第5話 旅の相棒
彼について工房のさらに奥へ進むと、空気の匂いが変わった。
鉄粉と油に混じって、長い間動いていない機械特有の、乾いた埃の匂いが鼻につく。現役の工房区画なら、どこかで必ず機関音や金属を叩く音が響いているものだが、その一角だけは妙に静かだった。まるで、役目を終えた機械たちの墓場みたいな空気がある。
奥の壁際には、大きな車両らしきものが布を被せられたまま置かれていた。
分厚い防塵布はところどころ油で黒ずみ、端は破れ、上にはうっすら埃が積もっている。積もり方からして、数ヶ月どころではない。たぶん年単位だ。周囲には木箱や金属ケースが乱雑に積まれていて、外された部品や配管らしきものも転がっている。使える部品だけ剥がして、残りは放置していたのだろう。
ボルツは無言で布の端を掴むと、そのまま力任せに引き剥がした。
ばさり、と重たい布が床へ落ちる。
舞い上がった埃が、工房の明かりの中で白く漂った。
現れたのは、大型魔導車の骨格だった。
俺は思わず足を止めた。
長い。
まず目についたのは、異様に長い車体フレームだ。前後へ真っ直ぐ伸びた鋼鉄の骨組みは、普通の輸送車よりひと回り大きい。荷運び用というより、長距離移動を前提に設計された車両に見える。車高も高い。地面との隙間がかなりあり、悪路走破を意識した構造なのが分かる。泥道でも瓦礫地帯でも、とりあえず突っ込んで進めそうな無骨さがあった。
車軸は太く、板バネも頑丈そうだ。
荷重に耐える前提なのだろう。少々積みすぎた程度では悲鳴を上げない設計をしている。実にいい。こういう「壊れにくさを優先しました」という作りは信用できる。見栄えばかり整えて中身が繊細な機械より、多少不格好でも頑丈な方が、旅の相棒には向いている。
後部には広い空間が残されていた。
おそらく元は大型荷台か、特殊貨物用の積載区画だったのだろう。外装は剥がされ、骨組みだけになっているが、その分構造がよく見える。幅もある。高さも取れる。木材と金属板で箱を組めば、十分に居住区画を作れそうだった。寝台を置いて、簡易机を固定して、壁際に収納棚を作って、片隅に小型炉と調理台を置く。雨風を防げるだけの断熱を入れれば、移動式の工房兼住居として成立する。
いや、成立どころか、かなり理想に近い。
前世で作りたかったキャンピングカーの図面が、頭の中で勝手に組み上がり始める。
問題は機関部だった。
車体前方の機関室は大きく口を開け、中身がほとんど空になっている。炉心なし。変換器なし。魔力循環管もごっそり抜かれている。残っているのは固定具と配線跡、それから油染みだけだ。外装板も剥がされていて、もはや「走っていた頃」を想像するしかない状態だった。
車輪も片側が欠けている。
正確には、後輪二つが外されていた。軸受け部分には古い油が固まり、固定ボルトには赤錆が浮いている。放置期間はかなり長いだろう。
はっきり言えば、廃車だった。
商会に持ち込めば、解体して鉄屑として売られる類だ。素人ならまず手を出さない。いや、玄人でも普通は避ける。欠品が多すぎるし、古い車両は部品規格が面倒だ。下手に修理するくらいなら、新型の中古車両を買った方が安くつく場合も多い。
けれど。
俺には、これがただの廃車には見えなかった。
むしろ逆だ。
これは、まだ死んでいない。
俺は自然とフレームへ近づき、膝をついて下回りを覗き込んだ。
歪みはある。
だが致命的じゃない。
前部フレームに軽いねじれがあるものの、熱を入れて矯正すれば十分戻せる範囲だ。腐食も思ったほど酷くない。表面錆はあるが、芯まで食っていない。補強材を数本追加すれば、まだ何年も走れる。むしろ古い分だけ鋼材が分厚い。最近の軽量化重視の車体より、無茶に耐えるかもしれない。
俺は指で車体を軽く叩いた。
鈍い金属音が、薄暗い工房の奥に低く響く。
ああ、いい。
安っぽい音じゃない。
ちゃんと「働く機械」の音だ。
それに、整備性がいい。
機関室の空間が広いので、内部へ潜り込みやすい。工具を振る余裕もある。これは大事だ。設計者によっては「どうやってこのボルト外すんだ」という狂気みたいな配置を平然としてくるが、この車両は比較的素直な構造をしていた。現場整備を想定していたのかもしれない。
古い規格なのは面倒だが、逆に言えば自由でもある。
どうせ純正部品は揃わない。
なら、自分で作ればいいんじゃないか…?
別系統の機関を積んでもいいし、魔力循環を組み直してもいい。補助炉を増設してもいい。居住区画を広げてもいい。荷台に工具棚を固定して、作業台を置いて、水タンクを積んで、できれば小型風呂まで――と、そこまで考えたところで、俺は気づいた。
顔がにやけている。
「こいつは?」
俺がそう尋ねると、ボルツは露出したフレームをごつごつした拳で軽く叩いた。
「十年前の長距離巡回車だ。元は街道保守隊の払い下げ品だな。橋脚の点検だの、街道灯の修理だの、魔獣避け結界の巡回だの、とにかく長距離を走り回るための車だったらしい。人も積めるし、工具も資材も積める。簡易寝台まで載ってたって話だ」
「へぇ」
「ただまあ、最後はかなり酷使されたみてぇでな。西側街道の崩落事故に巻き込まれて半壊。そのあと応急修理しながら何年か使ってたが、最終的に機関が吹っ飛んで廃車。うちが鉄屑同然で引き取った」
ボルツはフレームの側面を親指で指した。
よく見ると、鋼材の一部に焼け跡のような黒ずみが残っている。魔力炉心でも暴走したのだろうか。前方接合部には歪みを無理やり矯正した跡もある。普通なら、その時点で解体送りだ。
「部品取りにする予定だったんだが、妙にしぶとくてな、こいつ」
ボルツは少し笑った。
「切ろうとしても、やたら骨組みが残りやがる。古い軍用規格の鋼材を混ぜてるらしくてな。今どきの量産車みたいに簡単にヘタらねぇ。捨てるには惜しくて、結局ずっと奥に転がしたままだ」
「……いいな」
露出したフレームのひやりと冷たい鉄の感触が、指先から掌へ広がった。
傷だらけだった。
深い擦過痕。打痕。削れた角。錆の浮いた継ぎ目。何度も補修された跡。雑に盛られた溶接もあれば、几帳面に補強板を当ててある箇所もある。職人によって癖が違うのが分かる。力任せに直した場所もあれば、「まだ走れ」と願うみたいに丁寧に繋がれた部分もある。
たぶん、長く現場で使われてきたのだろう。
街道を走り、雨を浴び、泥を踏み、荷物を積み、人を運び、壊れては直され、それでもまた走らされてきた。
継ぎ接ぎだらけだ。
それなのに、不思議と惨めには見えなかった。
むしろ、「まだ終わってねぇぞ」と黙って睨み返してくるような図太さがある。
俺は思わず笑ってしまった。
こういう車は好きだ。
新品同然の高級車も悪くない。だが、本当に惚れるのはこういうやつだ。傷だらけで、泥臭くて、でも現場を知っていて、何度壊れても走ろうとする機械。
「車名は?」
俺が尋ねると、ボルツは肩をすくめた。
「正式な車両番号ならあったらしいが、とっくに削れて読めねぇよ。管理票もどっか行った。今じゃただの廃車扱いだ」
「そうか」
俺はフレームを見上げた。
名前、か。
その言葉で、前世の記憶が少しだけ胸の奥を掠める。
店の隅に置いていた、作りかけのキャンピングカー。
中古のランドクルーザーを何年もかけていじって、荷室を広げて、断熱を入れて、折り畳みベッドを組んで、簡易シンクを付けようとしていた、あの未完成の相棒。
実は、あれにも名前をつけるつもりだった。
いや正確には、候補くらいまでは考えていた。
さすがに四十のおっさんが、一人で車に名前をつけてニヤニヤしていたとは誰にも言えなかったが、整備士なんて案外そういう生き物である。長く触った車には愛着が湧く。エンジン音だけで機嫌が分かるようになるし、調子が悪い日はなんとなく顔色まで悪く見えてくる。
機械なのに、相棒みたいになるのだ。
俺はもう一度、目の前のフレームを眺めた。
高い車高。
広い荷台。
無骨な骨格。
旅をするための余白。
まだ何者でもない廃車なのに、不思議と景色が浮かぶ。
雨の街道。
山道。
夜の焚き火。
荷室で沸かすコーヒー。
工具箱の音。
遠い街。
知らない土地。
そのイメージの中で、ふと、一つの響きが頭に浮かんだ。
グランツヴァルト。
俺は小さくその名を口の中で転がした。
「……グランツヴァルト、か」
「なんだそりゃ?」
横からボルツが怪訝そうな顔を向けてくる。
「いや、なんとなくだ」
自分でも理由は分からなかった。
こちらの言葉なのか、前世の知識が混ざったのかも曖昧だ。ただ、その響きだけは妙にしっくりきた。
大きな森。
あるいは、輝く森。
そんな印象が頭に残る。
車に森の名前というのは妙かもしれないが、旅車というのは移動する拠点だ。休めて、積めて、帰ってこられる場所であるなら、森みたいな名前も悪くない気がした。
まだフレームだけの廃車だ。
機関もない。
車輪も足りない。
まともに走る保証なんてどこにもない。
それなのに俺の中では、もうこいつが旅の相棒になり始めていた。
ボルツが横からじろりと俺の顔を覗き込む。
「その目、買う気がある目だな」
「金額次第だ」
「夢は金で鉄になる」
「さっき聞いた」
「二度聞くくらいがちょうどいい」
俺は財布の重さを思い出し、軽くため息をついた。
さすがに大型車両のフレームを買って、機関を載せて、居住部分を作って、旅仕様に改造するほどの金が今あるとは思えない。ガルドが大金持ちなら話は別だが、路上で目覚めた男の財政を信用しすぎるのは危険だ。まずは所持金確認、身元確認、仕事探し。それから車両購入。順番は大事である。順番を間違えると、夢の車の中で空腹死する。
「今すぐは無理だな」
「だろうな」
「分かってて見せたのか」
「欲しいと思わせるのが商売だ」
「悪い商人だ」
「いい職人だと言え」
ボルツはフレームを軽く叩いた。
「こいつはしばらく置いてある。買い手がつかなけりゃ部品取りだ。お前が本気で旅車を作りたいなら、金と覚悟を持ってこい。魔導機関を学ぶ気があるなら、時々工房に顔を出せ。邪魔にならねぇ範囲でなら見せてやる」
「いいのか?」
「お前は機械を見る目がある。魔導を知らねぇ分、妙な発想もする。廃鉄区じゃ、そういう奴は案外使える」
「戦闘要員としてじゃなくて?」
「戦闘要員なら外にいくらでもいる。車の下を覗いて楽しそうな黒狼は一匹しかいねぇ」
「それは喜ぶべきか悩むな」
ミラが奥から声をかけてきた。
「親方、濾過器、洗浄終わりました!」
「おう! 軸受けも開けろ! ガルド、お前も来い。見るだけだぞ」
「手を出したら?」
「覚悟を出せ」
「支払いが重い」
俺は笑いながら、整備台へ戻った。
工房の中では、魔導貨物車の修理が再開されていた。濾過器から出た金属粉の量を見る限り、軸受けの損傷は避けられないだろう。回転機関を開け、傷の程度を確認し、必要なら削り直しや部品交換になる。魔導油の経路も清掃。炉心側の過負荷履歴も確認した方がいい。故障原因を一つ見つけて満足すると、再発する。どこの世界でも、整備は原因の奥を見る仕事だ。
俺はボルツの手元を見ながら、こちらの工具の使い方を覚えていった。
星噛みレンチは、星形ボルトに噛ませて回す。力をかけすぎると頭を舐める。魔線探りは、魔力線に沿わせると微弱に光る。断線箇所では光が途切れる。炉心抜きは絶縁された爪で魔石ホルダーを固定し、残留魔力を逃がしながら引き抜く。どれも理屈がある。理屈があれば覚えられる。理屈が分かれば直せる。
楽しい。
とても楽しい。
気づけば、俺は完全に夢中になっていた。
死んだはずなのに。
知らない世界なのに。
知らない身体なのに。
この工房で油の匂いを嗅ぎ、工具の重さを手に感じ、壊れた機械の原因を考えていると、不思議なくらい落ち着いた。前世で叶わなかった夢が形を変えて目の前に転がっている。しかも錆びて、歪んで、部品が足りず、修理費も足りない状態で。
実に俺向きだ。
きれいな新車を渡されるより、ずっと心が動く。
日が傾く頃、工房の外では魔石灯がともり始めた。青白い光が廃鉄区の通路を照らし、蒸気がその光をぼんやり滲ませる。遠くで誰かが笑い、どこかの工房で歯車が回り、車両の警笛が短く鳴った。ラグナートの廃鉄区は、夜になっても眠らないらしい。
ボルツは作業台に肘をつき、俺を見た。
「ガルド。お前、宿はあるのか」
「ない」
「飯は」
「串を二本食った」
「少ねぇな。ミラ、こいつに工房飯を出してやれ」
「親方、うち食堂じゃないんですけど」
「黒狼が腹を減らして倒れたら、うちの前に討伐隊が来るぞ」
「それは困りますね」
「俺も困る」
俺は素直にうなずいた。
ミラは呆れた顔をしながら、工房の奥へ向かった。しばらくして出てきたのは、黒パンと肉の煮込みと、湯気の立つスープだった。工房飯というだけあって、味は濃く、量は多く、見た目は雑だった。最高である。肉は少し硬いが、煮込みの香辛料がよく効いている。スープには豆と野菜が入っていて、腹に溜まる。
俺が黙々と食べていると、ボルツが酒らしきものを木杯に注いだ。
「飲むか」
「今日はやめておく。記憶が怪しい状態で酒まで入れたら、明日、自分が誰かさらに分からなくなるしな」
「賢明だな」
「珍しく褒められた気がする」
「褒めちゃいねぇ。壊れ物注意の札を貼っただけだ」
ミラが吹き出した。
俺も笑った。
異世界初日。
目覚めた街は、鉄と蒸気と魔石の匂いがした。
自分の名前すら少し怪しい状態で、黒狼などという物騒な二つ名を背負い、廃鉄区でドワーフ技師に拾われ、魔導車両の故障診断をして、工房飯をご馳走になっている。冷静に考えると情報量がおかしい。前世の俺が聞いたら、疲れているなら早く寝ろと言うだろう。
それでも、悪くない。
まったく悪くない。
工房の奥には、長距離巡回車の古いフレームが眠っている。
あれを直せば、旅ができるかもしれない。
居住箱を載せ、工具棚を作り、調理台を組み、寝床を確保し、魔導機関を整備し、道路事情に合わせて足回りを強化する。冷蔵庫のようなものも欲しい。水回りも必要だ。魔石の規格も覚えなければならない。こちらの免許制度も確認したい。やることは山ほどある。
夢が、やたら具体的な作業項目になっていく。
それが嬉しかった。
俺はスープを飲み干し、工房の奥にあるフレームへ視線を向けた。
「グランツヴァルト」
小さくつぶやくと、ボルツが片眉を上げた。
「何だそりゃ」
「あの車の名前だ」
「まだ買ってもいねぇぞ」
「仮だ」
「仮にしちゃ気合いが入ってるな」
「名前をつけると、直したくなる」
「厄介な客だ」
「自覚はある」
ボルツは木杯を傾け、にやりと笑った。
「なら、稼げ。黒狼だか車屋だか知らねぇが、夢を鉄にしたいなら金を持ってこい。知識はある。腕もたぶんある。足りねぇのは、この世界の作法と財布の厚みだ」
「どちらも重いな」
「車よりは軽い」
「それもそうか」
廃鉄区の夜は、蒸気と魔石灯の光に包まれていた。
俺の二度目の人生は、まだ始まったばかりだ。
世界の広さもこの街のことも、ガルドという男の過去も、魔導車両の仕組みも、分からないことばかりである。けれど、ひとつだけはっきりした。
この世界にも、直すべき機械がある。
この世界にも、走るための道がある。
なら、俺はきっと大丈夫だ。
まずは金を稼ぎ、魔導を学び、あの古いフレームを手に入れる。
いつか自分の車で、世界中を旅してみたい。
前世で置き去りにした夢が、ラグナートの廃鉄区で、ゆっくりと車輪を回し始めていた。




