プロローグ
初投稿です。
末永くお付き合い頂ければ幸いです。
精一杯頑張りますのでよろしくどうぞお願いします。
時計の針は十二時を回り、人通りも少なくなった雑居ビルの路地に、速く、乱れた足音が響いている。つい数分前までは甲高く乾いた音を出していたヒールも今は折れ、一足ごとに鈍い音を響かせていた。
街灯は無く、月明かりが建物の冷たい壁を照らし、不気味な雰囲気を漂わせている。暗がりは深く、真後ろに迫った何かが、神経を掻き立てた。
全力で走る体は多くの酸素を求め、派手にまとめられていた髪も今では呼吸と共に乱れている。
新街の東側に位置する歓楽街の店を出たのは十分ほど前になる。
二年前から一人暮らしを始め、昼は小さな劇団で芝居を学び、夜はホステスで生活費を稼いでいた。
裕福な家庭ではあったものの役者を目指すことに反対した両親と対立し、勘当同然で家をとび出した。
その後は、未成年ということもあり多くの苦労を経験したが、祖父母が味方になってくれたおかげでなんとか生活することが出来るようになった。
祖父にお金のことは心配しなくて良いと言われたものの、自分の夢を叶えるために祖父母に全てを依存するのは、胸が痛く、また恥ずかしかった。両親を説得出来ず、逃げるように実家を飛び出し、絶対に役者になると決めたのに、結局ひとりの力では生活出来なかった。自分の甘さを痛感した時、まずはお金を稼ぎ、自立して役者の勉強をしようと思った。
最初はホステスとはいえ水商売をすることにかなりの不安はあった。しかし収入の高さに惹かれ思い切ってやることにした。
この日は日曜の夜ということもあり、客足は少なく、普段より一時間ほど速く終えることができた。まだ片付けをしている店長やボーイに挨拶をし、お店を出ていつものコンビニで水とお菓子を買ったあと、街灯のない路地を出来るだけ避けながら自宅へ向けて歩いた。
いつもは二十分もあれば自宅のアパートに帰り着き、テレビを点け、仕事用の派手なメイクを落とそうとしている頃合だ。
それが、なにが狂ったのか―
はじめは後ろにべっとり張り付くような視線を感じた。無視して一分ほど経つと、今度は自分の足音に合わせ、別の足音が聞こえてきた。
感覚ではまだ二十数メートル以上離れているように感じる。
その時、前方から自動車が近づいてきた。
自分の横をすり抜ける瞬間にあわせて後ろを振り返る。しかし誰の姿もなかった。
女は気を取り直し足早に進む。今は自分の足音だけが響いていた。
夜の歓楽街で働く関係上、ストーカーにつけられたり、追いかけられたことは何度かあった。そのため暴漢対策グッズは常に携帯している。何より幼い頃から気が強く、中学までは合気道をやっていたので護身術については多少自身があった。
さらに数分足を進めると、人の気配と共に足音が聞こえてきた。
しかし違和感を感じる。
聞こえてくるのは足音だけでは無かったからだ。
それは今までと違うのは低くうめく様な息遣い。
このまま歩き続ければ、暴漢の方が先手を取る形で襲ってくる。いくら撃退用の道具があっても、相手の出方次第では抵抗出来ないこともある。
怖くないと言えば嘘になるが、このまま手をこまねいているよりはマシだと思い、女は先手を取ることにした。
可能な限り自然に、焦らずバッグを探り、目当ての品を取り出した。そしてバッグを肩に提げなおす。右手に強力な撃退スプレーを持ち、左手にスタンガンを構え主電源を入れた。
出来ればただの勘違いで済んでくれることを信じ、静かに気合を入れ、意を決して後ろを振り返ると、今入れたばかりの闘志は一瞬で恐怖に変わった。
二十メートル程度離れたところに、予想とは遥かに違う何かが街灯に照らされていたからだ。
焼け爛れたような頭部に二つの角、目は赤黒い光を放ち、顔の半分以上を占める口からは大きな牙がはみ出している。
「ひっ」
思わず悲鳴が漏れる。
人で無いことが即座に理解できた。いくらつま先まで覆うような長い外套を羽織っていても、その恐ろしい顔をどうにかしなければ、バケモノであるを隠すことは出来ない。
両者の視線が交錯する。
赤目のバケモノは満面の笑みのようなものを零した。
女は本能に従い踵を返すと全力で走る。
このまま真っ直ぐ進むと大通りに突き出る。その後は適当に走っている車を止めるなりすれば難を逃れることが出来る。コンビニへ逃げ込むという選択肢もある。少なくともこの通りに居るよりは遥かにましだった。
しかし前方の大通りに面した道の真ん中で、赤黒い光が揺れた。
直感的に危険を感じた女は、やむなく右の路地へ入る。この小道は昼間でも薄暗く人通りも無い。絶対に避けたい場所だが、今は無我夢中で駆ける。
後方からは自分以外の足音が響き、追いかけてくる気配がある。
どれだけ時間が経ったのだろうか、実際には三十秒も走ってないが、とても長い時間に感じた。
しかし、女の気持ちとは裏腹に少しずつ確実に、低くうめく様な荒い息遣いが大きくなっていく。
右足のヒールが折れ、転びそうになるが、すんでのところで堪える。そのまま一心不乱に進んだ先で、女は絶句した。
路地を塞ぐかたちで、トラックが二台積み上げられ、進むことが出来なくなっていたのだ。誘い込まれたことに気づく余裕もないまま、なんとか越えられないか確認するがとても進める状況ではない。
気がつくと足音が消え、荒い息遣いが二つ、背面にある。
全身から血の気が引き、動悸が激しくなる。
左手のスタンガンは握ったまま、右手はどこか壁にでもぶつけたのか、擦り剥いて血が滲んでいるが痛みはない。それよりも心臓を締め付けるほどの恐怖が沸き上がる。
涙が溢れる。
目元の化粧が流れ始めた顔で、ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには赤目の影が二つあった。
「っ」
女が悲鳴を上げようとした瞬間、喉に衝撃を感じた。
声が出ない。
涙で前が見えないが喉を潰されたのは明らかだった。
抵抗することが出来ないまま、しゃがみこむ様に倒れる寸前、右腕に激痛が走り、体が上に引き上げられる。
腕に牙が刺さっていた。
その後も二つのバケモノは女の肢体を一気に喰いちぎり、腹部に顔を埋めると肉を裂き内臓に喰らいついた。
喉を潰され声を出せない女は何度も体をよじり、声無き声で叫び続け、血のあぶくを吐きながらついには絶命した。
その後も彼らの食欲は衰えることはなく、血を啜る音、肉を咀嚼する音、骨を砕く音をあたりに響かせていった。
女を食べつくしたバケモノは、おびただしい量の血と、裂かれた服、肩に提げていたバッグを残しトラックを軽々と飛び越えると、暗闇へと消えていった。
その時、遺された女の携帯がメールを受信した。
送信者は実家で暮らす妹からのものだった。三つ年下の妹とは喧嘩もしたが、よく姉を慕ってくれた可愛い妹だった。
姉に送られたメールは二十歳の誕生日を祝う、かわいらしいデコレーション付きの内容だった。
そのメールを見ることも無くこの世を去った女は、この街ではじまる恐ろしい事件の最初の犠牲者となった。
翌日、積み上げられたトラックと共に、大量の血痕が発見された。現場に残された荷物から、何らかの事件に巻き込まれたことが推測され、家族へ連絡された。
しかし行方不明とされてはいるが、現場に残る血痕、また砕け散った骨の欠片が散乱していたことから生きていないことは明白だった。
これから程なく、同様の事件が相次いで発生する。ある人は公園で、ある人は駅のトイレで、ある人は自宅で。
桜が咲き、新たな門出の季節を迎えた街に恐怖は少しずつではあるが、着実に広がり初めていた。