第26話 ふたりはふたご。
紫苑さんの歌声が私の部屋に満ちている。
当たり前のラブソング。
恋してもいいよ、恋って、素敵なものだよと、透き通る歌声を通して全力で伝えてきてくれている。
(からっぽだったくせに)
そう、思う。
紫苑さんは、恋を知らなかった。恋を知らないで、恋の歌を歌っていた。恋に焦がれていた。紫苑さんの歌声がこんなに胸に響いてくるのは…
(恋を求めていた、からなんだろうな)
自分の中に無かったから。生まれつき欠けたピースに当てはまる欠片を探していたから。熱望していたから。乾いた砂漠の中で一滴の水を求めるように、震える手を伸ばしていたから。
その気持ちが、恋を求める根源的な気持ちが、歌に込められていたのかもしれない。
「…これ、いい歌だね」
私の部屋の中で、私のパソコンを開いて、勝手に操作しながら紫苑さんの歌を再生していた葵が、本当にしみじみとそう言った。
「この歌声…たしか前に、凛が私たちの劇団を見に来た時に一緒にいた子のものだよね。紫苑、って名乗っていたかな」
葵は首をかしげると、想いを巡らせているみたいだった。
「あの時は、詩織さんに失礼な口をきいていたから、なんて嫌な奴、非常識な奴、と思っていたけど…」
曲調が強くなる。スピーカーから流れてくる紫苑さんの歌声が、曲の盛り上がりと共に洗練されて高まっていく。
恋してもいいんだよ、恋って素晴らしいものなんだよ、と紫苑さんの歌声は雄弁に高らかに歌い上げている。
「こんな歌を歌えるなら…認めざるをえない、よね」
才能は、全てを凌駕するから。
どんなに欠点があろうが、どれほど醜かろうが、非常識だろうが傲岸不遜であろうが、才能さえあればそんなものは全てねじ伏せられる。
葵は、役者の道を進んでいる。
今はまだ駆け出しだけど、一歩一歩、その厳しい道を自らの足で歩んでいる。
役者は、俳優は、女優は。
一瞬刹那のそのひと時を、ただ、才能という光に照らされることで駆け抜けることが出来るのだから。
(その才能が…)
いま、紫苑さんから抜け落ちている…らしい。
直接見たわけでもないし、直接声を聞いたわけではないけど、でも、色葉さんの言葉だから、この世界で誰よりも一番、紫苑さんのことを知っている色葉さんから伝えられた言葉だから、真実に違いない。
「すごい才能だね…羨ましい」
(その才能は…今はもうないんだよ)
紫苑さんにたいする葵からの賞賛に対し、口には出さずに、そう思う。
なんという皮肉な結果、なのだろう。
「葵」
私は、話題を逸らす。ここにはいない人のことを思うのではなく、今、目の前にいる人に語り掛ける。
「どうして、ここに…私の部屋にいるの?」
「どうしてって言われても」
葵は懐から、鍵を取り出す。
窓から差し込んでくる月明りを反射して、白く輝く鍵。
私も同じものを持っている…というより、私のものがオリジナルで、葵が持っている者はただのコピー。にせもの。まがいもの。
「いつもどおり、合鍵をつかって、凛に会いに来た」
「勝手ね」
「ふたごだもん」
答えになっているようで、答えにはなっていない。でも、これは、いつもの事なのだ。私は一人暮らしをしているのだけど、そんなの関係なく、葵は私の部屋に合鍵をつかって勝手に入ってくる。
多い時では、週の半分以上はやってくる。
最近は…役者の仕事が忙しかったのか顔を出さなかったのだけど、今日やってきたという事は、公演に一区切りでもついたのだろう。
(よりによって、今日)
私の後ろで、不安そうに私の袖をつかんでいる陽花里のことを想い、タイミングの悪さに思わずため息をついてしまう。
別に今夜、陽花里と悪いことをしようと思っていたわけではないけれど…ない、はずだけど。
ある種の期待をしていた自分がいたことは否定できないのは本当で、葵が姿を見せた時点で、そんな事態になることは100パーセント無くなったのだった。
(でも少し)
ほっとしている自分もいる。私は陽花里のことが好きで、陽花里も私のことが大好きで、私たちは付き合っていて、彼女と彼女で、そして陽花里は私といわゆる「そういう」関係になることを望んでいて…私はそれを知っていたのに、部屋に誘ってしまった。
葵が来てくれたことで、関係が動かなかったことに安堵している自分が、確かにいる。私、言い訳ばかり探している。
(駄目だな、私)
弱くて、卑怯だな。
でも…それも含めて全部、これが私なんだ。
「その子が…」
凛の、彼女?
葵が再び、私に問いかけてくる。
葵の視線の先にいるのは、私の後ろにいる陽花里。
陽花里はびくっとして、私の背中に隠れようとする。震えている。怖がっている。不安にさせてしまっている。
私は陽花里と葵の間に立っている。
私が、ちゃんとしなくちゃいけない。
彼女…なんだから。
「そうよ」
そう言って、私の背中に隠れている陽花里を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめて、そのまま葵を見つめる。
「三崎陽花里。私の彼女。葵、この前会ったよね?」
あの公演の夜。
葵が、ロミオとジュリエットのロミオを演じた夜。
紫苑さんが、詩織さんに対して失礼なことを言った夜。
そして2人で…私の首筋に、マーキングをした夜。
「もちろん、覚えているよ」
忘れるわけがないじゃない。
私がつけたマーキングを上書きしてきた女なんだもの。
葵は、ソファーの上に胡坐をかいて座った。そのまま、じっと陽花里を見つめている。
スピーカーからは紫苑さんの歌声がまだ流れ続けている。いま流れているのは、落ち着いたバラード。紫苑さんのゆったりとした声に私たちは包まれる。
「凛」
「なに、葵」
「ずっと立っていないで、座ったら?」
「そうね。だってここ、私の部屋だもの」
私はそう言うと、陽花里の手を引っ張りながら部屋の中に入る。
入って、葵が座っているソファーの前に立って。
「ちょっと詰めて」
と言って、葵をソファーの端っこに追いやると、真ん中に座る。
「陽花里、ここに座って」
そういって、私の隣をぽんぽんと手で叩く。
陽花里はおずおずと…でも、迷うことはなく、ゆっくりと私の隣に座る。
1つのソファーに3人。
私を中心にして、右隣に葵。左隣に陽花里。
あはは。
両手に花って、こういうこと言うのかな。
「凛」
「なによ、葵」
「これ、なに?」
「なにって…」
戦場?
私をめぐって繰り広げられる愛の戦い?なんてね。何言っているんだ、私。何考えているんだ、私。
「東京に上京してきた最初の頃に、凛、言ったよね」
気まずい沈黙を破ったのは葵の方だった。
「未来のことが忘れられない、って」
「…言ったよ」
未来。
私の、大好きな人。
中学の時に出会って、好きになって、大好きになって。
高校の時もずっと片想いをしていて…でも想いは届かなくて。
大学に入って離れ離れになっても、それでも好き、という気持ちは消えなくて。
(この前)
完全に、完璧に、容赦なく…私をふってくれた、愛しい人。
「忘れられないのに、彼女つくるの?」
「うん」
葵の問いに、私は答える。
もうさんざん迷ったから、この件に対して、私にもう迷いはなかった。
私は、未来のことが好き。
たぶん、これからもずっと、未来のことが大好き。
この気持ちは…変わらないし、変えられない。
それほどまでに…未来は、私の心の奥底の聖域に食い込んでしまっていた。
でも。
(幸せになっても、いいのよ?)
あの夜の、水瀬先生の言葉が思い出される。
(幸せになれるなら、卑怯だっていいじゃない)
卑怯だっていい。
何を言われたっていい。
私は…私を幸せにするって、決めたんだから。
私は…幸せに、なりたいんだって、知ってしまったんだから。
「凛ちゃん…」
私の隣で、不安そうに私の手をぎゅっと握って、潤んだ瞳で見上げてくる陽花里。私よりも頭一つ小さいこの彼女は、私よりも何倍も大きな愛情で私を包み込んでくれる。
私の心は少しずつ、少しずつ、温暖化して崩れ落ちる南極の氷山のように、溶かされ暖められていく。
「陽花里、好きだよ」
この言葉は、もう嘘じゃない。
私はもう、嘘はつかない。
自分の心を、本心を、偽らない。
私は陽花里の肩に手をやると、ぎゅっと引き寄せる。
「まだ陽花里からもらっている愛情には足りていないとは思うけど、でも、昨日より今日の方が、陽花里のこと、好きになってる。たぶん、明日はもっと…陽花里のこと、好きになると…思う」
「私、頑張る」
凛ちゃんに、もっと私のこと好きになってもらえるように…もっともっと、凛ちゃんのこと、好きっていうから。好きって気持ち、伝えるから。
小さな子犬みたいな陽花里。フランス人形みたいに可愛い陽花里。でも時々、私でもちょっと引いちゃうくらいの、女としての情念を見せつけてくる陽花里。まだまだ私の知らない一面をたくさん持っていて、その秘密をひとつひとつ、枇杷の皮を剥いでいくように見ていきたい。知っていきたい。
陽花里の体温が伝わってくる。
私の体温も、陽花里に伝わっていると思う。
心と身体が暖かくなって、同調して、じんわりとした幸せが立ち上ってきて、
「私は、認めないっ」
葵が全てを否定した。
「認めない、認めない、認めない、認めないっ」
いいながら、口調を強めながら、目の前のパソコンに手を伸ばす。音量があがり、流れている紫苑さんの歌声が大きくなる。
当たり前のラブソングから、熱量のこもった激しい渇望の歌へと変わる。
「三崎陽花里なんて、私は認めないっ」
葵はそういうと、私の方を向く。
私を通して、陽花里を見る。睨みつける。
陽花里はおびえて、私にしがみついてくる。
「この子、何も持っていないじゃない。なにも才能なんて持っていないじゃない。ただ、可愛いだけじゃない」
口調が強くなる。荒々しくなる。
葵は…普段はほとんど…感情を高ぶらせない。
明るく、元気で、みんなに好かれていて。
たくさんの仮面をかぶっていて、それをうまく使いこなしている。
その本音を見せるのは私だけで、葵の本音は、いつも私に対する限りなく深い愛情に満ち溢れていて、穏やかで。
それが。
「こんな女の、何がいいっていうの!?」
今は、仮面をかなぐり捨てて、私ですら知らなかった奥の激情をあらわにぶつけてきていた。
…もしかしたら、これもまた、私の知らない葵の仮面なのかもしれないけど。もしそうなら、演技でこれをしているのなら、私は葵には敵わないな、と思ってしまう。
葵は役者だから。
役者を目指しているから。
無数に仮面を持っていて、もしかしたら自分ですら気づいていない仮面を作り出しては被っているのかも…しれない。
本当のことは、誰にも、たぶん葵自身にすら、分からないのだろうけど。
「陽花里は…可愛いんだ」
「だから、可愛いだけじゃないっ」
「そう、可愛いだけ」
でも、私、ね。
「生まれてから一回も、人のこと、可愛いって思ったこと、無かったの」
未来のことは、好き。可愛いとか可愛くないとか、そう言う次元じゃない。ただ、好き。
でも、陽花里は。陽花里をみていたら、胸の奥がじゅわってなって、可愛い、という気持ちが濡れ渡って浸透していくの。
「…そんなの分かんない」
「私だって分からないよ」
分からないから、好きになるの。
「…未来なら」
先ほどまでの激情は影を潜め、葵は、ゆっくりとうなだれながら、まるで自分に言い聞かせるかのようなか細い声を絞り出す。
「凛がどれだけ未来のことを好きだったか、私はずっと知っていたから、思い知らされてきたから、凛の相手が未来なら、諦めもつくの」
ついていたの。
凛はずっと、未来だけを見つめていて、その未来は、凛の気持ちを知りながら、水瀬先生の方ばかり見ていて。
私もずっと、凛だけを見つめていて、凛も私の気持ちを知りながら、未来の方ばかり見ていて。
「私の想いは凛に届かないと分かっていたけど、でも凛の想いも未来に届かないって分かっていたから、だから、ある意味…私は安心してみていたの」
私は凛を手に入れられないけど。
凛も未来を手に入れられない。
でも、凛はずっと未来しか見ていないから。
だから。
凛は、誰のものにも、ならない。
「なのに、どうして、他の人を見るの…未来が好きなくせに、未来のことが忘れられないくせに、どうして他の人を好きになれる余裕があるの…」
それが。
「あの、紫苑っていう女なら…まだ分かるよ。圧倒的な才能だもん。才能に叩き潰されるのは分かるよ」
私、いま、そういう世界にいるから。
水無月詩織っていう、圧倒的な才能に叩き潰されているから。
才能は、憧れだから。
才能に胡坐をかくことなく、まい進していくその姿は、純粋に美しいって思えるから。
「でも…その女は…ただの…」
凡人、じゃない。
才能なんて、まるでないじゃない。
どうして…
陽花里は、私の隣に座っている陽花里は、少し震えた後、震えが止まった。私を握り締める力が、すっと消える。陽花里は、弱い。小さな子犬のようで、見ていて危なっかしくて、触ると壊れてしまいそうで。
でも、本当は。
私よりも、誰よりも…強い。
「葵、さん」
口を開き、声を出そうとする。
私は隣で…そっと。
陽花里の口元に手をあてる。
そして、陽花里を見つめて、首を振る。
ごめん、陽花里。
今は…少し…黙っていて…もらえるかな。
これは、私と、葵の。
同じ年、同じ月、同じ日、同時に生まれたふたごの問題なんだ。
ずっと目を伏せてきたけど、いつかは超えていかなくちゃいけない問題なんだ。
(私が、未来を諦めきれずに…逃げて、逃げて、でも、向き合ったように)
陽花里をみる。
可愛い、私の彼女。
私は未来と…過去と向き合おうと思えたのは、あなたがいてくれたから。
あなたが、私のことを、好きって、言ってくれたから。
「葵」
私は、うつむいたままの葵を見る。
いつの間にか、紫苑さんの歌声は聞こえない。
再生は…終わっていた。
記録された才能は…いま、この場には、無くなっていた。
消えていた。
「…凛」
「あのね」
私はそっと、葵の背中に手をあてる。
心臓の裏側。
心臓が動く感触は伝わらないけど、でも、暖かさは感じる。
この裏で、向こう側で、私のふたごの心臓は、私の身体の中にある心臓と同じように動いて血を巡らせているんだろうな。
「未来のことは…今でも、大好き。忘れられないし、忘れる気もない。それでも、未来を好きなままで、幸せになりたいの…他の人を、好きになりたいの」
「…」
「好きな人がいるのに、別に好きな人をつくるなんて、駄目なこと、悪いことだって思って、ずっとずっと考えないように、目を背けてきたんだけど」
でも。
分かっちゃった。
「私ね、幸せになりたいの」
本音を、こぼす。
「私ね、いい子じゃなくていい、我儘な子になっちゃった。卑怯な子になっちゃった。だから、ね」
笑う。
ちゃんと笑えて…いるかな。
「私、ずっと好きな子がいるままで、彼女つくっちゃった。好きな人、増やしちゃった。認めて、なんていえない。葵には葵の考えがあるもんね。私たち、ふたごだけど…もう、別の人間、だもんね」
だから。
「葵が何と言おうとも…私、陽花里と付き合うよ。こんな卑怯で我儘な私で…ごめんね」
沈黙。
長い長い、沈黙。
窓から差し込む月明りだけが、私たち3人を照らしていた。
陽花里が、私の傍にいてくれている。
こんなずるい私を、それでも受けて入れてくれている。
私の、大事な彼女。
嬉しい、な。
葵は。
卑怯な私の告白を聞いた、私のたったひとりの、血を分けたふたごの葵は。
ゆっくりと。
月明りに照らされながら、本当にゆっくりと顔をあげた。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃ。
綺麗な顔が…台無し。
そして葵は。
私のふたごの葵は。
私と同じ細胞から生まれて、別れて、別人になった葵は。
もとは私と同じだった葵は。
私を見て、私が想ってもいなかった言葉を、口にしたのだった。
「好きな人がいても…好きな人を作ってもいいなら…そんな卑怯なことが…我儘なことが…許されるなら」
それで、幸せになれるなら。
「…私も…凛の彼女に…してほしい…2番目の彼女でも…いいから」
葵が被っていた仮面は、もう堕ちて無くなっていた。




