春の日の陽気 1
春が運ぶ桃色の盛りも衰勢を見せていた。
ゴールデンウィークも間近に迫った月曜の朝、桜の木々は新緑に彩られている。
すでに朝食を済ませた岡留家の母は玄関を後にした。
父は現在も入院中であるが順調に回復へと向かっている。退院も近い。
とりあえず電源を入れてあるだけのテレビには天気予報が映し出されているが、視線を向けているものは居ない。
「お兄様、緑茶と牛乳はどちらがよろしいですか?」
「朝食がご飯なら緑茶で――」
「パンなら牛乳ですね」
もう何度も繰り返されてきた問答である。
すでに答えを知っている美雪だが、敬愛する兄の食育担当者としては、例え答えが判りきっていたとしても確認しなければならないポイントだった。
ちなみに、実はしたたかな美雪がコミュニケーションの手数を一つ減らすという愚策を取ることはありえないことである。
そのしたたかさに気づいている者は今のところごく少数だけであり、その中に篤志は含まれていない。
「今日は和食か、毎朝悪いな」
「いえいえ、お兄様。私が好きでやってることですので、お気になさらないでください。それにこれも女子力アップの為です」
「おおう、気合入ってるな。美雪は将来いいお嫁さんになれるよ」
「お、お兄様、お嫁さんだなんて、私将来はお兄様と結婚するとなれば、いろいろと世間的にも不都合はありましす、そもそもお父様もお母様もいい気分ではいられないと思うのです。でもお兄様がどうしてもいうのでれば私もやぶさかでは無いというかなんというか――」
「あ、わるい美雪、お茶もう一杯」
「あ、……えっと……」
「お茶、もう一杯」
「あ、はいっ」
朝から少しトリップ気味で変なテンションの妹を見ることはこれが始めてではない篤志は、早口で捲くし立てた言葉を右耳から左耳へとスルーさせもくもくと栄養を摂取する。
われに返った美雪も若干顔を真っ赤にしながら、朝食を摂るのだった。
「「行ってきます」」
玄関の鍵をかけ、自宅を後にする二人、学校までは二キロの距離も無い。
遅く歩いて三十分程度である。
「ところでお兄様、その……体調の方は大丈夫ですか?」
美雪が不安げに尋ねる。
父の救出から今日で二週間目。
くたびれた雑巾のようにボロボロだった篤志を心配するのは当然である。
「体調は完全に回復したから心配はいらないぞ。まあ昨日ちょっとあって筋肉痛ではあるけどな」
筋肉痛という単語に呆れた表情を見せる美雪、日曜に朝から出かけていたことは知っていたが、病み上がりに激しい運動をしていたのは初耳だったのだ。
「お、お兄様!まだ病み上がりなんですから。激しい運動は控えてください」
「へいへい。気はつけるよ」
口では承知しながらも適当にあしらう篤志の態度にピクリと美雪の感情を刺激する。
「ま、まだご自分の立場を判っておられないようですが」
しまった、という表情の篤志。
見事美雪の堪忍袋の緒に手をかけたことを瞬時に理解した。
ちらっと視線を美雪へと向ける。
そこにはすでに般若の形相となった美少女の成れの果てが存在していた。
般若とは様々な修行の果てに会得する「さとり」の智慧。
おそらく美雪は今生の十五年、今年十六年目であるが、その期間において、こと兄についてはさとりを開かざるを得ない事象があったのだろう。
「お・に・い・さ・ま? 本当に分かっておいでですか?」
射抜くような威圧の魔眼。
対篤志用の決戦兵器が発動する。
「ご、ごめん。本当に悪かったよ。もう夜には極力外に出ないし、危ないことも極力しないし、変なことにも極力突っ込まない」
「……極力とは?」
笑みを浮かべる美雪。
「ご、ごく稀に、必要な場合があるかもしれないだろ」
―ギンッ―
「極力ノ部分ヲ撤回シマス」
「さすがお兄様。分かっていただけて嬉しいです」
燦燦と輝く太陽のような笑顔が篤志には眩しかった。
「おーっす」
「おはよう」
篤志にとって聞きなれた声が掛けられる。
大通りに面した交差点で合流したのは良一と希美だった。
良一は幼いころからの腐れ縁であり、希美は高校で知り合った気心の知れた友人である。
「おはよう二人とも」
「おはようございます。先輩方」
「朝から美雪ちゃんとエンカウントなんて今日はいい日になりそうだ」
「そんな良一さん、からかわないでください。私も先輩方にお会いできて光栄です」
「あらあら美雪ちゃん。こんな奴に気を使わなくていいのよ。正直に朝からあんたに会うなんて厄日ね。って言ってあげたらいいのよ」
「なんだと脳筋女」
「あんたなんか脳みそヨーグルトじゃないの」
少しずつボルテージを上げていく二人。
皮肉の言い合いから罵り合いへとその口調は変化する。
噴火の時は近い。
それを察知したかのように距離を取る篤志。
篤志ごときが止めに入ればやぶ蛇なのは身をもって経験済みである。
「さあ美雪。信号も青だし行くか」
「で、でもお兄様……。お二人が……」
「気にしたら負けだ。俺たちに出来ることは無い」
美雪の両肩に手を乗せ語気を強めた篤志は、決して後ろを振り向かぬよう言い聞かせ、歩みを進めるのだった。
校門に近づくにつれ、まばらだった生徒の数は増えていく。
当然といえば当然であるが、今日はやたら視線を感じおり、篤志もそして美雪も落ち着かない。
篤志はそれを口にすることは無いが、なんとなくその原因に心当たりはあった。
また隣の美雪もこうなることがある程度予想は出来ていた。
同じクラスの親友である中原佐緒里からも先週の時点で情報が行っていたからである。
行方不明事件が終わり篤志が学校に復帰したのは七日前の先週月曜日。
その日、学園の生徒たちはテレビや新聞、また噂等で篤志の父親が行方不明になっていたことを知っている。
もともと、学園内ではいい意味で有名人だった篤志へは、同情的な生徒が多かった。
しかしその同情的だった生徒らの半分を、その日のうちに潜在的な敵へと回してしまったのも事実である。
その半分とは、男子を指している。
原因としては二人の転入生だ。
「岡留篤志だな」
校門を抜け、昇降口へと向かう岡留兄妹を囲むように訪れた男子集団の一人が問いかける。
はあーと大きくため息をつく篤志。
いかにも面倒だ、という態度で口を開いた。
「ああ、そうだ。ちなみにステラと久万の二人と俺はただの知り合いだ。勘違いするなよ」
牽制の意味を込めて問いかけられるであろう質問の答えを先に告げる。
「う、う、う、嘘をつくな嘘を。お前との関係を聞いた朝霧嬢は笑いながら秘密と答え、ステラ嬢に 至ってはお前のことを自分の所有物だと言われたんだぞ」
「ちょっと待て、俺があいつの所有物? どういうことだよ」
「それをお前に聞いてるんだ!」
「というか、そもそもお前らは何なんだよ……」
「ふっふっふ、良くぞ聞いてくれた」
リーダー格であろう男が大仰に笑い声をもらす。
その取り巻きたち約二十名がリーダーの背後に整列すると、統率された動きで右腕を斜めに伸ばし構えた。
「我々は西親学園美少女親衛隊だ」
どーん!
というよりしーんという効果音が適当だろう。
次々と校舎へ向かう生徒らが微妙な位置と表情を取りながらすり抜けていく。
「美雪。目を合わせるな。行くぞ」
「ちょちょちょちょっとまて~い」
進路を塞ぐように男たちが立ちふさがる。
ちなみに先週後半、篤志はすでにジークステラ親衛隊、ステラファンクラブ、ステラたんマジ天使、朝霧久万ファンクラブ、朝霧親衛隊、リラッ久万倶楽部、クマさんを守る会等々、複数の非公認団体より接触が試みられていたからである。
「我々はステラ嬢、並びに久万嬢、及び美雪嬢を健全な学園生活に導くため岡留篤志、お前への決闘を申し込む!」
ギリギリ10日中の更新が間に合いませんでした。申し訳ないです。