第30話 私と、陽花里と、初めての
葵が家を出てから30分がたった。
私はまだ、眠っている陽花里をずっと見ていた。
ベッドから降りて、床にしゃがみ込み、視線がちょうど陽花里と同じ位置にくるように合わせて、ベッドの上に手を手を組んでじーっと観察する。
「ふふ…」
可愛いなぁ。
陽花里が息をするたびに、ふわふわの栗色の髪の毛がそれに合わせて上下して動く。頬っぺたは柔らかそうで、祭りの屋台で売られているリンゴ飴みたいに紅くて、ついつい触りたくなってしまう。
「えい」
触る。
指先で押すと、陽花里が少し動く。えいえい。また触る。まだ起きない。
(昨夜、たくさんお酒飲んだしね…)
私も同じくらい飲んだのだけど、今朝は二日酔いはしていない。自分の中での適切な酒量というものが、だんだんと分かってきたように思う。
指先で感じる陽花里の肌は絹のように艶やかで、指を動かすたびに寝ている陽花里が反応してぴくって動くのが楽しい。
(私の、彼女)
彼女、なんだよね。
このパンケーキみたいに可愛い子が自分の彼女だと思うと、何か熱いものが胸の奥から湧き上がってくるのを感じる。
これが幸せというものなのかな。
(…陽花里の唇)
口紅を塗っていない陽花里の唇は、肌色に少し朱を刺したような色をしていて、しっとりと潤んでいるのが分かる。
わたしは何となく…本当に、深い想いや理由があったわけでもなく、先ほどまで陽花里の頬っぺたを触っていた指をゆっくりと動かすと、その唇の方へと動かしていく。
(…柔らかい)
ぷにっとして、少し弾力がある。少し楽しくなってきて、陽花里の唇の感触を指先で感じていると、
ぺろ。
ふいに、陽花里が舌先をちょこっと出して、私の指を軽く舐めてきた。起きたのかな…と思ったけど、そういうわけではなかった。眠りながら唇を触られて、条件反射で舐めてしまった、ということなのだろう。
(悪戯はこれくらいにしておこう…)
そう思い、指を陽花里の唇から離し、その指先を見る。
少し、濡れている。
(…)
そっと、その指を自分の唇に当ててみた。
さっきまで、陽花里の唇に触れていた私の指。それが今、私の唇に当たっている。
(何やってるの何やってるの何やってるの)
恥ずかしくなり、頭をふる。本当、何やっているんだろう、私。
陽花里の頬っぺたよりもさらに顔を真っ赤にすると、私はそのまま、陽花里が寝ているベッドに顔を伏せた。
ぽふん、と音がして、柔らかい布団が私を受け入れる。
「…ん」
その衝撃に反応して、陽花里の口から声が漏れた。
ゆっくりと、長いまつげが動いていく。うっすらと目が開かれていく。
朝の光がベッドに差し込んでいて、寝ていた陽花里の顔が白く照らされている。
「…凛ちゃん…?」
眠り姫は、キスで目が覚める…私、キスはしていないんだけど、ね。
「陽花里、起きた?」
「えへへ…おはよう」
ほほ笑む。その笑顔があまりにも愛くるしくて、私はぽわっとしてしまう。
「朝起きた時、一番最初に凛ちゃんの顔が見えるなんて、すごく、幸せな気分になるよ…」
陽花里はそう言いながら、嬉しそうに口元に手をやった。朝起きた時に、まっさきに目に入ってくるのが恋人の顔で、それが嬉しいだなんて…
(さっき、私が起きた時に、思ったことと、同じ、だ)
私も目が覚めて、一番最初に陽花里の顔が目に入ってきて、嬉しかった。
私と陽花里、おんなじことを想っている。
(なんか、幸せ)
やっぱり、私の彼女、可愛いなぁ。
「もう朝ごはんできてるよ。陽花里、一緒に食べよう」
そういって、手を伸ばす。
陽花里はベッドの中から手を伸ばして、私が差し出した手をしっかりと握りしめる。
暖かくて、柔らかい陽花里の手。
生きてる、って実感がわく。
私は陽花里を抱き起すと、2人で一緒に、葵が準備してくれた朝ごはんを楽しく食べたのだった。
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「今日は何するの?」
「今日は一日お休みだから、午前中は勉強しようかな、って」
「凛ちゃんは偉いね」
「それほどでも…ないよ」
朝ごはんを食べて、2人で一緒に食器を片付けて、キッチンで綺麗に洗った後、私は机の前に座っていた。
勉強するのは、私の習慣になっている。
陽花里との同棲生活を始めたといっても、一度見についた習慣はなかなか変えることができないのだった。
「午後から、少しでかけようか。これから一緒に生活するんだし、陽花里もいろいろ買っておいた方がいいものもあるでしょう?」
「うん、嬉しい」
凛ちゃんとお買い物するの、好きー、と陽花里が嬉しそうに言う。
「2人でお揃いのもの、たくさん買おうね」
そう言いながら、勉強している私の傍にくると、椅子の下にちょこんと座ってきた。
(2人でお揃いのもの、か)
もともと、陽花里は私と何かペアになるものを欲しがる傾向があるけど、でもたぶん、いまそれを望んでいるのは、ただ単に私とペアなものが欲しい、という理由だけではなく。
(葵に、対抗したがっているんだろうな)
私と凛ちゃんの方が、特別なんだよ。私の方が、もっと彼女なんだよ、と伝えたいのだろう。
陽花里には、そういうところがあると、最近よく分かってきた。
一見ゆるふわなようにみえるこの子は、実はかなり独占欲が強いのだ。
(…そこもまた、可愛いんだけど)
彼女としての欲目なのかもしれないけれど、自分のことを特別に想ってくれているのだと感じることは、やはり嬉しいものだった。
「私、勉強しているから、その間、陽花里も自由にしてくれていていいよ」
あっちにいつものソファがあるから、そこでゆっくりしていて、と机にノートを開きながら言うと、
「ここがいい」
そう言って、陽花里は私の足元に座ったまま、私を見上げてきた。
「ここ?背中、痛くない?」
「凛ちゃんの傍がいい」
邪魔しないから、凛ちゃんの傍にいさせて?と、私の座っている椅子にもたれかかりながら、陽花里は言う。
どんなに豪奢で立派な玉座なんかよりも、陽花里にとっては私の傍の硬い椅子と冷たい床の方が、彼女にとっての宮殿になるのだろう。
「…うん、でも、つらくなったらいつでも言ってね」
「えへへー。凛ちゃん、大好き」
上機嫌な陽花里。
少し鼻歌まで歌っている。それがまた、微妙に下手くそなのが、逆に愛おしくてたまらない。
(けど)
こうやって必死に勉強している私より、陽花里の方がずっと成績がいいのだ。
大学生になって勉強していると、高校の時の勉強とはまったく趣が異なっていると実感する。
高校の時の勉強は、結局、受験のための勉強。
ある種のパズルのようなものであり、本当の意味での頭のよさとは、また違った能力が求められるものだと思う。
私は、勉学に対して要領がいい方だ。自分で言うのもなんなんだけど、かなり成績はよかった。中学高校と通じて常に学年トップだったし、そしてこうして、日本で一番難関な大学にだって無事に現役合格することが出来た。
(神童)
って呼ばれたこともあるな、と思い、苦笑する。
たしかに神童だった。実際、日本最難関の大学に入学しているのだから、同い年の子たちの中でも上位も上位、かなりの上澄みであるとは思う。
(でも結局、それだけだ)
私のとりえは勉強だったけど、それでも、大学に入ってみて分かった。
いくら頑張ったところで、凡人がどれだけ頑張って金のメッキで取り繕ったところで、
(本物にはかなわない)
理解を超える化け物というものは、確かに存在するのだった。
いま、私の足元で嬉しそうにのほほんとしている陽花里。私が必死に金メッキをコーティングした調度品だとしたら、彼女は生まれながらにして光り輝く金剛石、ダイヤモンドだった。
天才、と一言で呼称するのはおこがましいかもしれないけど、でも、他につけるべき名前も見当たらない。
高校までの勉強が受験のためのパズルなのだとしたら、大学で学ぶ勉強とは生きて動くための探求であり、真理をもとめる長い道のりなのかもしれなかった。
普通の大学生ならそれでもうまく乗りこなして、いい感じで分かったようになり、それで卒業して社会に出ていくものなのだろうけど。
(本物は違う)
同じものをみているのに、化け物たちの目に映るものは全く違っているのだろう。同じ世界にいるのに、天才たちの住む世界は別次元のものなのだろう。
だから私は、陽花里のことが、時々怖くなる。
ふとした断絶を感じることがある。
(私が出来るのは勉強しかないのに)
しょせん絶対かなわない。かなわないって分かっているのに、でも他にするべきこともない。
(化け物)
私にとって、陽花里は化け物であり、そしてベクトルは違うけれども、同じように化け物だと感じている人が他にもう1人いる。
(紫苑さん)
あの人も本当に化け物だった。だった、と過去形をつけなければいけないらしいのが苦しいのだけど…でも、私の知る限り、私が覚えている限り、やはり紫苑さんは化け物で天才で、あらがえない魅力を持っている人だった。
(…むかつく)
紫苑さんに対してだけ、私はむかつく。
あの人の言動や行動や雰囲気にむかつくし、あの人の歌声にパフォーマンスにすべてに心を動かされてしまうのにもむかつくし、そして、突然私の目の前から消えて行ってしまったことにもむかついて仕方がない。
(私の知っている化け物が2人とも…)
(私のことを、好きだなんて)
(いったい、どういうことなんだろう)
私に、そんな価値なんてないのに。
本物じゃないのに。
どんなに頑張っても、せいぜい金メッキをまとった秀才でしかないのに。
(嫌になる)
何をすればいいのか分からない。
どうするのがいいのかも分からない。
みんなには、ちゃんとした道がある。
(葵は…本気で役者を目指している)
(陽花里は天才で…何にだってなれる)
(紫苑さんは…今はどこにいるのか分からないけど、でもあの人は…絶対にまた…歌の道に戻ってくると思う。世界が紫苑さんを失うことを許すはずがないから)
(色葉さんは、本気でその紫苑さんを求めている。ついていっている。道がはっきりとしている)
私は?
私には…何があるのだろう?
分からないから、だから、私は自分で分かることしかできない。
私は勉強しかしてこなかったから、だから、勉強をしよう。
本物の天才たちにはかなわないと分かっているけど、けどそれが、私が頑張らない理由にはならない。
頑張れ。
頑張れ、私。
頑張るんだ…私。
頑張るしか…ないんだから。
「凛ちゃん、頑張ってるね」
ふいに、背中から声が聞こえてきた。
いつの間にか、陽花里が立ち上がって、私の背中に回っていた。
私より背の低い陽花里だけど、それでも椅子に座っている私よりは立っていたら背の高い位置にちゃんと来る。
陽花里は優しく、暖かく、光に包まれながら、私をそっと後ろから抱きしめてくれていた。
「…陽花里?」
「凛ちゃん、私、ね」
どんな凛ちゃんも大好きだけど…でも、こうやって頑張っている凛ちゃんが、一番好き。
「大好き」
ぽとり。
あれ、なんか。
私…涙こぼしている。
「あ、え、どうしたの、凛ちゃん!?」
いきなり泣き始めた私を見て、陽花里が慌てる。
「ごめんね、勉強の邪魔しちゃったね」
「頑張ってる凛ちゃん見てたら、我慢できなくて、つい抱き着いちゃった」
「ごめん、ごめんね…」
「違うの!」
嬉しいの。
嬉しかったの。
もがいている私を…救ってくれた気がしたの。
私は泣きながら、涙をふこうともせず、椅子に座ったままで振り向いた。
陽花里の顔が見える。
可愛い顔。
私を泣かせてしまったと、慌ててる顔。
ふふ。
陽花里が私を泣かせたっていうのは、本当だよ。
でもその理由は、陽花里が想っている理由じゃないよ。
私は、今。
陽花里に…救われたんだよ?
可愛い。
陽花里、可愛い。
私の彼女、可愛い。
あ。
私。
昨日より、昨夜より。
今朝より、今の方が。
陽花里のこと、好きになってる。
私の中の、陽花里が好きっていう気持ち、だんだん大きくなってきている気がする。
目の前に陽花里の顔がある。
私は椅子に座っていて。
陽花里は立っていて。
私の方が背が高いのに、陽花里はちっちゃいのに、でも座っている私と立っている陽花里なら、視線がちょうど同じくらいで。
唇。
朝、陽花里が寝ている時、悪戯心に触った、あの唇。
欲しい。
そう、思ってしまった。
これは悪戯心なんかじゃなくって、私の心から湧き上がってきた感情であって。
欲情?
愛情?
劣情?
まぁ、呼び方はなんだっていいや。
私は想っていることを想ったまま、嘘をつかずに、はっきりと伝えることにした。
「陽花里」
「…なに、凛ちゃん」
「私、今、陽花里と、とっても…」
「キス、したい」
こうして、私と陽花里は。
これから先、何度もなんども、数えきれないくらいすることになる、唇と唇と合わせる行為を。
その最初の一回目を。
恋人同士の…キスを。
したのだった。




