第42話 かぐや姫の物語
8月の最終日。
私と葵の恋人関係の終わりの日。
時刻は夜の7時。
私と陽花里は、劇場の中にいた。
席はちょうど真ん中あたり。赤いシートに座り、一種独特の高揚感に包まれる。宣伝の効果がすごかったからなのか、劇場は満員だった。
(舞台の前に、少し低い空間があるんだ)
以前見た劇場と今回の劇場とは違っていて、前回は200人ほどのキャパだったのだけど、今回の劇場は1000席を超える大型の劇場だった。
その最前列の客席の前に、一段低い場所があり、演奏はそこでするらしい。
「オーケストラピットっていうらしいよ」
私が不思議そうに見ているのに気づいたのか、隣に座っている陽花里がそっと耳打ちで教えてくれた。
有難う、と小さな声でいうと、どういたしまして、とほほ笑んでくれる。
その笑顔の中に、なんともいえない寂しさがにじみ出ていた。
(陽花里…)
今夜の演劇鑑賞、陽花里は最後まで反対していた。それなのに、その反対を押し切って、私は参加を決意し、いま、ここにいる。
陽花里も、ついてきてくれた。
本当は来たくなかっただろうに、それでも、「…少しでも長く、凛ちゃんと一緒にいたい…」と言って、私の後ろについてきてくれた。
こんなに、私を想ってくれているのに。
音が、聞こえてきた。
先ほど見た、オーケストラピットの中から、押しとどめようもない音が、あふれ出てきている。
一段低いところだから、演奏している人の姿は見えない。もしも私が座っているのが二階席だったら覗き見ることが出来るのかもしれないけど、少なくとも今座っている席からは見ることはできない。
それでも。
(紫苑さん…)
姿は見えないのに、そこに紫苑さんがいるのがはっきりと伝わってきた。
音楽が、音が、目で見るよりも雄弁に、「私は、ここにいるよ」と私に訴えかけてくる。
まだ劇が始まってすらいないのに、私はすでに、見えない手で心臓を鷲掴みされているような気がしてきた。
紫苑さんの音は…私に突き刺さる。
それは、痛みと快感を同時に私に与えてくる。
(…っ)
右手が、暖かくなる。
横を見る。
陽花里が、手を伸ばして、私の手を握ってきていた。
(私は、ここにいるから)
と伝えてきてくれているような気がする。
紫苑さんの音楽に連れ去られそうになっていく私を、必死につなぎとめようとしてくれている気がする。私を縛っていた陽花里の鎖と錨はすでに朽ちて無くなっているのに、それでもなお、柔らかい手で死に物狂いで私との繋がりを求めてくれている。
(…うん、分かってる)
私も、その手を握り返す。
ぎゅっと握ると、ぎゅっと握り返される。
大海原の中、壊れたボートの破片にしがみつき漂いながら、2人で手を握り、月明りの下で頑張っている、ような光景を夢想してしまった。
そして、公演が始まった。
■■■■■
かぐや姫の物語。
竹取物語。
日本人なら誰でも知っている物語。
月から来た姫が、月へと帰っていく物語。
そのかぐや姫が…葵だった。
(葵…だよね)
私の知っている葵は、私のことが大好きで、生まれた時からずっと知っていて、夢を追いかける頑張り屋さんで、時々私の家にやってきては私と過ごしていく寂しがり屋で。
(違う)
いま、目の前で動いているのは、葵であって、葵ではなかった。
(かぐや姫)
幼いころから物語の中で親しんでいたかぐや姫が、そこにはいた。生きていた。まるで絵巻物から抜け出てきたようなその姿とふるまい。
遠く離れた席からは指先の小さな動きまで把握することは出来ないはずなのに、その指先の動きどころか、爪の先、流れる髪、まつげの動き、呼吸する唇、全てが私に伝わってくる。
演じているとは思えない。
本物が、そこにいた。
(葵)
私の、ふたご。
私の、今は、恋人。
劇場内にいるすべての観客の視線が、葵に、かぐや姫に集まっている。その一挙手一投足に劇場が揺れる。空気が振動する。
(それが、私の恋人)
なんていやらしい優越感なのだろう。私は自分の中の醜い部分を見せつけられたような気がしてしまった。
純粋で、真剣でにかぐや姫を演じている葵に対して、私はただ、席に座って眺めつつ、えもしれぬ優越感に浸っているだけの小さな存在だ。
(釣り合わない)
そう思ってしまった。
人の前には見えない線が引いてあって、それを乗り越えることが出来る人と、出来ない人が存在する。
葵は、超えていく人で、私は線のこちら側にとどまる人間だ。
観客の熱狂がそれを証明している。
1000人の観客の2000の目が葵だけを見つめている。
この熱狂は劇が終わった後、家族や知り合いに伝播し広がっていくことだろう。
(葵は、遠くに行くんだな)
今夜までの恋人関係が終わった後、葵と私の住む世界は違ったものになる、そんな予感が私の中に広がっていく。
広がっていった、のだけど。
(見てる)
葵が、私を見ている。
そんなはずはない…と思った。1000人以上もいる観客の中で、ちっぽけな私を見つけることが出来るわけなんてない。
私はその他大勢の群衆の1人で、ただの舞台装置のひとつにすぎなくて、それで
(違う)
間違いない。
葵は、私を見ている。
かぐや姫が、私を見ている。
見て。
私を見て。
私だけを見て、凛。
あなたの恋人を、しっかりと見て、離さないで、凛。
そう語り掛けているのが、分かる。伝わる。
(どうして)
(なんで)
(あなたは、そんなにも才能に満ち溢れているのに)
(人から、世界から、求められているのに)
(私なんかを)
(愛してくれるの?)
手が握られる。隣に座っている陽花里が、必死に、小さな身体で全力で、私を求めている。いかないで、って言っている。
(あ)
音が、聞こえてきた。
耳をとじることが出来ない。
私を求め、私を探し、私を突き刺そうとする、音。
(紫苑さん)
金色の音。
かぐや姫の物語も、終盤。
月からの迎えが、かぐや姫を取り戻そうと来ていた。
かぐや姫を守るために、たくさんの武士が、月人に向かって弓矢を放つ。それは全て曲げられ、月人には届かない。
神秘的な音。
蠱惑的な音。
心臓をつぶす音。
紫苑さんの奏でる音は、見えないのに、みえる。
手を伸ばして、からみついてくるのが分かる。
(行かないで)
陽花里が、震えている。
必死に、私をつなぎとめようとしてくれている。小さな手。可愛い手。私の大好きな手。柔らかい手。
色彩溢れた音楽が私を包み込んだ。
紫苑さんの声。
かぐや姫の物語のクライマックス。
見えない場所にいる紫苑さん。
観客全員に聞かせる音楽。
1000人に届く声。
誰か1人の為に奏でることなんて、できるはずがない。
はずがない。
のに。
(なんで)
なんで、分かるのだろう。
どうして、伝わるのだろう。
紫苑さんも。
私を。
(求めてくれてる)
探している。
会場に響き渡る音が、声が、漂いながら、私を探している。
私だけを、探してる。
(見つかった)
青い音楽が、私を見つけた。飛び込んでくる。それに続くように、また別の色の音が私に向かってくる。
会場内に漂う様々な色が、色彩が、全て私めがけて集中してくる気がする。
(愛してるよ)
音が、声が、雄弁に私に語り掛けてくるのが分かる。
見えない紫苑さんが、私をみつけて、笑っている気がする。
(どうだい、私、すごいだろう?)
(凛を見つけたよ)
(そこにいるんだろう?)
(ほら)
音が耳に入り、心を溶かし、全身に広がっていく。
紫苑さんの歌は、声は、存在は、
(気持ちいい)
蕩ける様に私にまとわりつき、そして時折刺激をもって突き刺してくる。
(愛してる)
(愛してる)
(私は、恋を知らなかった私は、凛で、凛のおかげで、恋をしれたんだ)
(だから)
(ほら)
(こんなに、すごくなれた)
(ここまで、これた)
かぐや姫が、さらわれていく。
月人に連れ去られて、育ててくれた翁も婆も、帝も全てを置いて、月へと去っていく。
一種、諦めにも似た表情。
連れ去られていくかぐや姫は、笑っているように見えた。連れ去られていくように見えて、実は本当は、ただ自分が帰りたかっただけなんじゃないだろうか。月人の襲来をただの言い訳にしていただけなんじゃないだろうか。
かぐや姫の帰る場所はどこだろう?やはり、月かな。
葵の帰りたい場所はどこだろう…月…葵にとっての月って、どこだろう。
舞台に誰もいなくなり。
ただ、音楽だけが残った。
月の歌声。
紫苑さんの歌声。
愛に、満ち溢れていた。
(なにが恋を知らなかった、よ)
むかつく。
愛しかないじゃない。
愛だけしかないじゃない。
恋を知って、歌えなくなった、と聞いたのに。
恋を知ってからの歌の方が…すごいじゃない。
(以前の歌は…恋を求めていた)
知らないから、欲しいから、救いを求めていた。
だから紫苑さんの歌を初めて聞いた時、私は、泣いたんだ。
愛してる、って伝えてくれていたのに、まったく愛を感じなかったから。
それが、寂しかったから。
(でも、今の歌は)
暖かい。
紫苑さんの心が、直接伝わってくる。
愛してるよ、って。
むかつく。
私は泣いていた。
恥ずかしいことじゃない。いろいろ、墜ちてきたから。
結局、そうだったんだな。
どうして私が最初から紫苑さんにだけはむかついていたのか、それが分かった。
手が、握られる。
陽花里の手。私の大切な人の、手。
行かないで、って伝えてくれている。
演奏が終わり。
一瞬の静寂の後。
劇場内は、割れんばかりの拍手で包まれていた。
みんな、泣いていた。
たぶん、いろんな感情がある。でも、私と同じ感情を持った人は、いないんじゃないかな。
私は劇の中で、2人に、葵と紫苑さんに、告白されていた。
直接の言葉じゃなくって、心が、魂が、それを理解していた。
拍手の中、隣を見る。
陽花里が…泣いていた。
その涙の意味は、なんなのだろう。
ただ、陽花里は、私の手を握ったまま、離そうとはしなかった。
拍手の中、私は陽花里だけに語り掛けた。
「…葵は…私の、ふたごだよ。葵は私を求めてくれているけど…でも、葵が必要な世界は…私じゃ、ない」
期間限定の恋人。
今日で、終わり。
でも葵には…行くべき世界が、ちゃんとあると思う。
それは、葵にしか、いけない道。
「…紫苑さんは…?」
泣きながら、ひくつきながら、たぶん答えを分かっていながら、それでも、陽花里はちゃんと私に聞いてきた。
だから、私は。
はっきりと、答えた。
「私は…たぶん」
ううん。たぶん、じゃない。
初めて会った時から、あのお酒を飲んだ時から、ライブで声を聞いた時から、最初から、私の心は。
「紫苑さんを、愛している」
舞台ではカーテンコールが始まっていた。




