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恋を失った私と、恋を知らない彼女  作者: 雄樹
第二章 恋を知らなかった貴女が…
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第35話 夜と朝の間

 隣から、陽花里の寝息が聞こえてくる。

 薄暗く、クーラーのよく効いている寝室。2人で1つの同じかけ布団を使い、私と陽花里は同じベッドの上で横たわっていた。


(よく寝てる…)


 陽花里の睡眠は深い。少々触ったところで起きてくる心配はない。私は陽花里のほっぺたをつついてみる。むにゃむにゃ言いながらぴくりと動くその姿を見ていると、なんかこう、胸の奥がムズムズしてくる。


(盆踊り、楽しかったなぁ)


 目を閉じると、笛や太鼓の音に合わせて私の目の前で踊っていた陽花里の姿が浮かび上がってくる。浴衣に描かれた黄色い花は、稲穂のような輝く金色にも感じられた。

 嬉しそうに、誘うように笑っている陽花里の笑顔を見ていると、思わず手を差し伸べて持ち帰ってしまいそうになる。


(…というか、ある意味、持ち帰ってしまっているか…)


 私は今、陽花里と同棲している。

 同棲。

 彼女と、同棲。


(なんか)


 すごい。

 真夜中に目を覚ましたら、目の前に好きな人が眠っているのが目に入るのって、すごい。

 私はベッドの中でもぞもぞと動き、陽花里に近づいてみた。陽花里が息をするたびに、まつげがゆっくりと動いていくのがみえる。すぅ、すぅという規則正しい寝息が聞こえてくる。

 顔を近づけると、陽花里のはいた息が私の中にはいってくるようで、心が満たされていく。


(よく寝てる)


 と、もう一回思った。

 安心しきっているし、油断しきっている。悪い狼にでも襲われたらどうするつもりなのだろう、この赤ずきんちゃんは。

 …この場合、悪い狼は私だった。


(ちょっとだけ)


 食べちゃおうか。

 味見、しちゃおうか。


 指を伸ばし、陽花里の唇に触れる。唇の感触を楽しむ。ぷにぷにと触っていると、陽花里が少し口をあけて、ぺろ、と舐めてくる。


(こんな陽花里の癖、知っているの、私だけだよね)


 寝ている陽花里は、唇を触られると、条件反射的に舐めてくる癖がある。普通の生活を送っていたら絶対に知ることのないそんな秘密を世界で私だけが知っているのだと思うと、少しぞくっとする快感に襲われる。


(食べちゃうつもりが、食べられちゃってるね)


 そう思っていた時。

 コト、と、後ろから小さな音がした。

 そのままゆっくりと、扉が開かれる気配を感じる。

 クーラーで冷やされた寝室の空気が、外の生暖かい空気と混じっていく。


「…ただいま」


 かすかな声。

 私のよく知っている声。

 それは、葵の声だった。




■■■■■



 時計を見る。

 今夜は新月前で、月は線のように細いから、月明りはほとんど入ってこない。暗い部屋の中でも、目をこらすと時計の針がみえた。


 深夜3時。


 草木も眠る丑三つ時をもう過ぎている。葵がこんなに遅い時間に帰ってくるとは夢にも思っていなかった。もう今夜は帰ってこないものだとばかり思っていた。


「おかえり、葵」


 ささやくような声を出す。大きな声を出すと、横で寝ている陽花里が起きてしまうかもしれない。気持ちよさそうに眠っている陽花里を起こしたくはない。


 私のそんな気持ちに気づいたのか、葵は私を見ると、口元に指をあてた。静かに、喋らないで、ということだろうか。


 葵は部屋のかたすみに置いておいた、浴衣を見ていた。盆踊りで、葵が着る予定だった浴衣。白い生地に青い花が咲き誇っている浴衣。

 葵は、ベッドに横たわったままの私に向かって、ゆっくりと、口を動かした。言葉は発しない。暗い部屋の中、口の形だけで、私に伝えてくる。


(ゆ)

(か)

(た)

(き)

(せ)

(て)


 こんな夜中に?

 葵はいったい、何を考えているのだろう?

 そう思ったけど、でも、葵の願いをかなえてあげたいな、と思ってしまった。


 私は陽花里が起きないように気を付けながら、ゆっくりとベッドから出る。陽花里が動く。まるで私を求めるように、手を伸ばしているのがみえる。ごめんね、陽花里。ちょっとだけ、1人で寝ていてね。


 立ち上がり、葵の浴衣を手に取る。

 本当なら、この浴衣を着た葵と、私と陽花里の3人で盆踊りを楽しんでいたはずなんだよね、と思うと、楽しかった陽花里との盆踊りの時間が少し寂しいものに感じられてくる。


(…葵?)


 葵は、着ていた服を脱ぎ始めていた。

 Tシャツを脱ぎ、ボトムを脱ぎ。

 そしてそのまま、ブラとショーツまで脱いで、生まれたままの姿になり、私を待っていた。


(どうして全部脱ぐのよ…)


 そう思いながら、そういえば昔は、浴衣の下に何もつけないのが普通だったらしいね、と思った。

 外出するわけでもないし、部屋の中で着るだけのつもりだろうから、なら下着をつけなくてもいいのかな…いやいや、それでも、ね。


(もしも陽花里が起きてきたら…大変)


 音をたてないように葵に近づき、浴衣を着つけていく。

 葵に近づくと、外の匂いと一緒に、葵の汗の匂いも混じっているのが分かった。ずいぶん長い間、お芝居の稽古をしていたんだろうな…。

 私と陽花里が盆踊りを楽しんでいる間、ずっと。


(できたよ、葵)


 着付けを終える。

 私たちに8時間遅れで、葵は浴衣姿になった。


(可愛いよ)


 私は小さい声で、そう伝えた。葵は嬉しそうにその場で音を立てずにくるりと一回回ると、私に手を差し伸べてきた。

 私は、差し出された手をとる。

 そのまま引っ張られて、ベランダに向かう。


(陽花里に気づかれないように…)


 そっとガラス戸を開け、葵と2人で部屋の外に出る。

 クーラーの効かない8月の空気が私たちを包み込み、少しだけ、息苦しい。まるで海の底に落ちていったような気分になる。


 後ろ手で戸をしめて、ようやく、声を出すことができるようになる。ここなら、陽花里に声が聞かれることはないから。


「葵、おかえり」

「…ただいま、凛」


 よく考えたら別に葵は私と同棲しているわけではないから、おかえり、というのは正しい言葉の使い方ではないのかもしれないけど、それはまぁ、別にどうでもいいことだった。

 私の元に来てくれた、それだけでよかったのだ。


「盆踊り、楽しかった?」

「うん」


 楽しかったよ、と答える。


「…葵がいてくれれば、もっと楽しかったと思うけど」

「ごめんね」

「ううん。お稽古、頑張ってるんだから、仕方ないよ」


 風が吹いてくる。生暖かい風だけど、何もないよりはマシで、8月の暑さを少しでも和らげてくれる。


「頑張ってる、か…」


 葵はぽつりとそう呟くと、ベランダの手すりにもたれかかり、夜空を見上げていた。

 月はほとんど出ていないけど、代わりに満天の星が煌めいていた。

 もちろん、田舎と比べると星もまばらにしか見えないのだけど、それでも、綺麗だな、と思えるくらいには煌めいている。


 浴衣姿の葵を見ていると、大人びて見える。寝間着姿でいる私がまるで子供っぽく感じられて、私も浴衣着ればよかったかな、とちょっとだけ後悔する。


(陽花里を起こして、3人で浴衣着ようか)


 そんな考えが浮かんだけど、すぐに頭をふって消し去る。

 気持ちよさそうに寝ている陽花里を起こすのも悪いし…それに何より、


(葵が望んでいるのは、たぶん、違うから)


 葵は浴衣を着たかったというより、浴衣姿を私に見てもらいたかったのだろう。夜、2人きりのバルコニー、外は夜空。

 この瞬間だけを切り取って、心のどこかに飾っておきたい、と思ったのかもしれない。


「凛」

「なに、葵」

「私たち…いま、恋人、だよね」

「…うん」


 そうだよ。

 期間限定、だけど、ね。


 葵がそっと、私の肩に手を触れた。

 熱い。

 そして、一気に引き寄せられる。


「ちょ…」

「ごめん」


 口では謝るものの、態度は変わらなかった。

 強引に私を抱き寄せ、まっすぐに見つめてくる。


「凛、キス、したい」

「…」


 即答、出来なかった。

 葵は…恋人として、私を求めてくれている。私を欲しがってくれている。私は今は…葵の、恋人。恋人だから、ちゃんと答えて…あげたい。

 けど。


 部屋の中を見る。

 私のベッドの上で寝ている陽花里。よく眠っている。起きてはこない。


「…陽花里を見ないで」


 葵が私を振り向かせる。

 強い力じゃない。抵抗しようとすれば、出来るくらいの力。でも私は抵抗しなかった。葵に身を委ねていた。


「今だけでいいから、私を…私だけを、見て」


 青い花柄の浴衣姿の葵。私の大事な家族で、今は、恋人。

 震えている。緊張している。

 もしも今、私が拒絶してしまったら。


(葵が、壊れちゃうかも、しれない)


 もうどうせ私たちは壊れているにも関わらず、それでも、まだ最後の終わりまでの道のりを早めたいとは思えない。


「凛…」


 真剣で、悲しそうな顔。

 私は一瞬だけ、目を逸らす。


「月が、見てるから」

「月なんてほとんど見えてないよ」


 もうすぐ新月。

 次の満月は…月末だよ。


 唇が、近づく。

 綺麗な浴衣姿の葵。

 普段着の寝間着姿の私。


 家族。

 恋人。


 唇が、触れ合って。

 キス。


 これは…どっちのキス、なんだろう。


「…ん」


 葵は目を閉じて、私は目を開いていた。





■■■■■



「月末に、公演があるんだ」

「うん、知ってる。前にも教えてくれたよね」

「そうだったかな」

「そうだよ」


 かぐや姫、やるんでしょう?


 キスの後、葵が私に公演の事について話をしてきたから、言葉を返した。

 再確認なのかな。私が忘れるわけないのに。


「違うんだ」

「違うって…葵、かぐや姫役、降ろされたの!?」

「そうじゃない…けど」


 かぐや姫、やるよ。

 私、かぐや姫になる。


「この前、話をしたかぐや姫とは…違う」


 葵は、何を言っているのだろう?

 何を伝えたいのだろう?

 分からない。

 分からないから、素直に聞いてみる。


「何が違うの?」

「私は…かぐや姫になる」


 本物の、かぐや姫に。


「だから絶対に」


 見に来てね。

 絶対だよ。

 約束、だからね。


 葵は何度も何度も、私に伝えてくる。だから私も何度も何度も、「うん、分かったよ。絶対に見に行くからね」と答える。


 月末の公演。

 そういえば、月末は。


「満月、だよね」


 かぐや姫、満月、月の使者、まさか、ね。

 ちょっとだけ不安に思ってしまい、私はぽつりとそう呟いた。


 葵は私の言葉には答えず、浴衣から元の服に着替えると、あっさりと、まるで今朝ころんじゃってさー、とでもいうかのように、軽い言葉で私に別のことを伝えてきた。


「私、月末の公演まで泊まり込みで稽古場にいるから、だからもう、凛の部屋には来ないから」


 え。

 あ。うん。

 そうなの。


「気を付けてね。身体、壊さないように」


 私はこの時、葵がどれだけの覚悟を秘めてそう言ったのか、まったく知らなかったんだ。

 期間限定の恋人関係が終わる月末、ちょうど公演の時、満月のあの夜に。

 もう一度、葵に会うまで。





 知らなかったんだ。





 ■■■■■



 葵がそっと部屋を出て、私はもう一度、ベッドに潜り込んだ。

 いつの間にか、朝の4時。

 葵がいたのは1時間にも満たなかったのか…長かったような、短かったような。


 よく寝てる陽花里を起こさないように、そっと潜り込んだつもり、だったのだけど。


「…あ」


 陽花里がぎゅっと、私を抱きしめてきた。

 布団の中に横たわり、手を私の首の後ろに回して、そっと私に近づいてくる。


「…凛ちゃん…」

「陽花里、起きてたの?」

「ううん。寝てたよ」


 ずっと、寝てた。

 寝てたよ。


 そう言いながら、陽花里は、私の唇に、唇を。

 キス。

 恋人の、キス。


 まるで、先ほどの葵のキスを、自らのキスで上書きするように。


 陽花里は目を閉じていて。

 私も、目を閉じる。


 唇と唇が触れ合い、お互いの吐息と、心臓の音が混ざり合う。


 長いキス。

 長い、長い、キス。


 月明りのない、暗闇の中での、2人だけの、キス。


 やがて陽花里は唇を離し、そのまま頭を私の胸にうずめ、私に抱き着いて私の温度を奪いながら、私に陽花里の体温を伝染させつつ、振り絞るようなか細い声を、そっと、あげた。



「…だから、なにも、見てない、よ」

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