子だった。
はじめは萎縮いしていたものの、良一のバカ話に突っ込む希実や篤志、それを微笑みながらあしらう有里たちのお陰で、食べ終える頃にはすっかり打ち解けていた。
篤志はみんなが気を使ってくれていることを察知していたが、その甲斐あっていつも通り振舞うことができた。
美雪も同じ気持ちのようで、すぐに察することができた。二人は楽しく昼休みを過ごし、より平静を保つよう努め心の中で父の無事を祈っていた。
学校が終わっても吉報はなかった。
篤志が聞いた噂では学園の生徒でバスに乗っていた者は居なかったらしい。
美雪と合流した篤志は二人で帰途についた。夕飯は母が用意しておくとの事だったので、特に買い物もせず自宅へ向かった。
「おかえりなさい」
二人は帰るや否や挨拶に応えると、新たな情報の有無を確認したが、状況に変化は無かった。
その日の夕食も父の好物だった。献立はサンマの塩焼き、季節外れではあるがちょっと割高の冷凍物を買ってきたらしい。テーブルに並べられた四人分の夕食を三人で囲み、努めて明るく振る舞い食事をとった。
結局この日も警察から進展の連絡は無かった。
時計は深夜一時を過ぎている。
トイレに目覚めた篤志は一階のリビングからの人の話し声を聞いた。
「夜分に申し訳ございません。お久しぶりですお兄様。恵です」
電話をしているが、お兄様という単語から、相手が母の実家の楼家当主の達樹に電話をしているは明らかだった。
話の内容はところどころしか聞き取れず、全てを理解することは出来なかったが、父の件で相談をしているのは理解できた。
電話が終わると、篤志はリビングへと入った。
「あらあらごめんなさい。篤志君。起こしちゃいましたか?」
「いや、偶然トイレに起きてきたんだけど……叔父さんに電話してたの?」
「聞かれちゃいましたか」
母は少し考え込んだあと、言葉を選ぶように話し始めた。
「篤志君は一度だけ楼のお家に行ったことがありましたね。憶えていますか?」
篤志は静かに頷いた。
十年前、母の実父に当たる楼燕基が亡くなった際、家族で訪れたのを憶えていたのだ。
かなり年季の入った屋敷で、敷地内には広い庭園や、使用人用の小屋まであった。
同じ年頃の従姉弟がおり、美雪も一緒に遊んだ記憶が蘇る。
「実はあの家はとても古くから続く家系で、まあ古い家系といっても、本家は別にあってね。それは香坂家っていうんですけど、その香坂家や楼家はある特殊な仕事をしているの」
「特殊な仕事?」
「そうね。私の口から言うことは出来ないけど、立派なお仕事よ」
「でもその仕事が関係してると思ったんだね」
「そこまでじゃないけど・・もしお兄様が知ってるような事があればと思って確認をしていたのです。事件のことはテレビで知ってたようですけど、今回の件は特に絡んでいませんでした」
篤志から見た母は、ある意味、実家が絡んで無かったことに安堵しているようにも見える。
「これがさっきの電話の内容です。まだ何か気になることはありますか?」
篤志は楼家が具体的に何をしているのか気にはなったが、今は聞くのをやめた。いつか話せる時が来たときは言ってくれるだろうと思ったのだ。
「実はお兄様とお話をしたのは十年ぶりだったんです」
不意に母が呟いた。
「久しぶりでちょっと怖かったけれど、相変わらず優しい口調で話してくれました」
篤志は母とその実家が意識的に交流を断っていたのは気づいていた。よって彼は喧嘩か何かで仲違いしてるものと思っていたがそうでは無いことに気づく。
「そういえば篤志君はトイレはいいのですか?」
「すっかり忘れてたよ。膀胱がはち切れそうだ」
篤志はそう答えると踵をかえし、リビングを出ると足を止めた。
「母さんもあまり無理をせず、ちゃんと寝ろよ。じゃあおやすみ」
篤志は母の返事を待たずにトイレへと向かった。
母が一人残ったリビングからは、微かに「おやすみ」と声が響いてきた。
朝を迎えた。
今日は寝坊することなく早く起きることができた。篤志が身支度を整えリビングに行くと美雪が朝食を準備している。
「おはようございます。お兄様。」
さわやかな日本晴れ。朝の陽射しが部屋を明るくしている。
「おはよう美雪。母さんは?」
普段の母はこの時間ならばコーヒーを啜りながら新聞を読んでいるのだ。
「お母様なら一度大学の研究室に行って来るそうです。さすがに荷物も置いたままですし、ちゃんと大学側に説明もしなければならないそうで」
「なるほどな。確かに黙って休んでるわけにもいかないしな……」
そう答えると篤志は、テレビの電源を入れテーブルに着く。
この状況でもしっかりと朝ごはんを作ってくれる美雪を心で労いながら、テレビのニュースで進展はないか確認をするが、状況は変わって居なかった。
ただしバスに乗っていた人間がある程度特定はされたようだった。
乗客は運転手を含め二十三人。そのうち学生が八人。残りが通勤に向かうサラリーマンやOL、病院へ向かう途中のお年寄りだった。
バスの経路は西区西端の営業所から、新街を経由し北区へ向かう。最終的には北区のネオシティアイランドの各施設を回り営業所に到着する予定だった。
経路的にみれば、北区の工場地帯が怪しい。あそこは無数のコンテナ置き場や倉庫街もある。自動車解体所やその他鉄くずの処理場までもあり、バスを隠すことは可能である。
おそらく警察も重点的に調べてはいるのだろうが、三日目にしても状況に進展が無いのは異常だった。
「お兄様。麦茶と牛乳どちらがよろしいですか?」
「朝食がパンなら牛乳。ごはんなら麦茶で!」
ちなみに篤志はコーヒーは飲めない。美雪はそれを当然ながら知っていた。
「わかりました。今できましたので持って行きますね」
美雪は手際よくテーブルにパンと目玉焼きにサラダを並べると牛乳を注ぐ。二人ともテレビの音に耳を傾けながら朝食を摂った。
「お兄様。……お、お父様は大丈夫ですよね」
ポツリと美雪が呟いた。
「絶対大丈夫だ。間違いなく無事で帰ってくる」
美雪は心配なのだ。その気持ちを察した篤志が力強く答えた。
「ごめんなさい。お兄様。少し弱気になってました」
美雪は笑顔を見せると気丈にもそう告げて、残りの朝食を食べた。
篤志は健気にも気丈に振舞う妹を見て、この状況を作った『犯人』対して怒りがこみ上げてくるのを感じた。
この日の朝は余裕をもって登校した。
通学途中で良一と合流するが、彼は事件のことには触れず、朝からテンションを高めに美雪に絡んでいる。
良一なりの気の使い方だった。
篤志にとってそれがうれしくもあったが、どう見てもやりすぎに見えた。
なぜかパンツをねだっている。
何をどうすればこの状況になるか理解に苦しむ篤志だが、美雪も良一とは長い付き合いである。久しぶりの再開だったとはいえ、すでに彼の人柄や位置づけは把握しているのだ。
美雪はゆっくりと華麗に筆箱を取り出し、シャーペンを握ると一気に振り下ろした。ペン先は流れ落ちる滝ように美しい軌跡を描き、良一の差し出した右手につき刺さる。
笑顔の美雪とは対照的に、良一の顔は真っ青だ。
「虎穴にはいらずんば虎児を得ず」
良一は痛みに耐えながらそう呟くなり崩れ落ちた。
よく見ると美雪の膝が股間にヒットしていたのだ。
「お兄様。遅刻しますので急ぎましょう」
二歩先を行く美雪の髪は、心地よい日差しに照らされ、輝きを放ち爽やかな春風になびいている。妹の著しい成長を目の当たりにした篤志は、今まで体感したことの無い強い悪寒を感じた。
この日の授業も滞りなく進んだ。
昼休みに一度母に電話をしたところ、特に進展はなかった。大学の方もとりあえず今週は全て休みをもらったそうだ。
いつ解決するかも分からないが、落ち込んでいても仕方が無い。希実も警部補の父から情報提供をしてくれているが相変わらず進展はなかった。
もしかするとこのまま解決しないかもしれないという不安がよぎる。毎日遅くまで連絡を待ち、何もしないまま夜が明けるのを待つのはうんざりだった。
『虎穴に入らずんば虎児を得ず』
良一が呟いた一言だった。
彼は使いどころは間違えてなかったが、行動がバカだった。今を思えばただの笑い話なのだが、自分も充分バカなのかもしれない。
篤志はこの時、ひとつの決断をした。