章間~駆け出し魔女 ハルメリア・ノロークの記憶
苦悶の叫びをがなり上げるのは、この館の主であり、近隣の人々を苦しめたミュラー家の現当主だった。
右腕は黒く焼け爛れ悪臭を放ち、紅に染まった瞳からは血の涙が流れている。
「貴様あああああああああああああああああ」
怒りに身を任せた男が鋭い爪で切りかかる。
しかしその刃が相手を捕らえることは無かった。
「地獄へ堕ちる時間だ」
「血の繋がったわしを殺すと言うのか」
「親戚に血吸いの化け物は必要ない」
「わしの後ろにはジーリング卿がついておるのだぞ。その意味を知らないわけではあるまい」
「好都合だ」
「育ててやった恩を忘れたのか」
「育てた?笑わせるなっ。私の両親を殺した下種が」
「知っていたのかっ」
「貴様が化け物になる前には気づいていたさ。この城はもともと父様のもの。貴様が湯水のように使った金もなっ」
「賢しい餓鬼が嫌いじゃない。だが楯突く餓鬼は例外だ。それに貴様もすでに私と同類じゃないか。森の獣の臭いがするぞ化け物」
四つん這いとなった男が大きく口を開くと、存在を主張するように鋭い牙が現れた。
「喰らってやる」
そう告げた男が全身の筋力を爆発させると、目にも留まらぬ速度で一気に駆けだした。
しかし対する彼女はすました表情で右腕を翳すと、静かに言葉を紡ぎはじめる。
―刹那、稲妻が奔り、轟音が辺りを覆う。
網膜が焼き付けられる程の眩い閃光が、大理石を敷き詰めた大広間を照らす。
それは、人外と成り果て、人間を喰らった化け物の最期だった。
断末魔も上げられぬまま、黒炭となった男に彼女が歩み寄る。
そこで一言二言口を開くと、男の亡骸は激しい炎に包まれ、あっという間に灰燼へと帰した。
私はその光景をただただ眺めていた。
一挙一動に心を奪われるほどの美しさ。
透き通るような清廉さと、何ものにも屈することの無い意志は、野生の白百合の様に強く、そして気高く見えた。
「君は自由だ」
自由という言葉に閉ざしていた心が反応する。
それは失くしていたはずの感情を蘇らせるには十分なものだった。
「どこか怪我でもしてるのかい?」
いや違う。
しかし言葉が出ない。
泣き声さえも出すことが無くなったこの口は、いざ必要な時に必要な言葉を出すことを躊躇わせた。
だからせめてこのひとを困惑させないために、否定の意味を込めて首を横に振った。
「じゃあどうしたんだい」
―嬉しくて、悲しい―
地獄で辛うじて生かされていた私を助けたのは気高きあのひと。
私にとって開放は願ってもない幸運。
でもそれはあのひととの別れでもあり、一人で生きていくことを意味した。
出会って数日、短いながら言葉を交わしたひと時に終わりがきたんだ。
―だから悲しい―
「ひとつ君に謝りたい」
―謝る?どうして―
「君が今まで受けた苦痛の数々は本当は私が受けるはずだった。私がここから逃げたから、君が身代わりにされたんだ。申し訳ない」
―それは違う―
―どの道、私はここに連れてこられる運命だった―
「何か必要なものはあるかい?今まで君が受けた苦痛の代償には程遠いけど可能な限り手を尽くす。何でも言ってくれ」
―そんな顔見たくない―
―私を励ましている貴女の顔は、今にも泣き出しそうな子供の顔―
―貴女は過去に、ここで何があったかは分らないけど、そんな悲しい顔は似合わない―
―何ができるか分らないけれど、私は貴女の傍に居たい―
「遠慮の必要は無い。一応これでもお金には困ってないんだ」
「……ください」
「ん?」
「私を連れていってください」
少女は声を振り絞る。
同時に女性の瞳が大きく開かれた。すこし困ったような表情を浮かべている。
「私について来てもいい事は何一つないが」
―それでも構わない―
―私は貴女の傍にいたい―
「普通の生活には戻れないし、真っ当な死に方をする世界でも無い」
―貴女に救われた命だから―
―それに普通の生活がどんなものかなんてもう忘れた―
「困ったな…。他の望みはないか?」
―無い―
一時の静寂が辺りを包みこむ。深々と降り積もる雪の音が聞こえるほど静かだった。
瞳を逸らさず彼女を凝視すると、覚悟を示すつもりで頭を下げる。
これは懇願だった。
どれだけの時間が経過しただろうか、不意に壁掛けの大時計の音が響いた。
それでも私の懇願は終わらない。すると彼女は大きく息を吐くと諦めたように口を開いた。
「私は多分他人に厳しいよ。それでも大丈夫か?」
―もちろん―
「それじゃあ、遅くなったけど自己紹介だ。私は群塔の魔女に所属する魔術師、名をナイトハルト・ミュラー。君は?」
―私の名前…―
―もう何年も呼ばれることの無かった私の名前…―
「ハルメリア。私の名前はハルメリア・ノローク。両親からはハリィと。だから貴女も私の事をハリィと呼んで下さい」
「そうか……私も亡くなった両親にはハリィと呼ばれていたんだ。…それじゃあよろしくハリィ」
そう告げると彼女は右手を差し出した。
これが初めて見たあのひとの、紫電の魔女と恐れられるお師匠様の笑顔だった。
そして同時に、私が魔女を目指した瞬間でもあった。
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