第43話 私の選んだ未来
演劇が終わり、観客たちは家に帰る。
満足そうな顔。幸せそうな顔。
たとえ明日からはいつもと変わらない平凡な一日が始まるといっても、今宵感じた感動と興奮は消え去ることはなく、心のそこに種火となって残っていくのだろう。
私は、劇場の屋上にあるテラスに立ち、建物からゆるやかな川のように日常へと帰っていく観客たちをぼぅっと眺めていた。
つい先刻まで、私もこの観客たちと同じ場所にいた。
同じ場所で、同じ演劇を浴び、同じ感動を味わい、同じ涙を流していた。
私と彼らや彼女が違うのは、ただ単に、私が公演の主役と家族であるというだけの事であり、これから話をするのに、人が多いところではまともに話すこともできないから、このひと気のないテラスに招待されたのだった。
「ここから見える月は、ずいぶん大きく見えるね…つい先ほどまで、私、あそこにいたはずなんだけど、ね」
そう言いながら目を細めて夜空を眺めているのは、葵だった。
服は着替えているものの、かぐや姫のメイクは落としていない。それが彼女を、半分こちら、半分向こうにとどめているような独特な雰囲気にさせている。
「かぐや姫、あなたをさらっていった月人は今はどこにいったんです?」
笑いながら葵にそう語り掛けたのは、紫苑さん。
流した汗で着ていた服がびっしょりと濡れている。月明りに照らされた金色の髪は淡く輝いていて、陳腐な言い方になるけど、この世のものとは思えない美しさを醸し出していた。
「月人…ああ、詩織さんのこと?」
「そう。あなたの劇団の…元エース」
「元、ね…私はまだまだ、あの人に追いついた気はしないんだけど」
それでも、その称号、受け取っておくよ。
今宵の私は…それだけの権利がある、と思うから。
葵はそう言うと、テラスの端に行くと、再び夜空を見上げた。
まるで、早くそこに帰りたい、とでも言いたそうに。
「詩織さん、好きな人に会いに行ってるよ」
「好きな…人?」
「詩織さん、昔からずっと好きな人がいたみたいで、今日の公演にチケット送って誘っていたんだって」
「そう…そうなんだ」
あはは…あははははは。
そういえばそうか。
そう言っていたね、あの人。
紫苑さんは額に手を当てると、嬉しそうに笑っていた。無邪気な笑い。明るく、乾いた笑い。あんまりおもしろかったのか、せき込み、身体をくの字に曲げる。
「そういう紫苑さんのお連れさんは何してるの?」
「私の…連れ?」
「うちの新しいスポンサー」
「あぁ、色葉のことか」
紫苑さんは葵の方を振り向くと、目の端に先ほど笑いすぎて流した涙の痕を残しながら、軽い口調で答えた。
「人の恋路に興味はないから、終わるまで下で待ってる、ってさ」
「そうなの?あの人、紫苑さんに執着しているように見えたけど」
「執着してるよ。色葉、私にぞっこんだから」
なんといっても、私のご主人様だしね。これまでも、これからも。
なにがあってもこの関係はもう壊れないから、私がどこで何をしようとも…誰を好きで、誰と付き合おうとも、問題ないんだってさ。
あはは。
あははははははは。
あは。
「それで」
紫苑さんはふいに笑顔から真顔にもどると、真剣な目で、私を見つめてきた。
風が吹いてくる。
テラスから見える夜景は、まるで眼下に星空が広がっているかのように錯覚させられる。
そして夜空を見上げると、本物の夜空も広がっている。
私は、空と空の間で、今宵の演劇の2人の主役を目の前にして立ち尽くしていた。
「私と葵」
「私か、紫苑さん」
「「どちらを、選ぶつもり、凛?」」
2人の声が重なる。
2人とも、自分が選ばれるのだと信じているのが分かる。
それだけの劇を…それだけの告白を…私に伝えることが出来たのだと、信じているのだろう。
どんなに雄弁な告白なんかより、一度も直接名前を呼ばれることのなかった先ほどまで劇中での彼女たちの姿や声こそが、私に突き刺さるのだと…知っていたのだ。
そしてそれは、正しかった。
「…凛ちゃん…」
かぼそい声が、私の背後から聞こえてくる。
風に吹き飛ばされそうな、小さな声。
私の影に隠れて、震えていて、2人を見ようともしていない。
元から小さい身体をさらに小さくして、吹き荒れる暴風雨から身を守ろうと縮こまっているかのように感じられる。
(ごめんね、陽花里)
私はそんな陽花里の存在を、息遣いを感じながら、それでも振り向こうとはしなかった。
(私は…もう、決めたから)
選択、したから。
私は一歩、前に出ると、はっきりと、葵を見つめた。
今宵は満月。
月明りに照らされた葵は、本物のかぐや姫に見えた。
「葵」
「凛…」
嬉しそうに、近寄ろうとする葵。
一瞬で、かぐや姫が葵に溶けていった。
つい先刻までの、鬼気迫るような演技じゃない。葵の、素の葵が表に出てきて、かぐや姫の仮面が脱げ落ちていく。
「私…」
「もう10時だね」
どのような矢も刀も光も届かなかったかぐや姫が、私のたった一言に突き刺されたのが分かった。私の言葉はどんな名刀よりも深くしっかりと、葵を刺し貫いていた。
「あと2時間経ったら…」
24時を過ぎたら。
日付が変わったら。
月が変わったら。
「家族に、戻ろう」
彼女ではなく、家族でいたい。
それは葵の望みと違うのだと分かっていたけど、私の選んだ選択は、そちらだった。
「…私は…やっぱり…」
凛の彼女に、なれない?
かぐや姫を演じている時、あれほど明朗だった葵の声は、今はか細く震えていた。力なく消えそうで、それが葵の本当の声なんだと分かる。
私は優しくない。
私は…ひどいと思う。
それでも、葵は…大事な家族だから…はっきりとちゃんと伝えなければいけないんだと思う。
「ごめん、見れない」
葵は、家族だから。
「葵、さっきの劇、すごかったよ。感動…したよ。あんな葵を見ていたら、誰だって葵のこと、好きになるよ」
「…」
「葵、劇の中で、たくさんたくさん、私のこと…呼んでくれたよね。好きだって、伝えてくれたよね。言葉は違っていても、でも、その想いは伝わってきたよ」
でもだから。
気づいちゃった。
「葵…かぐや姫を演じている時…私のこと…忘れた時、あったよね」
私を好き、というのは本当だけど、でも、それ以上に、葵が好きなのは…求めているのは。
「舞台の上の、何にでもなれる、自分」
思えば、昔から、葵は演じていた。いろんなものを演じていた。中学生の文化祭の時も、高校になってからも、卒業してからも、日々の生活の中でも、ありとあらゆるものを、真剣に、まっすぐに、純粋に。
時折、私の傍で、その仮面を外していたけど。
それが葵の本性で、本音で、私のことが好きな、葵自身だと思っていたけど。
本当は。
演じている姿も全部ひっくるめて、全てが、全部が、葵だったんだ。
「…私はたぶん…これから先…どこまでも…なんにでもなれると思う…」
ぽつり、ぽつりと、葵がつぶやく。
「今日…分かっちゃった…私の心の中に…今でも、かぐやがいる。これからも…もっともっと…増えていく…」
顔をあげて、私を見つめてくる。
葵のメイクは溶けかけていて、素顔が見えているはずなのに、まるでその素顔の方が演じているみたいで。
「…でも、私、何にでもなれるけど…」
最後に、笑って。
泣いて。
「凛の彼女にだけは、なれなかったよ」
本音だけがきらりと光って、そして消えていった。
「紫苑さん」
輝く金色。
悔しいほど綺麗。
失ったはずの自信が、今は前よりも何倍も輝いて戻ってきている。
それだけのことを紫苑さんはしてきたし。
それだけのことをしているという自覚も責任も、ちゃんあるのだろう。
むかつく。
だから、言ってやった。
「むかつきます」
「ちょっと、凛」
それが私の告白に対する返事なのかい?と紫苑さんが少し困惑しながら答えてきた。その表情を見れただけで、少し胸がすっとした。
だいたいその通りだった。
私は、紫苑さんにむかついていた。
そもそも、たまたま私が紫苑さんのお店でお酒を飲んだのが始まりだったんだ。
世の中にはたくさんのバーがあるというのに、よりによって紫苑さんの店を選んでしまったのが、間違いだったんだ。
私の胸の中には未来しかいなかったのに。
ずっとずっと、この想いだけを抱えて生きていくつもりだったのに。
愛する人なんて、もう他に現れないと思っていたのに。
どうしようもなく引かれ合ってしまう関係、逃げようとしても、逃げたとしても、見なくても耳をふさいでいても、どうあがいてもたどり着いてしまう未来、それを一言でいえば、運命、というのだろう。
私と紫苑さんが出会うのは…運命、だったのだろう。
「一度しか言いませんから、ちゃんと聞いてくださいね」
私は、息を吸った。
一瞬だけ、空を見つめる。
綺麗な満月。
そういえば、紫苑さんに始めてあった日も…満月だったな。
あの日、私は、月に向かって叫んだな。
愛している人の名前を。二度と変わることのないと思っていた、愛している人の名前を。
あの時語った名前は、未来。
永遠に残る、私の一番の宝物の名前。
そしてこれから言うのは…
どうしようもなく惹かれてしまった、私の運命の人の名前。
…むかつくけど。
「紫苑さん…私、あなたのことを…愛しています」
どうしようもない。
私の心が、魂が、紫苑さんのことを認めてしまったのだから。
私は、抗えない。
私は、紫苑さんを愛している。
むかつくけど、愛している。
これは運命だ。
人は、運命からは、逃れられない。
笑顔を浮かべる紫苑さん。
月より綺麗。
素敵。
だから私は。
運命ではなく。
自分の意志で。
選択をした。
「私の彼女は、陽花里だけです」
運命なんか知るもんか。
私は、私の未来は。
私が自分で、自分の意志で、選ぶんだ。




