「では、明日の朝を楽しみに」~砂宮の魔女と噛み噛み竜将軍、転生設計士の一夜逆転劇~
「セラフィナ! お前との婚約を破棄する!」
建国祭の夜。
まばゆいシャンデリアの下、王太子ジェラルドの声が大広間に響き渡った。
「お前は冷たく、心がない女だ。私はこの温かいミレーヌを選ぶ!」
貴族たちがどよめく。
継妹ミレーヌが、勝ち誇った潤んだ瞳でこちらを見上げていた。
(ふうん。三年間、一言も労いをくれなかった男が、今さら私を『冷たい』ですって)
私は――公爵令嬢セラフィナ・ヴァン・アシュフォードは、内心でそっとため息をついた。
前世で建築設計士として徹夜続きの末に過労死し、この剣と魔法の世界に転生した私にとって、この程度の理不尽は驚くに値しない。
納期が三日縮んだときのほうが、よほど絶望的だった。
ミレーヌが、わざとらしく目元を押さえる。
「お姉さま、ごめんなさい。でも……ジェラルド様は、わたしを選んでくださったの」
(涙ぐんでいるつもりね。あいにく、演技の粗まで見えているのだけれど)
瞬きの回数が多すぎる。涙は一滴も出ていない。前世で徹夜明けに鏡を見た私のほうが、よほどまともに泣けていた。
むしろ。
(やっと、解放されるのね)
私は銀灰の髪をゆらし、砂色の瞳を静かに伏せて、優雅に一礼した。
「かしこまりました」
怒鳴りもしない。泣きもしない。
ジェラルドが、拍子抜けした顔で眉をひそめた。
「……なに? 泣いて縋りもしないのか。やはり心のない女だ」
私は顔を上げ、ただ、微笑んだ。
「では、明日の朝を楽しみに」
「……なんだと? 明日の朝が、どうしたと言うのだ」
「いいえ。なんでもございませんわ。どうぞ、お幸せに」
ミレーヌの笑みが、ほんの一瞬、凍った。
「(なに、あの落ち着き……気味が悪いわ)」
気味が悪い、で結構。
この白亜の王城が、なぜ五十年前から一度も崩れずに建っているのか。
その理由を知る者は、この広間にただ一人――私だけだった。
***
自室に戻ると、古参の侍女コーデリアが待っていた。
「セラフィナ様……よくぞ、耐えてくださいました。あんな仕打ち……」
涙をこらえる彼女に、私は微笑んでみせた。
「泣かないで、コーデリア。これは私にとって、望んでいた終わりなの」
「ですが、あの方々のなさりようは、あまりにも……」
窓の外に、月光を浴びて輝く尖塔がそびえている。
壮麗な白亜の宮殿。誰もがその美しさを讃える。
だが、私だけは知っている。
「ねえ、コーデリア。あなたは、この城が何で出来ているか知っている?」
「何、と申されますと……白亜の、美しい石ではございませんの?」
「砂よ。ぜんぶ、砂で出来ているの」
「す、砂……⁉ この壮麗な尖塔が、でございますか?」
彼女が目を見開く。
「五十年前、初代『砂宮の魔女』だった祖母様が、魔力で砂を固めて築いたもの。柱も尖塔も、その正体は凝結させた砂粒の集まりにすぎないわ」
私は小さな砂時計を手のひらに乗せた。祖母の形見。
「そして、砂の城には維持が要る。毎晩、血族の魔女が捧げる『固定の祈り』。それが一夜でも途切れれば――」
前世で叩き込まれた理屈が、そのまま牙をむく。基礎、荷重、水分管理。魔力という接着剤が切れた砂の塊が、自重を支えられるはずもない。
「まさか……その祈りを、セラフィナ様がお独りで……?」
「七歳で祖母様から役目を継いで、十二年。毎晩、たった一人で祈ってきた。誰にも気づかれず、感謝もされず」
『愛想がない』『冷たい』。
そう嗤われながら、私は感情を殺してこの国を支え続けた。
祈りの夜は長い。夜通し魔力を注ぎ、朝には指先の感覚がなくなっていた。そんな私に、誰ひとり「おつかれさま」の一言もくれなかった。
「そんな……そんな尊い務めを、あの方々は何もご存じないまま……」
「ですが、もう決めたの」
私は砂時計を握りしめた。
「――今夜限りで、祈りをやめます」
コーデリアが息を呑む。
「では、この城は……」
「ええ。夜明けとともに、砂に還る」
静かに、私は荷物をまとめ始めた。
「……分かりました。もう、あなたさまを縛るものは何もございません。どうか、今度こそご自分のために生きてくださいまし」
「ありがとう、コーデリア。この砂時計だけは、持っていくわ。祖母様の形見なの」
***
夜が更け、私は最小限の荷物だけを抱えて城門をくぐった。
背後で、白亜の宮殿が最後の月光に輝いている。
もう二度と、あの城のために祈ることはない。
「――待っていた」
門の影から、低い声。
漆黒の角、深紅の瞳。隣国ドラゴニア帝国の竜人将軍ヴァルド・ドラクレア。
戦場で情け無用の『氷血の竜将』と恐れられる男が、なぜかそこに立っていた。
(この人……三年間、毎晩スープを置いていってくれた人だわ)
差出人不明の温かいスープ。祈りで冷えきった夜、それだけが私の心を温めていた。
私はとっくに気づいていた。この不器用な竜人将軍が、その主だと。
「その……行くのか」
「ええ。この国に、もう用はありませんから」
「……そ、そうか」
ヴァルドの角の先から、ぽっ、と湯気が立ちのぼる。
私は、ずっと確かめたかったことを口にした。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか。差出人のないスープ……あれは、あなたですね」
「なっ……⁉ ど、どうして、それを……」
(角の先から湯気。分かりやすい人)
「祈りで冷えきった夜、あの温かさだけが救いでした。ずっと、気づいておりましたわ」
「……別に。ただ、その、寒そうだったから……それだけだ」
「ふふ。そういうことにしておきます」
彼は深紅の瞳を泳がせ、耳まで真っ赤にして、ついに絞り出すように言った。
「その、俺の国に……来ないか。城なら、砂じゃないやつを、いくらでも建てる」
(噛み噛みね。大陸中を震わせる竜将が、この有様)
「い、いや、変な意味じゃなくてだな……その、お前の力が、必要で……いや、力だけじゃなくて……」
耳まで赤かった顔が、今や角の先まで赤い。
大陸中を震え上がらせる竜将が、たった一人の令嬢を前に、可愛らしく狼狽している。
私は――生まれて初めて、心の底から笑いそうになった。
「ふふ。喜んで。あなたの国に、二度と崩れない城を建てて差し上げます」
「ほ、本当か⁉ ……いや、その、ありがとう。大事にする。城も、お前も……あっ」
言ってしまってから、彼は自分の口を手で押さえた。角から、いっそう勢いよく湯気が噴き出す。
(生まれて初めて、心の底から笑ってしまった)
「ええ。よろしくお願いしますね、ヴァルド様」
***
夜が明けた。
東の空が白み、朝日が王城の尖塔を照らす。
その瞬間――さらさら、と。
壮麗な尖塔の先端が、砂となって崩れ始めた。
「な、なんだ……⁉ 尖塔が、崩れて……」
寝間着姿のジェラルドが中庭に飛び出す。
目の前で、白亜の柱が音もなく砂山へと還っていく。
「そんな話は聞いてない! どういうことだ⁉」
崩れる壁。沈む床。逃げ惑う使用人たち。
「セラフィナ! 戻ってこい、セラフィナ‼」
だが、彼女はもういない。
継母オデットが、慌ててミレーヌの手を引いた。
「ミレーヌ! お前が祈りを継ぐのです、早く固定の魔法を‼」
「え……む、無理よ! やり方なんて知らない!」
「魔女の血を引くのでしょう⁉ さあ、砂を固めなさい、今すぐに‼」
ミレーヌが震える手を砂に向ける。
だが、魔女の血を継がぬ彼女には、砂粒ひとつ固められない。
「だから知らないって言ってるでしょう‼ お母さま、砂が、砂粒ひとつ固まらないのよ‼」
継母の顔が、みるみる青ざめていく。
「あの娘を……家の道具としか、見ていなかった。まさか、その道具がこの国そのものを……」
ジェラルドが、崩れゆく尖塔を見上げて、呆然と呟いた。
「『明日の朝を楽しみに』……あの女、これを……最初から、全部知っていて……⁉」
遅い。何もかも、遅い。
「どうして……わたしが選ばれたのに‼ わたしが正しいのに‼」
ミレーヌの勝ち誇った笑みは、とうに凍りついていた。
崩れゆく城の中、コーデリアだけが静かに佇み、遠い城門の方角を見つめていた。
「――『冷たい女』の本当の名を、教えて差し上げましょう」
彼女は誰にともなく呟いた。
「それは、感情を殺してまで、この国を独りで支え続けた者。その別名でございますよ」
王城は、一夜にして砂の海へと沈んだ。
王家は権威も居城も失った。
『砂上の楼閣』という言葉が、そのまま現実になったのだ。
***
ドラゴニア帝国。
晴れ渡った空の下、私は真新しい石造りの城壁の前に立っていた。
前世の建築知識と、魔女の魔力。その二つを融合させ、私は新たな役目を得た――『二度と崩れない都市』の設計者。
基礎はきちんと掘り、荷重を計算し、水はけまで設計する。当たり前のことを、当たり前に。砂の城とは違う、本物の城。
「セラフィナ」
背後から、ヴァルドが歩いてくる。手には、湯気の立つスープの椀。
「その……今日も、作った。甘いやつ」
「ありがとう。あなたのスープ、大好きよ」
「⁉ だ、大好き……っ、そ、そうか……そうか……」
角の先から、盛大に湯気が噴き出す。深紅の瞳が慌てて泳ぐ。
「ヴァルド様、角、噴いていますわよ」
「ふ、噴いてない‼ ……その、あまり、そういうことを、正面から言うな……心臓に、悪い……」
「あら。戦場では大陸中を震わせる竜将が、スープひとつでこの有様ですの?」
「う……うるさい。……でも、お前が笑ってるなら、いい」
(もう、感情を殺す必要はない。誰にも祈りを強いられない。ここでは、私はただの――幸せな一人の設計士)
ふと、荷物の底から、祖母の形見の砂時計が転がり出た。
崩れた王城の砂の中から、コーデリアが見つけて届けてくれたもの。
私は何気なく、それを手に取り、逆さに返した。
――ころり。
上の砂が、下へ落ちる。当たり前の光景。
だが、次の瞬間。
下に溜まった砂が、すう、と上へ逆流し始めた。重力に逆らって、砂が空へと昇っていく。
「……あら。この砂時計、逆さに返したのに……砂が、上へ昇っていくわ」
「は? ……砂が、逆流……⁉ おい、そんなこと、あり得るのか」
ヴァルドが目を丸くして覗き込む。
私は目を細めて、微笑んだ。
「ふふ。まだ、続きがあるみたいね」
「つ、続きって……なんの続きだ⁉ おい、セラフィナ、笑ってないで説明を……」
砂時計の中で、金色の砂が、静かに舞い上がっていた。
祖母様の砂時計が、逆さに流れる。
「――さて。今度は、いったい何を建てることになるのかしら」




