第40話 嵐の前の海の底 ~前編~
バイトも、何もしていない大学生の夏休み。
8月もあと少しで終わる週末の午前中、私はリビングのソファに腰掛け、何をするでもなく、ぼぅっとした時間を過ごしていた。
なんとなく、テーブルの上に置いてあるパソコンの電源を入れる。何の変哲もない壁紙が画面に映り、私はマウスを動かすと、メディアプレーヤーをクリックする。
音が、部屋に溢れる。
流れてきたのは…陽花里が大ファンの…紫苑さんの歌。
色とりどりの声が部屋中を駆け巡っていく。この歌は、まだ紫苑さんが恋を知らなかった頃の歌だ。恋を知らず、愛を知らず、ただ、知らないそれを渇望して求めていた頃の歌だ。
(私を…)
紫苑さんが、知らなかった頃の歌だ。
リズムに合わせて、膝の上で指が自然と動いていた。タップダンスを踊るかのような私の指先は、まるで私の意志に反して、私から独立して勝手気ままに生きているかのようだった。
「凛ちゃん、おはよう」
まだ眠そうな声で私に語り掛けてきたパジャマ姿の陽花里が、自然に、私の隣に座ってくる。
陽花里の重みでソファが少し沈み、そのままこてっと陽花里は私に身体を寄せてくる。
朝の、ふわっとした陽花里の匂いがただよって来て、私は先ほどまでタップダンスを踊っていた指の主導権を取り戻すと、陽花里の肩に手を回して、そっと抱き寄せた。
2人の間でしばらく沈黙が続き、その間、紫苑さんの歌声だけが自由気ままに部屋中を飛び回っていた。
「…凛ちゃん、とめて」
「陽花里?」
「いま、聞きたくない」
「陽花里、この曲大好きだったよね?」
「うん。好き。大好き。でも、今は嫌い」
凛ちゃんは、少し、無神経。
陽花里は頬を膨らませてそう言うと、私を見つめ見上げてくる。
「凛ちゃんを…獲られたくない…」
目が、潤んでいる。瞳が、揺れている。
陽花里は、自分でパソコンを触ろうとはしない。少し手を伸ばせば、自分でも止めることが出来るのに、それをせず、あくまで私に、私自身の手で止めさせようとしてくる。
「…好き」
陽花里が私に向ける愛は、深い。表面はまるで穏やかな海のようで、風に吹かれるたびに表面は少し揺れるけれども、一度その中に入り込んだなら、とたんに周囲を包み込むように取り囲み、足首に錨をつけて、ずっと奥まで一緒に沈み込んでいく。
一途に求められる悦びと同時に、ちょっとだけ、海面に顔を出して外の空気を吸いたいな、という気持ちも湧いてくる。
でも陽花里はそれを許さずに、さらに鎖と錨を増やして私に絡みつき、海底へと誘って離さないのだ。
沈みながら見上げる海面は、キラキラと輝いて私を誘っているようにみえるのだった。
「私も、陽花里が一番、大事だよ」
そういって、手を伸ばし、パソコンを止める。
音が消え、私と陽花里の呼吸音と心臓がとくとく動く音だけが、小さく聞こえてくる。
(一番、大事)
間違いない。
私にとって、今、一番大事なのは陽花里であって、紫苑さんじゃない。
そう思いながら、
(でも、私、さっき)
陽花里が言ってくれた、「好き」という言葉に対して、「好き」とは返さなかったな、とぼんやりと思い、浮かんだ想いを払拭するかのように、陽花里を強く抱きしめて、その身体の暖かさを感じたのだった。
■■■■■
お昼は、外で食べよう。
あのままずっと部屋の中にいたら、何かが壊れてしまう気がするから。
私は陽花里に「何か美味しいものを食べに行こう」と提案をすると、陽花里は嬉しそうに、
「デート、しよっ」
と返してきた。私は苦笑すると、そのまま陽花里の頭をくしゃっと撫でて、
「うん。デートしよう」
と答える。
2人で余所行きの服に着替えて、手をつないで、外に出る。
ちなみに、着替える時、陽花里はじーっと私を見つめていた。下着姿になった時も目を離さなかったので、「陽花里のえっち」と伝えると、慌てて顔を真っ赤にしながら向こうを向いて「だって…好きなんだもん」と肩を震わせながら言うのが可愛かった。
陽花里にはそう言ったくせに、私は陽花里が着替えをするのを堪能しながら見ていたので、よこしまなのはたぶん私の方だとは思う。反省。でも眼福眼福。
「何にする?食べたいものある?」
「うーん、凛ちゃんと一緒なら、何でもいいんだけど…」
でも、中華とかいいかも。または、インド料理とか。
「つまり、ラーメンかカレー、ってことでいいの?」
「せっかくのデートなんだから、もうちょっとお洒落なお店の方がいいかな…」
陽花里はすっかり上機嫌になり、私の腕に絡みつきながら歩いている。
ちっちゃな体に似合わないほど大きな胸を私に押し当ててきて、わざとかな、と思ってしまう。
8月下旬の太陽は、ほんのりと秋の気配が混じりこんでいるものの十分に暑く輝いていて、私や陽花里、それに道行く人々の頭上を明るく照らしている。
歩きながら、ビルのガラスに映る私と陽花里の姿を見る。
女同士で手を組んで歩いている姿は、すごく仲のいい友だち同士のようでもあり、恋人同士のようにも見えた。
(やっぱり、陽花里、可愛いなぁ)
直接見るよりも、こうやって間接的に見る方が、自分たちを客観視することが出来て、純粋な感想が浮かんでくるのかもしれなかった。
可愛い、意外にもっと適切な表現方法があるのかもしれないけど、あいにく私の語彙力は貧相なものであり、他にうまい言葉が見つからなかった。
だから。
「陽花里、可愛いよ」
直接、そう本人に伝える。
「…っ」
陽花里の顔に朱が刺され、顔を背け、でも身体はより密着させてくる。もしも今が外でなく、こんなにたくさんの人に囲まれてなく、部屋で2人きりとかだったら、間違いなくキスしてくるか首筋を舐めてきただろうな、と思うと少し残念な気がしてきた。
「陽花里」
この可愛い生き物を、さぁどうやって料理してあげようか、と思った時。
音が。
音楽が、聞こえてきた。
大通りを、アドトラックが大音量を響かせながら走っていた。
車体に、煌びやかな十二単を身にまとったかぐや姫の姿が描かれている。
(…葵!?)
私が見間違えるはずがない。
足を止めて、そのアドトラックを眺める。
8月31日、ついに公開!
前代未聞のかぐや姫が現代によみがえる!
あなたもその目撃者となろう!
宣伝。
葵の、かぐや姫の、宣伝。
「あ…」
紫苑さんの、歌声。
アドトラックから、紫苑さんの歌声が流れてきている。
道行く人の中に、スマホを手に取り、トラックを撮影している人が何人もいるのが見えた。
「…」
陽花里が、私の手を握り締める。
紫苑さんの歌声から離れて外に出たはずなのに。
忘れて、陽花里とデートを楽しむはずだったのに。
アドトラックが通り過ぎた後、私たち2人は無言だった。
先ほどまでのウキウキしていた感情が消えて、一言では言い表せないような寂寥感が私たちを包み込んでいた。
歩く。
2人で、手を組んで、歩く。
デートなんだから。
楽しい、2人だけの、デートなんだから。
人通りの多い繁華街。
右も、左も、前も、後ろも、人、人、人。
いろいろな店に囲まれて、目移りしそうになる。
私と陽花里は人にもみくちゃにされながら、それでも決して手を離すことはなく、しっかりと恋人の手を握りしめたままで歩いていた。
デート。
楽しい、デート。
恋人との、かけがえのない時間。
音楽。
また、音楽が私たちを追いかけてくる。
電気屋さん。
たくさんのテレビが並べられている。
そのすべてが、同じ番組を流している。
どうしても、その音楽に絡みとられる。
私と陽花里は、自然と足を止め、目の前に並ぶ無数のテレビを見つめていた。
「…紫苑、さん…」
そこには、紫苑さんが映っていた。
有名人がゲストを歓談する、ありふれたお昼の番組。
そのゲストに…紫苑さんが、招かれていて。
テレビの中に、見知った人がいるのを見ると、脳内がバグっていくのが分かった。
『それでこのたび、新曲をリリースされたということなんですか』
『ええ、そうなんです』
『今月末に公演される演劇にて伴奏として使用される、とのことですが』
『自信作ですので、楽しみにしておいてください』
華に囲まれている。
テレビの中で、悠然と自信満々に語っている、紫苑さんの姿。
街中を走り回るアドトラック。
テレビでの宣伝。
いったい…どれほどのお金がかかっているのだろう。
大きなスポンサーがついているのだろうか。
『私は、この歌を…』
紫苑さんが、テレビの中の紫苑さんが、カメラに向かって視線を向けている。輝くその金髪が、紫苑さんを神々しく演出しているかのように感じさせられる。
『届けたい人のために、歌います』
視線が。
何十台もの眼前のテレビの中に映っている紫苑さんの視線が。
全て。
私に、突き刺さったような気がした。
紫苑さんはテレビに出演しているだけで、そこで聞かれた質問に答えているだけで、別に直接私の目の前で私に向かって語り掛けているわけではないのに。
全国に、平等に、分け隔てなく、歌いかけているだけのはずなのに。
(届けたい人)
私、のことだ。
こんなちっぽけな、ただの私の為に。
この人は。
歌を、歌う。
突き刺さる。
私は、歌という剣に切り刻まれる。
何十台ものテレビの中から紫苑さんの歌声が響き渡り、私はこんな街中で、人ごみにまみれながら、衆目の眼前で、その歌声に犯される。
いろいろな音が絢爛な色をまとい、歌声と共に私の中に入っていく。入り込んでくる。
抵抗できない。
赤も、青も、黄色も、全ての音が私に入り込み。
私の中に集約されて…色が混ざり合い、耳から入った音は脳を犯して私の核に収束していき、そこですべての色が混ざった結果、黒くなり、漆黒になり、黒が私の身体の中に広がり、指先まで浸食していく。
「…ないで」
「聞かないで」
「凛ちゃん、聞かないで!」
呆然と立ち尽くす私を、陽花里が泣きじゃくりながら抱きしめてきて、紫苑さんの歌声に犯されている私を少しでも防ごうと、小さな身体で精一杯の抵抗をしてくれていたのだけど。
それもむなしく、すり抜けていき。
私の足に絡みついていた鎖は断ち切れて。
ゆっくりと、私を海面へと押し上げていくのだった。




