第27話 私の…私たちの、選択。
仮面を失った葵の顔は、涙の痕で目尻が紅く腫れていた。大きく見開かれた瞳は、淡い光をたたえながら、まっすぐに私の瞳に向き合っている。
(冗談…なんかじゃ、ないよね)
分かる。
葵が本気で言っているということが、痛いほど伝わってくる。
(2番目の彼女でも…いいから)
馬鹿な子。馬鹿な子。馬鹿な子。
自分が何を言っているのか理解しているのかしら。常識はずれなことを、酷いことを、自分を粗末にするようなことを。
全てのプライドも自尊心も体裁も全てかなぐり捨てて、相手の気持ちなんて考えない、考えようともしない、ただ自分の中にある逃げることも目を逸らすこともできない、純粋で触れると壊れそうな想いだけを差し出してくる。
(葵の瞳…)
まっすぐに私を見つめるその瞳に映っているのは、私だった。私自身の姿だった。
卑怯で、まっすぐで、でも自分の心から逃げることが出来ない、逃げようともしていない、そんな私の姿が見えていた。
(私の瞳にも…)
葵が映っているのだろう。
私たちは生まれた時は同じ一つの細胞で、成長していくにつれて枝分かれして他人になり、そして今、結局、根本のところでは変わりがなかったのだと思い知らされる。
(私は、葵だ)
(そして葵は…私だ)
ふたご…だからじゃない。それは確かに始まりだったけど、別々の道を歩いて別々の人間になった今だからこそ、本当の意味で、私たちは重なってしまったのだと思う。
私は、未来が好き。
誰に何を言われようとも、この気持ちが消えることはないし、消そうとも思わない。私の根本に根付いた、一番大事な思いだから。
そして、葵も…私が好き。
生まれた時から、今この時まで、生きている時間の全てに私への想いを募らせてきたのだろう。
私が未来を好きになったのは中学の時。
葵が私を好きになったのは、生まれた時。
長さで言えば、葵の方がずっと長く、1人の人間を愛してしまっていると言える。
石灰岩を含んだ雨水が、長い時間をかけて少しずつ固まって神秘的な鍾乳洞をつくるように、人生全てをかけて作った葵の心の風景には、どれだけ巨大な石筍が形作られているのだろうか。
(…でも、恋は、かけてきた時間だけで決まるものじゃない)
私の心の中にある、未来への想いは決して誰にも負けることが無いし…
「…凛ちゃん…」
陽花里が、私の手を強く握りしめてくる。痛い。この小さい身体のどこにこれほどの力が秘められているのだろうか。そう思ってしまうくらい、強く、強く握りしめてくる。
恋は、かけてきた時間だけでは決まらない。
陽花里は…その全身をつかって、全部をつかって、私に想いを告げてきてくれている。
陽花里と初めて出会ったのは2年前。私が大学に入った年。
私はいま、20歳。
つまり、葵が私を好きだった期間は…20年ということになる。
陽花里との2年と、葵との20年。
その差は10倍。
なら、想いの強さも20倍違うのかといえば…
(そんなこと、ないよね)
短い時間でも、圧縮された炭素がダイヤモンドに変わるように、陽花里の全身をかけた想いはキラキラ輝く金剛石となって私の心に差し込まれてきていた。
「…い…や」
想いが、口から言葉として漏れ出してきている。
陽花里は目に涙を浮かべながら、私を下から見上げて訴えてきている。
「いや…凛ちゃん…いや…」
私を見て。
私だけを見て。
私以外の子を…そんな目でみないで。
震えている。
肩が小刻みに揺れている。
暗い部屋の中で、陽花里の呼吸音と心の音が直接肌を通じて私に伝わってくる。
私、彼女だもん。
凛ちゃんだけの…彼女だもん。
「好き…」
凛ちゃん、好き。大好き。
私が一番、凛ちゃんのことが好き。
だから、私を。
掴んでくれた、この手を…
「離さないで…」
陽花里は、弱くて、強い。小動物のように震えているのに、牙も爪も持っていないのに、でも、私の心を、私の心の中の柔らかい部分を、的確に確実に執拗に貫いてきていた。
(…うん)
私は、幸せになりたい。
幸せになるためには、私の彼女を…こんなにも私を想ってくれている彼女を、不幸にするわけには…いかないよね。
私は、心の中に座っている、もう一人の私をそっと片付けて、葵の方を向く。
目を逸らさない葵。
まっすぐ私を、私の目を見続けている葵。
でも、いま、私に触れているのは陽花里で、体温を感じれているのも…陽花里の方なんだ。
「葵、ごめ…」
「一か月!」
葵は私の返答を遮ると、そのまま身体を乗り出してきて、私の両手を掴んできた。しっかりと握って、離そうとしない。私の右手は、葵の左手に。私の左手は、葵の右手に。しっかりと繋がれて、まるで…生まれる前、お母さんのお腹の中に一緒にいた時みたいに、ひとつになる。
「一か月だけでいいから…ううん、一か月じゃなくてもいい。もっと短くても…期間限定でもいい」
今は8月。
今月の終わりまででいい。
期限がきたら、きっぱりと別れるから…もう諦めるから。思い残すことは何もなくなるから。
だから。
「最後にひと時だけ、一回だけ、私を…凛の…彼女にしてほしい」
私の手を握りしめたまま、葵は私の隣にいる私の彼女、陽花里をみつめる。
「陽花里…さん」
「…」
「あなたが一番でいいです。凛の彼女として…あなたが…陽花里さんが上でいいです。私はその次で…あなたの下で…2番でいいです」
プライドの高い葵が。
自らの夢のために、親の反対を押し切ってまで家を出て役者を目指すような、一度決めた自分の想いは決して諦めない葵が、いまは、プライドも恥も外見もかなぐり捨てて、ただ、すがるように、お願いを続けている。
「私に…1度だけ、チャンスをください…好きなんです。好きだったんです。凛のこと…私、生まれた時からずっと、大好きなんです」
凛のことを好きな気持ち、他のだれよりも、あなたなら…分かるでしょう?
「あなたから凛をとろうなんて気持ちは…もう、ありません。もういいんです。私は1番じゃなくてもいい。ただ、凛のものになりたい。ふたご、っていう、生まれた時に決められたどうしようもない逃げ場のない血のつながりじゃなくって、ちゃんと、凛の意志で、凛に選ばれたい」
たとえそれが仮初の関係でも、幻の関係でも、馬鹿らしいものでもいい。
「凛の…彼女に…なりたいんです」
馬鹿。
馬鹿。葵の…馬鹿。
こんな葵、知らない。見たことが無い。
葵はいつも、クラスの中心で、明るくて人気者で、学生時代は生徒会をずっと続けていて、頼られていて私も頼っていて、仮面をかぶっているけど、仮面をかぶっているっていうのは私には分かっていて、そして家で2人きりでいる時だけ、仮面を外して素の自分を見せてくれていて。
優しくて。
(でもこんな、情けなくて必死な…むき出しの葵なんて)
初めて、見た。
「…」
陽花里は、何も答えない。
私は…怖くて、陽花里の方を向くことが出来なかった。可愛くて優しい、私のことを大好きな小動物みたいな陽花里。でも、今は…いまの陽花里がどんな顔をしているのか、私には想像もつかない。
陽花里がどんな顔で葵を見ているのか…分からない。
「…やっぱり、何を言われても…嫌です…」
たんたんと、ゆっくりと、でもはっきりと、陽花里は答えた。
答えながら…私の首筋に、陽花里の吐息が近づいてきた。
ぺろ。
舐められる。
いつものように…陽花里が私を舐めてくる。
この首筋。この場所。
あの日、葵の公演を見に行った時。
葵が私に「マーキング」と言って私を舐めてきた、まさにその場所だった。
見せつけるように。
私は、凛ちゃんの彼女で、あなたは彼女じゃなくて、私の方が選ばれたんです、あなたは選ばれていないんです、と、声を出さずとも私の首筋を舐める陽花里の舌先の動きが雄弁にそう物語っていた。
ぺろ。
また、舐める。
止まらない。止めようともしない。
陽花里が私を求めてくれているのが分かる。伝わる。
心が…揺れているのが、分かる。
「…卑怯ですよ」
涙声。
可愛い陽花里の声に、ぐずりとした涙が加わっている。
「私…凛ちゃんのこと…大好きだから…世界で一番、大好きだから…」
だから。
「あなたが嘘ついていないってこと、本気だってこと、分かっちゃうじゃないですか…」
いや。
いや。
絶対に、嫌。
凛ちゃんが、少しでも私以外の女の子のことみるなんて、絶対に、嫌。
「凛ちゃん」
「…陽花里」
「いま、凛ちゃん、断ろうとしてくれたよね。葵さんのこと、断ろうとしてくれたよね?」
「…うん」
だって、陽花里が
「私が、心配だったからだよね?私のこと、大切だからだよね?私が…」
凛ちゃんの彼女、だからだよね?
泣きじゃくる声。
陽花里の最後の声は涙に包まれて、はっきりとは聞こえなかった。
「いや…嫌だぁ…凛ちゃんが私以外の子のこと、思うの、やっぱり嫌だぁ…」
でも、それ以上に
「…私のせいで、凛ちゃんが…想いを抑えて苦しんでいるの…嫌だぁ…」
泣く。
泣きながら、私の首筋を舐める。
噛む。
甘噛み。
私に傷をつけないように、でも、私はここにいるんだからと、はっきりと痕をつけるように、かぷ、って噛んでくる。
「…8月末までです」
弱弱しい声で、かすれた声で、陽花里がつぶやいた。
「そこまでなら…私、我慢する。嫌だけど、すっごく嫌だけど…頑張って、我慢する」
でも。
1番は私。凛ちゃんの1番の彼女は、私。
ここは絶対に、ぜーったいに譲らない。
「凛ちゃん」
「…」
「私、我慢する。本当に嫌だけど、我慢するから…だから、凛ちゃんの口から、凛ちゃんの声で…伝えてあげて」
陽花里は、私の方を見なかった。
泣き顔を見られたくないのかな…と思ったけど、陽花里が私に隠し事をすることはないし、泣き顔も笑った顔も、変な顔も興奮した顔も、今まで全部の顔を見たことがあるから、ただ単に、いま、見られたくない気分なんだろうな、と、思った。
だから、私は陽花里の顔を見ないで。
月明りだけを見て。
今夜は…月が青いな、と思って。
青い月…あお、あおい、葵、かぁ、とちょっとおかしくなって。
そして、私の大切なふたごに。
恥も外聞もなく、全てをかなぐり捨てて、この取引に勝った女が欲しがっている言葉を、かけた。
「葵」
「…うん、凛」
「期間限定で…いいなら」
私の彼女に許しももらえたし、卑怯だとは思うけど、この卑怯というのは、葵の方なのか私の方なのか、はたまた2人とも同罪なのか、たぶん後者なんだろうとは思うけど、でも、今はこの卑怯さを受け入れよう。
「私、彼女、いるんだけど」
葵を見つめる。
葵は…目を、輝かせている。
なら、いいかな。
「ちゃんとできるかは分からないけど…私の彼女に…なる?」
「なる!」
葵は、即答した。
本当に仮面、かぶっていなかったのかな?
実はまだ1枚、隠し持っていたんじゃないの?
そんなことをふと考えてしまったけど、まぁ、葵が幸せそうに見えたから。
あとは全てを、この青い月にゆだねることに、私は、した。
■■■■■
翌日。
「おじゃましまーす!」
寝ぼけまなこで扉を開けると、そこには普段出さないような大きな声で笑いながら立っている陽花里がいた。
「…あれ?」
昨夜、あれから、陽花里、家に帰ったよね。
あんなことがあったから、さすがに…何もすることもなく。
なぜか葵も一緒に帰ったから、まるで恋人2人に逃げられたかのような変な気分になっていたことを、私はぼんやりと思い出していた。
「凛ちゃん、中に入ってもいい?」
「あ、うん、もちろん」
そう言いながら、陽花里を見る。
小さな陽花里が、大きな荷物を背負っている。
背負っているというか…背中に大きなリュック、そして右手と左手にも大きなバッグを持っている。
(どうやってピンポン押したんだろう?)
ふと、そんな疑問が湧き上がってきた。
「失礼します…」
丁寧にそういうと、陽花里は履いていた靴をぬいで、玄関に置く。ちゃんと向きもそろえて整えるのが、陽花里の性格を表しているみたいで、好きだな、と思った。
そのまま陽花里はずんずんと中に入ってくる。
荷物と一緒に、というより、まるで荷物に引きずられているみたいに、といった感じ。
「あ、あの、陽花里?」
「なに、凛ちゃん」
「えーっと、あの、この荷物は、なに?」
「とりあえずの着替えとか、お気に入りの枕とか、歯ブラシとかだよ」
「へ、へー」
へー。
…
なんで?
きょとんとしている私を置いて部屋の中に入ると、昨夜3人で座っていろいろ話をしたソファの上に陽花里はちょこんと座って、そして私の方を振り向いて、にこっと笑って、言ったのだった。
「今日から私、凛ちゃんと同棲することにしました」
やっぱり、この子。
一見弱弱しい小動物みたいに見えるけど…実は一番強い…よね?
月明りはもう見えない。
窓から入ってくるのは、8月の太陽の光。
その光の中で、陽花里は、呆然としている私を見ながら、にこにこほほ笑んでいたのだった。




