死の匂い
今夜は満月。空には雲ひとつない。月明かりが闇夜を照らし、肉眼でも十分辺りを見渡せるほどだった。
昨夜の事件で、あの駐車場には警察が常駐し、立ち入りは規制されているはずだ。篤志の立場なら近づくだけで補導されるだろう。今夜はそこからの進入を諦め、反対側の位置。駐車場が南端東側なので、北端西側から有刺鉄線を越えて侵入することにした。
目的の場所に到着するまでに幾度か警邏中の警察官を目にした。北区を巡回する警察官が明らかに増えている。人通りの多い場所ならば問題ないが、人気の無い道ですれ違うと、間違いなく職務質問を受けることになる。細心の注意を払いながらここまでやってきた。
時計の針は二十三時を指そうとしている。
目の前には二メートルほどのフェンスがあり、その上部に有刺鉄線が張られている。そのフェンスの向こう側に街灯は一切なく、ひとつが体育館ほどの巨大な倉庫がいくつも連なっていた。造りは古い。重機を出し入れできるような大きな鉄の扉と、そのすぐ側に人間用の小さなドアが据えてあった。
まずはこのフェンスを越えなければならない。越えるための手立ては考えてあった。篤志はリュックからバスタオルとブルーシートを取り出すと、幾重かにたたみバスタオル、ブルーシートの順に鉄線上に覆い被せた。これで鉄線の棘を無効化することが出来る。鉄線の幅は三十センチ程度である。これくらいなら傷を作らずに向こう側に行くことができる。
早速、鉄線を越え、容易に内部の侵入に成功した。
侵入者用の警備システムの類は見受けられない。静かに波の音だけが響いている。
篤志は辺りを見渡すとバットを握り一番近くにある倉庫の入り口へと向かった。
目の前には巨大な鉄の扉が構えている。潮風に侵食され錆びが目立っていた。
最近開けられた痕跡は見られない。すぐ側の作業員の出入り口へ近づき、そっとドアノブに触れる。何年も手入れされてないのだろう、手に汚れが付着した。明らかに人が出入りされた様子は無い。当然ながらドアには鍵が掛けられていた。
それから北部海沿い側の倉庫を順番に回ってみるがすべて似たような状況だった。
中には比較的頻繁に使われている倉庫もあったが、鍵が掛けられておらず、中に慎重に侵入してみたが、人の気配は一切感じられなかった。
倉庫の数は十五基並んだものが十列あり、合計一五〇の倉庫が並ぶ、最盛期にはフル稼働していたのだろうが、今は見るも無残な状態である。それだけに不気味で篤志の恐怖を駆り立てた。
海沿いの一列の調査が終わるとひとつ奥に入った二列目の確認である。
月明かりをさえぎる倉庫の影は暗く、昨夜の赤目の恐怖が何度も脳裏に浮かんだ。正直何度も引き返そうと考えたが、その度に勇気を奮い立たせ全神経を周りに集中させ一歩ずつ進んだ。
篤志はすぐに二列目の通路の端に到着した。通路の幅は十メートル程度だろうか、早速ドアに手を掛けようとした時、遠く通路の先に人の影を見た。
反射的に身を屈める。
こんな時間帯に、こんな倉庫に居る人間はまともじゃない。赤目のバケモノの可能性も高い。身を屈めた状態で人影を注意深く観察する。相手は篤志に気づいた様子はない。
そのまま三列目へ続く倉庫脇の通路へと入っていった。
篤志はバットを力強く握ると同様に側の三列目に続く通路に入った。倉庫の脇を足音を可能な限り消して走る。三列目へ突き当たる角で半身になりそっと様子を伺うと、すぐに人影が現れた。優雅に落ちつた足取りで、そのまま四列目の方向へ入っていった。
篤志はそのまま三列目の通路を人影の方へ向かうと、人影が入っていった倉庫脇の通路の一つ手前の通路に入った。
今は倉庫を挟んだ一つ先に相手が居るはずである。
桜の季節も終わりを迎えようとしているが夜はまだまだ寒い。この夜も通年通り日が落ちると一気に気温が下がる。しかし篤志の額には汗が浮かび、シャツにも真夏のように汗がにじんでいた。
そっと四列目の通路を覗く。人影が倉庫の入り口に立っている。背が高く、男だということがわかった。赤目のような異様な雰囲気は感じられない。
男は音も無くドアを開き中に入っていった。
見つけた。
篤志は直感でそう思った。絶対にこの倉庫の中には何かあるはずだ。鼓動が早くなる。一度深呼吸し心を落ちつける。
昨夜の轍を踏むわけにはいかない。赤目に発見されることは即座に死に繋がる。ここは慎重に内部に侵入し、絶対的な証拠を掴むべきだと考えた。このまま警察に通報したところで相手にされないだろう。もしかすると貴重な手がかりを逃がしてしまう可能性もある。内部の大まかな構成はさっき別の倉庫に入った際に心得ている。同じつくりのはずだ。これなら慎重に内部を伺い、相手を確認した後に警察に事実を連絡すれば良い。
何があろうと、手は出さないし、深追いはしない。自分の中のルールを再確認し、篤志は該当の倉庫へと慎重に近づいて行った。
再度深く呼吸をし、ドアに手を掛ける。
音も無くスッとドアが開く。中は暗いが、倉庫両脇の窓からかすかに月明かりが差し込んでいる。
一歩足を踏み入れた瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。のど元にナイフを突きつけられているような錯覚。さらに錆びた匂いが強く充満している。外の潮風の匂いとは全く異質のむせる様な臭さがあった。
少し屈み、中腰で二歩三歩と中へと進んだ。出入り口の前には巨大な重機が並んでおり、倉庫の奥を伺うことは出来なかった。ゆっくり慎重に壁づたいに奥へと進む。
不意に声が聞こえてきた。
甲高い女性の声にも聞こえるが、泣いているような嗚咽に似た不気味な声が響く。
心臓の鼓動が早くなる。無意識に呼吸も乱れ額を流れる汗の量も増していた。
一歩進み、一つ重機をすり抜けるたびに音はより鮮明に聞こえてきた。
そして一際大きな悲鳴が倉庫全体に響いた。
この音には聞き覚えがある。喉に水を含んだ状態で声を発するとこういう音が出ることを最近知った。
あのバケモノが居る。そして間違いなくここに連れ込まれた誰かが襲われ、絶命した。そう考えたくないし確認もしてないが、脳裏に鮮明に焼きついた昨晩の光景がそう語っている。脳みそが警鐘をならす。足を震わせ、急速にこの場所からの離脱を促す。この場所に居てはいけない。全神経が全力で危険を察知していた。篤志もそれに従い、足を止める。少しの逡巡。耐えられないほどのプレッシャーで一旦倉庫を出ようと思った瞬間、新たな悲鳴が聞こえた。
助けて、嫌、お願い。
絶叫に混じり声にならない声が響く。壮絶な地獄が数メートル先にあることが判る。
篤志は止めた足を再び動かすと身体を前へと進めた。
見つかるとどうなるかは判っていることだ。しかしこのまま見捨てることはできない。理屈では逃げるべきことが判っていたが、篤志の心がそれを許さなかった。自らに力がないことが悔しい。助ける力がない、他人を救うことも、自分を護ることも出来ない非力さを実感しながらも、恐怖以上の怒りに身を任せ、そしてその光景を目の当たりにした。
重機群を抜けた先は少しスペースがとってあり、裸電球が一つぶら下がり明かりを灯していた。その明かりの下にそれは居た。
先ほどみた男の影ではない。二メートルを越える巨躯。手足は以上に長く、鋭い爪がついている。そして何よりも恐怖を掻き立てるのがその顔だった。
醜悪な顔は一目見て山羊を連想させたが大きく違う点がある。白い毛に覆われ、頭部には立派で巨大な角が二本生えていた。握りこぶしほどの瞳は真っ赤に輝いている。むき出しの牙は口周りを含めて血で汚れていた。
辺りには引き裂かれた死体が幾重にも折り重なっている。はらわたが抜きとられたのだろう。腹部から胸部に掛けて大きく裂かれている。そういう死体が一つや二つではない。文字通り山のように積み上げられている。この建物に充満している匂いは鉄錆びではなく、血の匂い。篤志はこみ上げる吐き気を無理やり押さえ込んだ。
山羊のバケモノは手にしていた足だったものを、山に放ると脇に倒れている人間の髪を掴み挙げた。
その瞬間死体だと思っていたものが声を発した。「えっ」という驚きの声の後、山羊を目視した女は高らかに悲鳴を上げ、手足を振り暴れた。しかし山羊にひるむ様子はない。
そしてそいつは人と同様の声を発した。
「貴様は私の血肉となり死後も魂を捧げることになる」
女は声を発することができない。恐怖で全身が引きつっている。
「生きたまま私に喰われることは名誉なことだ。痛みは無いぞ。だが手足が裂かれる間も臓物がいきり出される間も目をそらさずに感じるのだ。究極の快感と幸福感に満たされ死ぬことで、私が満たされる。存分に堪能してくれたまえ。愛しい愛しい一時の君よ」
低い、地面を伝うように広がる重低の声だった。
山羊は女にしつこいくらいの、ねっとりとした口付けをすると、唐突に右腕を切り落とした。
女の絶叫が広がる。篤志はこの光景に呆気をとられ動くことができない。いや正確には逃げることも声を発することも、そして指先ひとつを動かすことも出来ずにいた。
「どうした気持ちいいのか?」
山羊は心から喜んで居るかのように弾んだ声で尋ねるが、女は叫ぶだけである。噴出す血潮に舌を這わせる。ワインをテイスティングするように血液を口いっぱいに含むと満足そうな笑みを浮かべた。悦びを顔で表しながら左腕をねじるように捻り引きちぎった。
女の目にはねじ切れた腕が映る。短く「あっ、あっ」と声を漏らす。瞳はあさってを見つめ、正気を失った。
「はやいな。まだまだ楽しもうじゃないか愛しい君。まだまだ頑張れるよ貴様は」
山羊はそう呟くと爪を庇うように逆手で頬に張り手を加えた。
女は一瞬の間をおくと、正気を取り戻したのか今まで以上の絶叫を上げた。
見て居られない。これは快楽でやっている。この殺人は肉食動物が捕食し、喰らいつくような類のものではない。異常な性癖を満たし、悦びを感じるためだけの最低の行為だ。命を弄び、人格を無視した醜悪で屈折したものだった。
一時は恐怖と想像外の光景で萎えた怒りが激しく燃え滾ってきた。
山羊は一言二言女に声を掛けると、嬉しそうに女の腹部に喰らいついた。
女の断末魔が倉庫に響く。
篤志は抑えきれない怒りに身をゆだねると重機の側に置いてあった鋼鉄製のレンチ手を手にし、思い切り山羊の頭部めがけて投げ放った。レンチは放物線を描くことなく、直線の軌跡で山羊に命中した。
「このバケモノ野郎。いい加減に止めやがれ」
言うまでもなく自殺行為だった。勝てるわけがない。篤志の目の前にいるは昨夜の第三世代の下級の孤児ではなく、第一世代の孤児、今回の失踪事件の黒幕であるルペルカス本人であった。
ルペルカスは動きをとめると、視線を篤志のいる方向へ向けた。目が合った瞬間、おぞましい感覚が身体を支配する。
「人間のガキか。しかも雄とは」
鋭い視線が篤志に突き刺さる。
「悪いが貴様は私の血肉になることは叶わんぞ」
「黙れバケモノ。バスの乗客はどうした」
篤志はバットを突き出し前に向けると大声で叫んだ。
「よりによって私の食事の邪魔をするとは」
山羊は篤志を見ているが、篤志の声には一切反応を示さない。
「質問に答えろ」
ルペルカスはその場から動くこともなく事切れた女の身体を弄んでいる。見るも無残な状態を楽しんでいるようである。
篤志は眼を逸らすことなく相手の目を睨む。先に逸らしたら恐怖した自分に負けるような気がした。
「いい加減にその手を離せ。人の体で遊ぶんじゃねえよ」
バットを握る手に力を込める。
「気色悪い人間の雄に興味は無いが、貴様は私が怖くないのか?」
山羊頭のバケモノが薄ら笑いを浮かべながら口を開いた。
「俺はそんな話するつもりはない。今すぐ彼女を離せ。そしてバスの居場所を言え」
ルペルカスの口が大きく開かれた。
始めは小さな笑い声だったものが、だんだんと大きなものに替わり、最後は手にしていた女を放り投げた。狂ったように笑い出したルペルカスは、額と腹を押さえ爆笑していた。
「おかしい。笑わせてくれる。そんなものの為にここまで来たのか?しかも夜に?たまらなくいいよ。お前はたまらなくいい。これだから人間は面白い。非力で下等で愛情を持っている。醜い憎悪と美しい愛情を持っている。たまらない。思わず涙が出てくるじゃないか。バスの中に恋人がいたのか?それとも家族か?両方か?どっちだ、どっちだよ。たまらないじゃないか。わざわざ探しに来たのか。一人で。よくもまあ第三世代《俺の子》に見つからずにここまで来れたなああ。すごいよ。奇跡じゃあないか。たまらなくいいいいいいいい」
途中から絶叫と化した声が響き渡る。
「狂ってやがる」
篤志は自身にグッと力を込める。こいつには負けられない。多くの人間がこいつの遊びで犠牲になっている。死んでも負けられないと強く思った。
「狂う?」
篤志のこぼした言葉を唐突に拾ったルペルカスが、笑みをやめた。
「私が狂ってるというのか?人間が私に対して?貴様ら人間の方が狂気的ではないか。何万もの人間が一斉に殺しあうなんて発想は私には無いが?それを自分の意思でやってるじゃないか。よっぽどそちらのほうが醜悪で趣味が悪いではないか。それに比べると私のはただの嗜好のひとつ。比較にならんな」
篤志には反論する言葉はいくつも浮かんだが、この相手には言うだけ無駄のように感じた。それにここで議論してもただ闇雲に時間が消費されるだけだった。
「黙れ、質問に答えろ」
せめて意志の力では負けないよう、自分の存在全てを視線にこめて強く睨んだ。数秒の時が流れる。チカチカと電球の明かりが細かく明滅を繰り返した。
「興が削がれたな」
突然の出来事だった。
篤志の足元に黒いモヤのようなものが現れる。もがく暇も、声を発する時間もないまま一瞬のうちに全身を覆った。篤志の視覚は暗闇に閉ざされ、聴覚も次いで重く鈍くなった。次第に指先や首、むき出しの肌に、チクリチクリと小さな痛みを生じた。無数の虫が這い回っている。率直にそう感じた。次第に痛覚は皮膚の裂傷を訴え、肉を齧られる激痛が襲い始めた。
「さて何秒もつかな。ここ百年の記録は六十八秒だぞ」
ルペルカスが放ったものは闇の力を借りた呪いの魔術。嫉妬、愛憎、嫌悪、苦痛、絶望、倦怠、飢餓、悲哀といったありとあらゆる負のエネルギーの塊である。しかも効果は術者の能力だけでなく発動される環境に左右される。
それはその場所が恨みを遺すようなところであればあるほど威力を発揮する。まさにこの倉庫は打ってつけの場所であった。苦しみを味わい死んだ者の妄執を集め、地獄をみせる呪いの霧に捕らわれた者は、その負のエネルギーを一身に背負い、数秒で精神は壊れ廃人となる。
ルペルカスが好んで使う魔術であり、過去数百人を同時に葬った技であった。
篤志は地面に倒れもがき苦しんでいる。手足をバタつかせ、首や顔にまとわりつく黒いモヤを引き離そうと爪を立てるが、指先は空を切り、振り払うことができない。
消えいく自我、強烈な不快感に五感が急速に鈍くなる。意識を失う時が不治の病、精神が破壊された時だ。
篤志は薄れいく意識の中、胸の奥から噴出す何か不思議な力を感じた。自身で何かを行ったわけではない。無我夢中で贖っていただけである。誰でも同じようにもがき苦しむだろう。それと同じように篤志ももがいただけであった。
それなのに不思議と篤志を襲う苦痛が和らぎ、同時に身体を覆う霧が四散した。一瞬にして今までの不快感が嘘のように消え、正常な五感を取り戻す。首や顔に自らの爪で引っかいた跡が無数にあるものの、それ以外の外傷は無い。出血も大したものはしていなかった。
ひどく乱れた呼吸を整える。
ルペルカスがこちらを見ていた。
「貴様は魔術師だったのか」
山羊のバケモノが一歩近づいた。
「何をしたかは知らんが呪霧をかき消すとはやるじゃないか。だが結果はかわらんなあ」
一足飛びで篤志の眼前に現れた。息も掛かる至近距離だ。
まさに巨躯。
篤志はその動きをハッキリと捉えているが、身体が反応出来ない。映像がスローモーションで流れるが、回避が追いつかない。しっかりと状況を把握した時には、ルペルカスの腕が、腹を突き抜けていた。
噴出す血は腹部だけではなく、突き抜けた背中側からも大量に流れだしている。口からも、抑え切れない量の血が溢れ出した。
致命の傷を受けた割りに痛みは無い。ただ身体の真ん中に穴が空いただけ……。
「バスに乗ってた人間は全員私の子供となる。喜べよ。時間を掛けてじっくり熟成中だ。半端なやつじゃない。しっかり自我を持った第二世代だぞ」
耳元で呟いくルペルカスの声が鮮明に聞こえてくる。
「なあに大丈夫だ。そのうち魔術師様の誰かが殺してくれるだろうさ。それまで大人しくあの世で待ってるのだな」
かすみ始める目。指先ひとつまともに動かせない状態で、篤志はルペルカスの腕を掴むと一言「くそったれ」と口を開き、崩れ堕ちた。
腹部からは内臓が飛び出し、血溜まりを作っている。ひゅーひゅーと微かな呼吸音も数秒で聞こえなくなった。
ルペルカスは篤志の死体を一瞥すると、遺された無数の死体もそのままにその場を後にした。その際、彼は全身に強くこべりつく血の匂いに酔いしれ、充足感に満たされた余韻と、絶頂を迎えた後の倦怠感に包まれていた。
ルペルカスが消えて数分、一人、また一人とその場に群がる第三世代の孤児たち。山積みになった死体の山に牙を立てている。すでに事切れた女達の肉を喰らい骨を砕き、血を啜っている。その間、篤志の瞳は輝きを失ったまま虚空を見つめていた。