第6話 朝の工房
朝の工房は、思っていたよりうるさかった。
いや、昨夜の時点で十分にうるさかったので、朝になったら少しは静かになるだろうという期待そのものが間違っていたのかもしれない。ガラン機関工房の朝は、鳥のさえずりでも、爽やかな鐘の音でも、優雅な朝食の香りでもなく、金属板を叩く音、蒸気弁の試し吹き、誰かの怒鳴り声、そして寝起きのドワーフが喉の奥から絞り出すような低い咳払いによって始まった。
前世で自分の整備工場をやっていた俺としては、工房の朝というものにある程度の覚悟はあった。シャッターを開ける音、コンプレッサーの起動音、工具箱の引き出しを引く音、缶コーヒーのプルタブを開ける音、昨日入庫した車の嫌な異音を思い出して胃が少し重くなる感覚。そういうものには慣れていたつもりだった。
こちらの世界では、そこへ魔石炉の低い唸りと、天井配管から漏れる蒸気と、獣人少女の尻尾が工具棚にぶつかる音まで加わる。
…相変わらず情報量が多い。
昨日の夜、俺はボルツの「泊まる場所がねぇなら工房に寝ろ」という、親切と強制収容の中間みたいな扱いを受け、そのまま工房の二階にある空き部屋へ放り込まれた。
いや、空き部屋という表現には少々語弊がある。
正確には、「人間がギリギリ一人横になれる程度には床面積の残っている物置」だ。
階段を上がった瞬間から油と鉄の匂いが濃くなり、扉を開ければ、そこには部品箱、古い設計図の束、半分壊れた棚、脚の折れた椅子、用途不明の金属板などが雑然と積み上がっていた。どうやら「今は使わないが捨てる気もないもの」が集積される区画らしい。整備工場というのは大体どこの世界でもそうなる。もしかすると職人には、「いつか使うかもしれない」という呪いでもかかっているのかもしれない。
床の隅には古い魔導配管が束ねて転がっていたし、壁際には歯車の欠けた減速機が置かれていた。棚の上には煤だらけの魔石灯。しかもその隣には、なぜか片腕だけの金属マネキンまで立っている。夜中に目を覚ましたら普通に怖いやつだ。ホラー方面の演出が無駄に充実している。
とはいえ、俺に与えられた寝床そのものは、思ったより悪くなかった。
一応ちゃんとした寝台はある。
ただし硬い。
ものすごく硬い。
藁と布と板の間に「柔らかさ」という概念が存在していない。横になった瞬間、「ああ、これは腰に来るやつだな」と理解できる硬さだった。前世の俺なら翌朝に確実に呻いている。だが、そこはさすが元凄腕ハンターの肉体である。寝返りを打っても骨が悲鳴を上げない、四十代整備士としては感動すら覚える素晴らしい性能だ。
毛布は少し古びていて、干した布というより、長年工房の空気を吸って育った布の匂いがした。
油。
鉄。
煤。
あと少しだけ酒。
職人の工房特有の匂いである。
人によっては嫌がるだろうが、俺としては妙に落ち着いた。前世でも仕事着に染みついたオイル臭を「職業病だな」と笑われていた側の人間なので、むしろ安心感すらある。
宿代も払っていない身だ。
文句を言うつもりはない。
屋根があって鍵が閉まって、雨風をしのげて、横になれる場所がある。それだけで異世界一日目としては破格の待遇である。下手をすれば路地裏か廃車の荷台で夜を明かす可能性すらあったのだ。ボルツの世話焼き気質には本当に感謝している。
……問題があるとすれば。
寝台の横、つまり俺の枕元に置かれていた木箱の中身が、どう見ても分解途中の圧力弁だったことである。
しかも一個じゃない。
三つある。
サイズ違いで。
俺は寝る前に思わず箱を覗き込み、そのまま十分くらい観察してしまった。
古い型だ。
たぶん初期型の蒸気循環用補助弁。内部構造がかなり単純で、耐久性重視の設計をしている。だが、弁座の摩耗がひどい。片方は内部に煤が固着していて、もう片方は調圧バネが完全にヘタっていた。こんな状態で使えば圧が逃げず、最悪の場合は配管が吹く。
……いや、だからなんで異世界初日の夜に、俺は寝床で圧力弁の診断してるんだ。
しかも問題なのは、気になって眠れなくなったことである。
分解された機械というのはよくない。
整備士の前に置いてはいけない。
「あと少し触れば直せそう」が一番危険だ。
結局俺は、寝る前に一本だけと思って弁を手に取り、そのまま工具なしで分解状態を確認し始め、気づけば夜中まで構造を眺めていた。
完全に職業病だった。
翌朝、まだ頭の奥に薄く眠気を残したまま階段を降りると、工房はすでに動き始めていた。
朝だというのに静けさはない。
下の作業場からは、金属を引きずる音と、誰かが工具箱を開け閉めする音が絶えず聞こえてくる。遠くでは蒸気が抜ける甲高い音もしていた。どうやら始業前の機関点検をしているらしい。工房というのは不思議なもので、営業時間より少し前くらいが一番慌ただしい。仕事を始めるための準備が、実は一番仕事だからだ。
階段を降りきった瞬間、鼻に入ってきたのは、熱された鉄と朝一番の油の匂いだった。
昨日より少し空気が暖かい。
すでに誰かが炉に火を入れているのだろう。工房の中央では大型作業台の上に部品が並べられ、床には朝露の残る靴跡が点々と続いている。開きっぱなしの搬入口からは薄曇りの朝光が差し込み、舞い上がった鉄粉がその中で細かく光っていた。
その作業台の横で、ミラが大きな布を使って机を拭いていた。
布というより、ほとんど雑巾サイズの厚手の作業布だ。油汚れを落とすためか、端の方が黒く変色している。彼女は小柄な身体をめいっぱい使い、両手でぐいぐいと台を擦っていた。
猫系獣人らしい耳が、頭の上で時々ぴくぴく動く。
機嫌がいい動きではない。
眠い時の動きだ。
さらに言うと、尻尾も分かりやすかった。細長い灰色の尻尾が、床を叩くみたいに左右へゆっくり揺れている。あれはたぶん不機嫌寄りのやつである。猫を飼った経験はないが、なんとなく分かる。
しかもよく見ると、耳の付け根あたりの毛が少し跳ねていた。
寝癖だ。
獣耳にも寝癖ってつくんだな、と俺はどうでもいい感心をした。
本人は気づいていないらしい。
半分閉じかけた目で作業台を磨きながら、小さく欠伸を噛み殺している。たぶん朝は強くないタイプだ。だが、それでもちゃんと起きて働いているあたり、職人見習いというのはどこの世界でも根が真面目だ。
「おはようございます、黒狼さん」
「おはよう。できれば黒狼さんはやめてくれると助かる」
「じゃあ、ガルドさん」
「そっちで頼む」
「親方が朝から『黒狼はどこだ、飯を食わせろ、働かせろ』って言ってましたよ」
「順番がおかしくないか。飯のあとに働くのは分かるが、食わせる目的が労働力の確保になってる」
「親方なので」
「便利な説明だな」
ミラはにこりと笑った。昨夜より少し表情が柔らかい。こちらが機械の話でボルツと盛り上がったからか、単に工房飯を文句なく食べたからかは分からない。どちらにせよ、初対面よりは警戒が薄れている気がした。
工房の奥では、ボルツが朝から機関部に頭を突っ込んでいた。
赤銅色のひげが、整備台の下からもさもさとはみ出している。床に仰向けで寝転び、巨大なスパナを片手に、昨日の中型貨物車の軸受けを確認しているらしい。足元には外した部品が整然と並べられ、黒く焦げた濾過器が作業皿の上に置かれている。
「起きたか、ガルド」
「おはよう。朝から下回りとは健康的だな」
「寝起きに酒を飲むよりはましだ」
「比較対象が不健康すぎる」
「飯は食え。そこにある」
ボルツが無言で顎をしゃくった先には、工房の長机に並べられた朝飯があった。
大きめの木皿に盛られた黒パン。表面は焼き直されていて、ところどころ焦げ目がついている。隣には香辛料を強めにまぶした厚切り肉。さらに鉄鍋には、豆と刻んだ根菜をぐつぐつ煮込んだスープらしきものが入っていて、湯気と一緒に胡椒っぽい刺激臭が立ち上っていた。ついでに、錫のカップには色の濃い茶まで注がれている。
朝食としては、だいぶ重い。
いや、重いというか、「これから一日中働く人間用」の飯だ。
胃に優しく目覚めましょう、みたいな思想がまるでない。野菜中心の軽食とか、そういう概念はこの工房には存在しないらしい。朝から「食え。動け。働け」という圧を感じる。
普通なら少し身構える量だった。
ところが、問題は俺の身体の方だった。
めちゃくちゃ腹が減っている。
昨日の夜、あれだけ工房飯を詰め込んだというのに、朝になったら綺麗さっぱり消えていた。胃袋の中で夜中に誰か作業してたんじゃないかと思うくらい、見事に空腹だ。
どうやらガルドの身体は、見た目通りかなり燃費が悪いらしい。
そりゃそうだ。
この肩幅と筋肉量である。普通に生きているだけでもエネルギーを消費しそうだし、ましてハンターなんて危険業だ。大型魔導貨物車みたいな身体をしているくせに、燃料補給を怠ればすぐガス欠になるタイプなのだろう。
俺は内心で「維持費高ぇな、この身体」とぼやきながら、席についた。
ボルツはすでに食べ始めている。
分厚い腕で黒パンを半分に割り、そのまま肉と一緒に噛み千切っていた。食い方が完全に現場職人である。豪快だが無駄がない。ああいう人は昼飯もきっと早い。
「冷める前に食え」
「ああ、いただく」
まず肉を切る。
外側は強火で焼かれていて、脂がじゅっと音を立てた。中はまだ少し赤みが残っている。香辛料は粗めで、塩気が強い。噛むと肉汁と一緒に獣肉らしい濃い旨味が口の中へ広がった。
うまい。
シンプルにうまい。
牛とも豚とも違うが、癖はそこまで強くない。筋肉質な肉特有の噛み応えがあり、咀嚼するたびに「肉を食ってる感」がある。身体が勝手に喜んでいた。たぶん今の俺なら、この肉だけで白飯三杯くらい食えるだろう。
続いて黒パン。
こいつは見た目通り硬かった。
っていうかかなり硬い。
下手すると武器になるレベルだ。
表面は乾いていて、軽く叩けば木板みたいな音がした。しかしスープに浸して齧ると、中は意外と香ばしい。麦の風味が濃く素朴で、保存食寄りの味だ。贅沢さはないが、「毎日食うパン」としては悪くない。
豆の煮込みは塩気が強めだった。
肉と一緒に煮込んでいるらしく、汁には脂が浮いている。香草の匂いもかなり効いていて、汗をかく仕事人間向けの味付けだ。正直上品さとは無縁であるが、工房の朝にはこういうのでいい。むしろこういうのがいい。
最後に、金属カップの茶を飲む。
苦かった。
びっくりするくらい苦かった。
薬草茶に近い風味で、舌の上に渋みが残る。砂糖文化という概念が薄いのかもしれない。だが、不思議と嫌な苦さではなかった。油と肉の後だと、口の中が妙にすっきりする。
俺は気づけば夢中で食っていた。
身体の芯へ燃料が流れ込んでいく感覚がある。
病院食みたいに気を遣われた薄味ではない。
「働け」「動け」「生きろ」と言わんばかりの飯だった。
最高である。
「今日はどうする」
整備台の下から、ボルツの声が飛んでくる。
「まず、自分のことを調べに行く」
「自分のこと?」
「この身体の持ち主についてだ。黒狼だの伝説だの、あちこちで呼ばれるわりに、本人の記憶が曖昧すぎる。知らないまま動くと、どこかで大事故になる気がする」
「もうなってる気もするがな」
「軽微な事故扱いにしてくれ」
ボルツは整備台の下で笑った。
「ハンター協会へ行ったらどうだ。あそこはお前の家みたいなものだろう」
「…ハンター協会か。場所は?」
「商業区だ。中央広場から南へ行って、商会取引所の向かいにある石造りの大きな建物だ。看板に剣と歯車と獣爪の紋章がある」
「剣と歯車と獣爪。情報量が多い紋章だな」
「ハンターなんざ、戦って、運んで、壊す連中だからな」
「修理も入れてほしい」
「それはうちの仕事だ」
俺は朝食を食べ終えると、食器を片づけていたミラに礼を言い、ついでにボルツからハンター協会までの道順を聞いた。
「商業区の中央通りをまっすぐだ。デカい塔が見えるから迷わねぇよ。あと、受付の姉ちゃんに余計なこと言うな。面倒になる」
「それは俺の問題なのか、協会側の問題なのか、どっちだ」
「両方だな」
非常に嫌な答えが返ってきた。
まあ、今さらである。
黒狼だの伝説だの、妙に物騒な肩書きが勝手について回っている時点で、穏便な人生はだいぶ怪しい。
俺は苦笑しながら上着を羽織り、工房を出ようとして――ふと、足を止めた。
視線が自然と工房の奥へ向く。
そこには、昨日ボルツに見せられた旧長距離巡回車のフレームが、薄暗い空間の中に静かに横たわっていた。
昨夜、俺が勝手に“グランツヴァルト”と呼び始めた廃車だ。
工房の高窓から差し込む朝の光が、斜めに鉄骨を照らしている。埃の舞う空気の中で、錆びたフレームの輪郭だけが鈍く浮かび上がっていた。外装は剥がれ、機関は抜かれ、車輪も二つ足りない。配管は途中で切られ、荷台部分には解体途中の傷跡が残っている。
普通の人間が見れば、ただの廃棄寸前のガラクタだろう。
鉄屑置き場送りを待っているだけの残骸。
だが、俺にはもう違って見えていた。
頭の中では、すでに完成後の姿が勝手に走り始めている。
後部には寝台を置く。
壁際には折り畳み式の工具棚。
右側に簡易炉と調理台。
水タンクは重心を考えて中央寄りに固定。
床下収納も欲しい。
魔導炉心の熱が後方に回りすぎるなら換気口を追加する必要があるし、悪路を走るならサスペンション側にも補強を入れたい。どうせなら屋根には荷物ラックも欲しい。いや、観測窓も捨てがたい。長距離移動を考えるなら座席は絶対に柔らかめだ。あと寝袋だけじゃなく断熱も――
そこまで考えたところで、俺は小さく息を吐いた。
危険だ。
かなり危険である。
まだ買ってもいない。
そもそも動きもしない。
まともに走れる保証などどこにもない。
なのに、もう愛着が湧き始めている。
中古車選びで一番やってはいけない状態だ。
理性では分かっている。
「まず冷静に状態を確認しろ」「予算を考えろ」「部品供給を調べろ」「衝動で決めるな」。
整備士として散々見てきた。
中古車購入で失敗する人間は、大体みんな“惚れた顔”をする。
そして今、俺はその顔をしている自覚がある。
非常によくない。
分かっている。
分かっているのに、昨日からずっと負け続けていた。
俺はしばらく無言でフレームを眺め、それから諦めたように頭を掻いた。
「……まあ、まだ見るだけだからな」
その台詞を信じる人間は、整備業界には一人もいない。
「行ってくる」
「死ぬなよ」
「朝の挨拶が重い」
「黒狼相手なら軽い方だ」
そう言われても、こちらの中身は元自動車整備士である。今日の予定は、協会へ行って自分の情報を調べ、できれば金策の目処を立て、時間があれば部品市場を見て回ること。どう考えても平和な一日のはずだ。
はずなのだ。
俺は自分の“はず”が昨日から信用できなくなっていることに薄々気づきながら、ガラン機関工房を出た。




