第39話 四重奏
幕間① 水無月詩織と風見紫苑
稽古の合間、休憩時間に私は会場の外に出ると、建物の裏側へと向かった。
中にいる時には気が付かなかったのだけど、外は雨が降っていた。
私はコンクリートの建物に背をもたれかかると、懐からタバコの箱を取り出す。そして目を細めて、箱に描かれている文面を読む。
『20歳未満の者の喫煙は禁じられています』
『喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります』
『ニコチンには依存性があります』
雨音を聞きながら、箱から一本取り出すと、ライターで火をつけ、咥えて吸い込む。肺の中を煙で満たし、先ほど読んだ文面を思い出す。
(これでまた、健康寿命が短くなったかね)
(でもまぁ)
(どうせ長生きする気なんてないんだから、関係ないか)
煙を吐き出す。
生きている、という気がする。まだ死んでない、というだけかもしれないけど。
ビルの隙間はギリギリ雨が頭に振ってこないだけで、少し離れた場所に目をやると、音を立てながら雨水が跳ねているのがみえる。
雑多な雨音。
私は目を閉じると、あの雨の日のことを思い出していた。
雨音の中、世界の壊れる音と一緒に現れた、ずぶ濡れの金髪の女のことを。
風見紫苑のことを。
「ちゃんと扉しめてね。雨、入ってくるから」
私がそう声をかけながら、どうせ聞いちゃいないだろうな、と思っていた。けれど意外にも、紫苑は後ろ手で扉を閉めると、私の店の中へと入ってきた。
私の店。
場末のスナック。
もともと流行っている店ではなかったけど、土砂降りの今夜はいつもに輪をかけてお客が少なく…少ないというより、インドで発見された数字、0人だったので、そろそろ店を閉めるか、と思っていた矢先の出来事だった。
「そんなに濡れて…これで雨を拭きな」
そう言って、タオルを投げ渡す。別に親切で言ったわけじゃない。濡れたままでカウンターに座られるよりはマシだと思っただけの話だった。
紫苑は言われたまま素直にタオルを使い、カウンターに座る。所詮、タオルだけで全てを拭くなんてことが出来るはずもなく、濡れ細ぼった金色の髪の毛からぽたりぽたりと水滴がこぼれてカウンターを濡らしていた。
「ここは休憩どころじゃなくって、スナックだよ。酒を頼んで、何か歌いな。本来なら一見さんお断りなんだけど、今日は閑古鳥が鳴いているから、濡れ烏の一羽くらい面倒を見てあげるよ」
「…ハイボール」
「はいはい」
氷を入れてよく冷えたグラスに、ウィスキーを注いで、マドラーで軽く混ぜる。ほどよくウィスキーが冷えてきたら、今度はキンキンに冷えたソーダ水を氷に当てないように、ウィスキー1に対してソーダ水3になるようにゆっくりと注ぎ込む。
ソーダの炭酸が抜けないように、マドラーをグラスの底からそっと持ち上げて混ぜると、最後にライムを軽く絞り、香りをつける。
「どうぞ」
「…どうも」
紫苑はグラスを手に取ると、口にする。
その様子を眺めながら、そういえば昔、小学校の時、学校帰りに捨て猫を拾ったな、と思い出した。あの時の捨て猫、どうしたかな。母親に反対されて、拾った場所に返したんだったかな。
(翌日にはもういなかったな)
私と違う誰か親切な人に拾われたか、それとも死んだか。
そんなことを思っていると、紫苑が私に語り掛けてきた。
「…詩織、さん」
「あら。一度しか名乗っていないのに、ちゃんと私の名前、憶えていたんだ」
「忘れるわけがありません」
あなたみたいな…化け物を。
あは。
私のこと、化け物ですって?
「風見紫苑」
「はい」
「あなたのほうが、やっぽど化け物じゃない」
言いながら、紫苑を見る。この子を初めて見た時、どうして化け物が服を着ているのか、と思った。才能だけが牙をむき、才能だけで突き進み、才能が本人を呑み込んでいた。
(…でも、今は)
化け物が…才能が…本人の中で小さく眠っている。見えないくらい、消える前の蝋燭のように細々と。ふっと息を吹きかければ飛んで行ってしまいそう。何があったのだろう、と思ったけど、こちらから聞くことはしない。
ここはスナック。私はママ。
客を楽しませるのが私の仕事で、客が自分から話してくるのを待つのも仕事だ。
「…詩織さん」
「なに?」
「好きな人、いますか?」
よくある質問。何度受けたか分からないくらい、ありふれたくだらない質問。この子も、しょせんこの程度か、と少し失望しつつ、当たり障りのない答えを返す。
「今は、いないよ」
「詩織さんが、男だから?」
「…私は女だよ」
身体はともかく、心は、ね。
そうだった。この子は、紫苑は、私を一目見て、私が男だと気づいた子だった。どんな女にも負けないように、どんな女よりも魅力的に、時には自分自身すら騙すほどに女を演じ切っているはずの私なのに、この風見紫苑は一瞬で一目で刹那で私の中身を看破したんだった。
「むかつくね」
「…よく言われます」
「好きな子に言われるのかい?」
「…好きな子…好き、なんでしょうね」
私、人を好きになったことが無いから、よく分からないんですけど。
凛に、いつも言われるんです、むかつく、って。
ハイボールを飲み干す。空になったグラスを差し出されたので、また新しいものを作ってあげる。
そうか、この子。
失恋したのか。
失恋して初めて、自分が恋をしていたのだと気づけたのか。
哀れな子。
哀れで…寂しい子。
「さっきの質問、本当のことを答えてあげる」
「本当のこと?」
「好きな人がいるか、っていう質問」
いるよ。
私より一回り以上年上の、男の人。
名前?
聞いてどうするの?え、聞きたいって?
大谷直樹っていう人。大学教授。私と違って、普通の人。ちゃんと女が好きな、男の人。
お見合いしたって聞いた時、泣いたなぁ。結局、お見合いは破談になったって話だったけど、だからといって、私が選ばれるわけもないし。
私も女なんだけどな。心が女ってだけじゃ、駄目だよね。まだ手術してないし、ついてるもん。あれ。
「…恋って、つらいものなんですね」
「ま、たいていはね」
選ばれる人より、選ばれない人の方が多いからね。
「こんなにつらいなら、恋なんて知らないままがよかった…」
「あんた、馬鹿だね」
化け物のくせに、馬鹿だね。
「あんたの恋は、終わったのかい?」
「…ふられました」
「それはきいた。それで、紫苑」
あんたの恋は、それで終わったのかい?
むかつく。
むかつく。むかつく。むかつく。
この女は。たぶん誰よりも才能を持っている化け物は、周囲を巻き込み破滅させていく魅力に満ち溢れたこの風見紫苑を見ていると、何か、してあげたくなってしまう。しないといけない気になってしまう。
それを、才能、というのだろう。
むかつく。
「一度ふられて、それであんたの恋は終わりなのかい?」
「…詩織さんだって」
あなただって、好きな人のことをぐじぐじ言っているくせに。人の事いえるんですか?
「あぁ、そうだね」
私はスマホを取り出し、紫苑の前で操作をはじめた。
アドレス帳を開き、名前を確認し、電話をかける。
「…あ、直樹さん。詩織です。水無月詩織です」
「はい…はい…お久しぶりです」
「懐かしいです…」
「私ですか?いま、東京でスナックのママやってます」
「劇団にも所属しているんですよ。今度、大きな公演も行うんです」
「いや、直樹さんの方がすごいですよ…教授ですもん。お忙しいんでしょう?」
「あ、用件ですか?」
「そうですね、こんな時間にすみません。ちょっと伝えたいことがありまして」
「好きです」
「昔から、ずっと好きでした」
「12歳の年の差…そんなの関係ないです」
「愛してくれ、とは言いません。でも、あなたを愛させてください」
「公演のチケット、送ります」
「直樹さんに…私を見てもらいたいです…」
その後、一言二言話をして、私はスマホを切った。
ぽかんと口をあけて私を見ている紫苑に向かって、ニヤっと笑いかける。
「告白、したよ」
「詩織さん…あなた、馬鹿なんですか」
狂ってるんですか?
それとも、両方なんですか?
「さぁ、どうだろう。ただまぁ、8歳の頃からずっと片想いしていたから、16年間ためた想いをやっと伝えることができたよ」
言ってみれば、案外やれるもんだね。
まぁ、私よりいい女なんて他にいないから、ね。そのために努力しているんだし。
「…男が女に勝てるなんて、本当に想っているんですか?」
「私は、女だよ」
生まれてから、今まで、ずっと。綺麗でいたいと思い、綺麗であるために努力し、生まれた時から女であるやつになんて負けたくないと思って、誰よりも人生を演じてきたんだから。
「紫苑、歌いな。ここはスナックだ。酒を飲んだら、歌うのが礼儀、ってもんだよ」
「…私、歌えません」
失恋してから、歌えなくなったんです。
「へー、そうなの。じゃ、マイク持って」
無理矢理マイクを渡す。無理矢理握らす。
歌えないなら、一緒に歌ってあげよう。
むかつく。
本当は、歌いたいくせに。
本当は、恋を諦めたくないくせに。
恋を知らなかった女が、恋をした?
紫苑。
それはね。
初恋、っていうんだよ。
誰もが、一度は通る道。
一度しか、通れない道。
私も、初恋を思い出したから。
一緒に…地獄に落ちようじゃないか。
化け物同士、で。
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幕間② 白鷺葵と風見紫苑
稽古場に詩織さんが連れてきた女は、化け物だった。
風見紫苑。
前から化け物だと思っていたけど、今はもう、形容しがたいものになっている。
以前はギリギリ人の形を保っていたそれは、今では解き放たれ、解放され、荒れ狂う海の嵐の欠片みたいになっている。
ぞくぞくする。
屈服させたくなる。
私の中にいる、どうしようもない荒れ狂う衝動が、この化け物を食らいつくしてやりたいと檻から出たがっているのが分かる。
どうしてこんなに、ざわざわするんだろう。
そう疑問に思っていたのだけど、その理由は案外簡単に知ることができた。
「葵さん」
風見紫苑は私の傍にやってくると、ずけずけと言い放ってきたのだ。
「私、好きな人がいるんです」
「ふーん」
誰?とは聞かなかった。
なんとなく、聞く前から分かっていた。
「白鷺凛」
やっぱり。
だからか、私の心がざわついていたのは。
「葵、でいいよ。呼び捨てで。私も紫苑、って呼び捨てするから」
「じゃぁ、葵。あなたのふたご、奪ってもいいですか?」
「彼女、ね」
期間限定だけど、凛は今、私の彼女だから。
「ふーん、今、凛、二股してるんですか」
「二股っていうか」
二股か。いくら当人同士が納得しているとはいえ、二股は二股だ。
「紫苑は、三股として加わりたいってこと?」
「あはは。まさか」
嫌ですよ。独占したい。誰にも渡したくない。私だけのものにしたい。それって当たり前、じゃないですか?
「私は、二番目でもいいんだけど」
想っていたんだけど。でも、なんか。
この女を見ていたら、むかついてきた。
「紫苑、あなたにだけは、凛は渡さない」
はっきりと、そう伝える。
伝えてから、稽古に戻った。
あぁ、身体が動く。思った通りに身体が動く。思うよりも先に身体が動く。まるで身体が脳になったみたいだ。
私は溶けていく。
自我も境界も何もかも消えて、どろりとしたただの概念になって。
音が聞こえた。
紫苑の音。
悔しいけど…いい。
あいつは、最低で、最高だ。
むかついて、心をざわつかせて、ほっとけなくて、魅力的で。
金色の悪魔だ。
あぁ、悪魔と踊るのは、楽しいなぁ。
詩織さん、なんて化け物を連れてきたんですか。
メフィストフェレスを連れてきたあなたは、さしずめファウスト博士ですね。
凛。
私の、大好きな凛。
あなたの為なら。
私は…魂を悪魔に売ったってかまわない、よ。
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幕間③ 彩瀬色葉と風見紫苑
行方不明になっていた紫苑が、戻ってきた。
何事もなかったように、あっさりと。
私がやつれて幽霊のようになって街中を探し回っていたというのに、まるで関係なく、ちょっと近所に散歩にいってきた、とでもいうかのように、当たり前のように戻ってくると、
「色葉、お腹すいた」
と言ってきた。
私は一瞬呆然とした後、まずは幻じゃないかと抱きしめて現実だと確認する。
「紫苑、どこに行っていたの?」
「…自分探し?」
質問に質問で返される。
そののんきな口ぶりに少しだけいらっとしたけど、すぐに思い返す。
私の使用人だった紫苑。
私のメイドだった紫苑。
私がその才能にほれ込んだ紫苑。
私が家を捨ててまで、ついていきたかった紫苑。
恋を知らなかった紫苑。
恋を知ってしまった紫苑。
恋を知り、普通の女の子に…なり下がってしまった紫苑。
それでも、私の大好きな、紫苑。
何でもいい。この2人だけの隠れ家に帰ってきてくれたのなら、歌なんて歌えなくてもいい。才能が無くなってしまった抜け殻であってもいい。
ただ、紫苑さえいてくれたら、それでいい。
私は暖かいスープを用意して、冷めないうちに、と紫苑に渡す。
紫苑は美味しそうにそれを呑むと、またたくうちにすべて飲み干す。
そして、満足そうな笑みを浮かべた後、食器を片付けて、とでも軽く言うような口調で、私に語り掛けてきた。
「色葉」
「なに、紫苑」
「あなたの持てる全てを、私にちょうだい」
「…え?」
私の、全て?
もう全部あげているじゃない?
心も、身体も、全部紫苑に、あげてるじゃない?
「実家の力」
紫苑は、笑った。
それは、今まで見たことがない、蠱惑的な笑みだった。
「色葉の、実家の力を、使ってほしい」
私は。
私だけの力で。
紫苑を世の中に出したかった。
私は裕福な生まれで、私はお嬢様で。
何不自由なく育てられて、将来は安泰で。
そこに紫苑が使用人としてやってきて、メイドになって。
私は生まれて初めて、お金では買えない才能というものを目の当たりにして。
紫苑に全てをささげる決心をしたんだ。
「それは…」
嫌だ、と言いたかった。
何のために家を出たのか分からなくなる。
私じゃいけないの?
「私だけじゃ足りない?」
「色葉の全部が欲しい」
過去も、未来も、生まれも人生もそのすべてが、欲しい。
他の人には、こんなこと言えない。
でも色葉にだけは、私は、我儘を言いたい。
「…紫苑、けっこう、いろんな人に我儘いっているじゃない」
自覚、していないのね。
むかつく。
物語やフィクションの中で、悪魔と契約する登場人物たちをみて、そんなふうにはならないでしょう、現実はもっと厳しいし、ちゃんと考えるでしょう、なんて思っていたけど。
「分かった」
契約書にサインをするのは、実に簡単なことだった。
「ありがとう、色葉」
そう言って、紫苑は笑った。
歌声が聞こえる気がする。
あぁ、紫苑。
また、歌えるようになったんだ。
私を焦がした歌を、また歌えるようになったんだね。
恋したくせに。
恋、したからかな。
今度は何を奪うつもりだろう。
私の全てはもう奪われてしまったから、もう私から奪うものは何もないよね。
なら、私も覚悟を決めよう。
紫苑がこれから奪っていく全てのものを、私はこの目でしっかりと、全部見ていく、ということを。
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幕間④ 水無月詩織と風見葵と彩瀬色葉と風見紫苑
タバコ休憩を終えて稽古場に戻った時、葵はまだ稽古を続けていた。
「頑張るね、葵」
「まだまだ足りません」
もっと、もっと、焼き尽くしたいんです。
何を?とは聞かない。
たぶん、ありとあらゆるもの、なんだろうから。
「じゃぁ、私も相手するかな」
「待っていました」
「待たれていました」
背を伸ばし、葵に相対する。
目が輝いている。
私は、この劇団のエースだ。
去年も、今年も、ずっとこの座は安泰で、私を脅かす存在なんて影も形もいなかった。
(けれど)
来年は分からないな、と思う。
でも、それはあくまで来年の話で。
(今、この瞬間は)
私の方が上だよ、葵、と思う。
床が汗で濡れ、稽古場の空気にもやがかかり、外の雨音がすべて心臓の音で塗り替えられた時。
「おはようございます」
透き通った声がした。
今は別に朝ではないのだけど、稽古場では昼夜関係なく、おはようございます、という挨拶が交わされる。
汗とともに振り返ってみると、視界に入ったのは2人。
金髪の女と、背の高い女。
風見紫苑と、彩瀬色葉。
部外者であり、身内でもある。
今回の公演の劇伴をしてもらう演奏家であり…葵と私に火をつけた張本人。
むかつく。
「紫苑、もう始めてるわよ」
「ごめんなさい、詩織さん」
そう言いながら入ってくる詩織。
その足取りが、少し浮ついているようにみえる。
浮ついているというか、軽いというか…何か重しを取り去った後のようだというか。
私には、心当たりがあった。
葵を見る。
葵はまだ気づいていないみたいだったので、少し悪戯心が湧いてくる。
さぁ、また。
この子を。時代のエースを。
焚きつけてやるか。
「ねぇ、紫苑」
「なんです、詩織さん」
「その様子なら…ちゃんと伝えることができたみたいね」
「…ええ」
色葉を引き連れた紫苑は、靴を脱いで稽古場にあがると、私と葵を見て、満足そうに、毒を含んだ薔薇のような微笑みを浮かべた。
「凛に、告白してきました」
空気が歪むのを感じる。
ふりむく必要すらない。もうこれ以上燃えることがないだろうと思っていた葵の心がさらに燃え盛っていくのが分かった。
赤色から橙色、黄色を経て、白色に。
そして今。
葵の名と同じ、蒼い炎が燃えているのを感じる。
「…紫苑、早くやりましょう」
「なにを?」
言わなくちゃ、分からないんですか?
さぁ、さぁ、さぁ!
葵は手を伸ばし、紫苑は不敵に笑い、色葉はそれを見つめ、私は背筋が凍り付くのを感じ、
空気が凛として、四重奏を奏でるのが聞こえてきた。




