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恋を失った私と、恋を知らない彼女  作者: 雄樹
第二章 恋を知らなかった貴女が…
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第36話 8月18日①

 8月もお盆を過ぎると、とたんに夏の終わりが見えてきた気がする。

 リビングのソファの上に座っていた私の隣に、陽花里はちょこちょこと歩いてきて、ぽすんと座る。

 手にアイスクリームを持っていて、小さな舌でぺろっと舐めている。


「凛ちゃんも一緒に食べよ?」

「うん。一口もらえる?」

「はい、どうぞ」


 陽花里から差し出された少し溶けかけのアイスを舐める。バニラの味が口内に広がり、そのまま溶かしてこくんと飲み込む。


「もう一口ちょうだい」

「あーん」


 美味しい。

 穏やかな時間が流れていて、このままぼんやりと部屋の中から窓の外でも眺めておこうかな、という気持ちになる。

 クーラーのよく効いた部屋。大学生の長い長い夏休み。となりには可愛い彼女。


(私なんかがこんなに幸せをもらっていていいのかしら)


 つい、そう思ってしまう。

 幸せの湖面の下には様々な不安要素が泳いでいるような気がするのだけど、そこは出来るだけ見ないように、考えないようにしよう。


「凛ちゃん、もうすぐ夏が終わるね」

「そうだね」


 アイスを食べ終えた陽花里が、そのまま私に体重を預けてくる。陽花里の栗色のふんわりとした髪の毛が少し私の鼻腔をくすぐり、くしゃみを出しそうになってしまう。


「夏の思い出が欲しいな」

「思い出?」

「うん、凛ちゃんと一緒にいれて、今、すっごく幸せなんだけど」


 でも、私わがままだから、もっと欲しいの、と陽花里は言う。


「凛ちゃん」

「はい」

「えっちなお願い、してもいい?」


 え。

 言葉に詰まる。陽花里とは同棲していて、それで、キス、たくさんしてる。

 この前…むね、触らせてもらった。

 それ以上…しても、いいの?


「え、えーっと」


 私の部屋の本棚には、たくさんの本が置いてある。参考書や教科書や、それに小説に漫画。でも、一番たくさん持っているのは…私の趣味である、百合小説で。そしてその中には、いわゆる18禁ものの本もたくさんあって…というか、そっちの方が多いくらいで。


「い、いいよ」


 私はドキドキしながら、出来るだけ声がうわずらないようにこたえる。それを聞いた陽花里は、とても嬉しそうに、まるでぶんぶん尻尾を振るわんこみたいな趣で、私に振り向いていった。


「やったー!私、凛ちゃんの水着姿、見たいの」

「え」


 みず…ぎ。水着?


「夏の思い出に、海に行きたい」

「海?」

「うん。海。私、凛ちゃんと海でデートしたいの」


 陽花里の中のえっちなお願いというのは、どうやら私の水着姿を見たい、というものだったらしい。私が汚れているのか、それとも、陽花里が清らかすぎるのか。


(でも、時々)

(陽花里)

(私よりも、すごく…妖艶というか、深い気持ちもっているように、感じるんだけど、な)


「いいよ。思い立ったら吉日で、今日海でデートしようか」

「本当?嬉しい!」


 喜んで抱き着いてくる陽花里。その胸が、むぎゅっと私の腕に当たって、私は少しよこしまな気持ちになってしまう。


(最近、私、おかしいな)


 陽花里のことを好きだって自覚してから、同棲はじめてから、さらにおかしくなってきている気がする。

 欲が、溢れてきている気がする。


 好きな人が出来て、好きな人が傍にいて、好きな人に触れられているのだから、こんな気持ちが湧き上がってきてしまうのは…仕方のないこと、かな。


(未来)


 ふと、もう一人の…私が昔からずっと大好きで、今でも忘れることのできない、本当に…本当に大切な人のことを思い出してしまう。

 未来は、私の中であまりにも神聖化されすぎてしまっていて、そういう事の対象として考えることが出来なかった。

 私が未来を好きになった時にはすでに、未来には好きな人がいて。私は絶対にその人には敵わないと分かっていたから、だからあえて、考えないようにしていたのかもしれない。


(私、卑怯だな)


 未来には望まなかったことを、陽花里には望んでしまっている。

 未来とは…彼女になれなかったけど、陽花里とは…彼女同士になれたから?


「あー、もうっ」


 私は立ちあがる。

 陽花里がびっくりして、私を見上げていた。


「どうしたの、凛ちゃん?」

「あ、ごめんね、びっくりさせちゃったね」


 私はあやまり、陽花里の頭を優しく撫でる。髪の毛をくしゃくしゃって撫でていたら、気持ちよかったのか、陽花里が目を閉じて「もっとして」という感じにくっついてきたから、「…こうしていると、本当に犬みたいなんだけどな…」と思いつつ、要望に応えて手を動かす。


(どうせ私に、うまい駆け引きなんてできないんだから)

(思ったことを、思ったように、やろう)


 陽花里の髪の毛から、もうちょっと手を下げて、ほっぺたを触る。もちっとした薄絹のような感触がして、肌が手に吸い付いてくるような気がする。


(私の持っている水着の中で、一番大胆なのを着ちゃおう)


 それで、この、無自覚な小悪魔に。


 望み通り、えっちな願いを、叶えてあげよう。






■■■■■



幕間① 白鷺葵と水無月詩織



「はい、そこまで」


 詩織さんが手を叩き、通しの稽古が終わる。

 稽古に参加できた劇団のみんなは、そのままその場に崩れ落ちる。


 床は汗でびしょ濡れになっていて、視線に白いもやがかかったままだ。


「葵」

「葵?」

「葵!」


 名前を呼ばれる。

 葵…ああ、そうか。

 これ、私の名前、だった。


「は、はい、なんですか、詩織さんっ」

「よかった、ちゃんと戻ってこれたみたいね」


 さっき、劇団のみんなは崩れ落ちたといったけど、違った。例外がいた。この劇団の中で私が唯一尊敬している先輩、水無月詩織さんは、1人だけ涼しい顔をして私の傍に近寄ると私を見下ろしてきていた。


「心まで月に引っ張られたかと思ったよ」

「まだ大丈夫です…」


 まだ満月じゃありませんから、と答える。

 頭がくらくらする。まだ頭の中がかぐや姫のままだ。だいぶ、向こう側に引っ張られてきているな、私。

 今はまだ私がかぐや姫を演じているのだけど、このままいけば、かぐや姫が私を演じている、という事態になるんだろうな。


「期待しているよ、葵」

「期待には応えますよ、詩織さん」


 差し出された手を握り、立ち上がらせてもらう。

 それにしても。


(かぐや姫を演じる私がこれなのに、月人を演じている詩織さんは…どうして平気そうな顔しているんだろう)


 月人は、人ですらないのに。

 精神構造、どうなっているのだろう。

 月人は、かぐや姫を月へと連れていくから…


(この伸ばした手の先が、月に繋がっているのかもしれないな)


 そう思い、まじまじと握りしめた手を眺めている私を見て、詩織さんが呆れたように「どうした?そんなに私の手を見つめて。私に惚れたか?」と聞いてくるので、「冗談言わないでください。私が好きなのは一人だけですから」と答えておいた。


 私が好きなのは1人だけ。

 凛だけ。


(でも)


 演技している時、心から消えていたな…私の心、私のものじゃなくって、かぐや姫になっていたな。


(怖い)


 覗いているのか、覗かれているのか、境界線が分からなくなるのが怖い。

 こちら側とあちら側、自分がどっちにいるのか分からなくなりそうで怖い。


(この感覚…)


 初めての経験じゃない。昔、経験したことがある。経験というより、私はこの気持ちから始まったのだ。自分が自分じゃない感覚。境界線が分からなくなる感覚。


(凛)


 私と凛はふたごで、一卵性双生児で、お母さんのお腹の中では同じ細胞だった。

 それが、別れて、生まれて、成長して。


 小さい頃は、私が葵なのか、凛なのか、分からなくなる時があった。

 

「凛…好きだよ」


 声に出して言う。わざと、自分の耳に聞こえるように言う。ちゃんと聞こえる。ということは、つまり、私は凛じゃない。葵なんだ。


 凛のことが大好きな、葵のままなんだ。


「葵、あおい、あーおーいー」


 必死になって自分を取り戻そうとしている私に向かって、詩織さんがのんきな声をかけてくる。

 月人のメイクをした詩織さん。

 月人…人間じゃないメイク。すこし艶やかな乳白色で顔全体を覆い、唇には水色の線が引いてある。今は練習中だから、服装は普段着のままだけれど、これが本番の衣装を着たなら、本当にこの世のものとは思えない姿になるのだろう。


「ちゃんと聞こえてますよ、詩織さん」

「よかった。飛ぶのは勝手だけど、公演が終わるまでには戻ってきてほしいからね」

「私の心配、ちゃんとしてくれてます?」

「もちろん」


 海よりも高く、山よりも低く、心配しているよ。

 そんな軽口をたたく詩織さんを見て、私、どうしてこの人のこと、尊敬しているんだろう、というもっともな疑問が湧いてきた。


(でも、まぁ)


 それも、仕方ないか。

 綺麗な顔をしている詩織さん。月人のメイクの下からでも、その妖艶さが伝わってくる。うちの劇団のエース。誰もが認める一位。私の目標であり、倒すべきライバル。


 男。

 詩織さんは、男。

 男なのに、誰よりも女で。

 いつも自分で境界線をあやふやにしているから、だからこんなに凄みがあるのかな、と思う。


「詩織さん」

「なんだい、葵」

「結婚したい相手とか、いないんですか?」

「いい男いたら紹介してくれるかい?」

「詩織さん、男、ですよね?」

「私は女よ」


 誰よりも、ね、と笑う。


「そういう葵はどうなの?」

「私ですか?」

「あんたは結婚した相手っていないの?」

「いますよ」


 凛と結婚したい。

 凛に抱かれたい。

 凛を抱きたい。


「8月末までは恋人同士ですから」

「あと少ししかないじゃない」

「そうですよ」

「でもあなた、ここ最近、ずっとこの稽古場に泊っているわよね?」

「そうですね」

「…会っていないんじゃない?」

「はい」


 それでも、今月末までは、私と凛は、恋人同士なんですよ。


「じゃぁ、それから先は?」


 詩織さんの質問には答えず、私は逆に質問を返す。


「今日、紫苑さんはいないんです?」

「あー、あの子は…」


 会いに行く、って言っていたわよ。



 私を震わせ、詩織さんを震わせ、劇団を震わせた、その女は。

 風見紫苑という女は。


 ぞくりとするほど冷たく、炎を宿した氷のような、凍った音楽のようなあの女は。

 詩織さんに拾われ、私たちを変えた、その女は。



 どこかに、誰かに会いに行った、らしかった。






■■■■■



「陽花里、出かけるよー」

「あ、待って、凛ちゃんっ」


 家の扉を開けて、外の空気を浴びながら、私はまだ部屋の中でドタバタしている陽花里にむかって声をかけた。

 まだ正午前。

 今から出かければ、まだたっぷり海を楽しむことが出来るだろう。


 足音が聞こえる。

 部屋の奥から、陽花里が走ってくる。

 自分の身体よりも大きそうなバッグを抱えている。

 いや、それは言い過ぎた。そこまでは大きくない。

 ただ、陽花里がちっちゃいだけだった。


「ごめん、おまたせー」

「本当に待ったよ」

「ごめんね」


 そう言いながら、ごくごく自然に、私の腕に抱き着いてくる。


 やれやれ、とため息をつきながら、でも嬉しくなり、私は家の扉を閉めて鍵をかける。


「じゃぁ、行こうか」

「うん、凛ちゃん」


 暑いから、さっそくじんわりと汗が出てくる。私の汗と、陽花里の汗が混ざる。


「凛ちゃんの水着姿、楽しみ…」


 にこにこしている陽花里。

 ギラギラした太陽の光に照らされて、すごく…なぜか、陽花里に女、を感じてしまった。


「陽花里のえっち」

「え…」


 真っ赤な顔をする陽花里。

 それが楽しくて、嬉しくて、まるで小学生か中学生のように、声を続けてしまった。


「えっち、えっちー」

「もうっ」


 すねるけど、すねてない。

 私の腕をぎゅーっと掴んで、身体を押し付けてきて、そしてぽそっと一言、私に告げる。


「…私がえっちになるの、凛ちゃんにだけだもん…」



 そ、そうか。

 そうなんだ。

 へー。

 …


 あはは。


 あはははは。


 えっちー。

 私も、えっち。


 私も陽花里の水着姿、みたい、な。




 そんな感じで、私たち2人は海での水着デートへと向かい始めたのでした。

 

 

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