第24話 恋を知らない化け物が
翌日。
私は陽花里と一緒にスタジオに向かった。
途中、ずっと陽花里と手を握っていた。暖かい手。柔らかい手。でも、その手が少しだけ、震えている気がする。
8月は暑い。だから、寒いから震えているわけじゃない。
(紫苑さん)
当たり前にあると思っていた日常は、実は当たり前のものなんかじゃなかった。見えない、あやういバランスで、なんとか成り立っていただけのものだった。
何度かメッセージを送ったものの、返事はかえってこなかった。
そもそも、既読にすらならない。
まだお昼。
こんな時間には、スタジオにいないかもしれない。けれど何か、痕跡があるかもしれない。
(会って、どうしたいんだろう)
ふと、そんな考えがよぎるものの、すぐにそれを打ち消す。今はただ、紫苑さんに会いたい、紫苑さんと話をしたい、それだけを想っていた。
「凛ちゃん…怖い顔してる」
「あ、ごめんね、陽花里」
「ううん…心配、だよね」
心配。
たしかに、心配。
でも、それ以上に。
(私が…原因…だよね)
と、思ってしまう。
紫苑さんに最後に会ったのは…あの夜。
私が、陽花里を選んだ夜だった。
(そういえば)
あの夜以来、紫苑さんに会っていない…どころか、会おうとすらしていなかった。私の頭の中は陽花里との付き合いのことで一杯になっていて…過去のこと、未来のことで一杯になっていて…頭の中から、紫苑さんのことがすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだった。
(でも、それは悪いこと?)
好きかもしれない人のことを選んで、好きだった人との心の整理をつけて、幸せになることを決意して、彼女のことを、好きになる。
私は、私なりに全力で、前を向いただけ…だったと思う。
だから、これは、私の、私だけの選択だ。
スタジオの扉を開ける。
鍵はかかっていない。
ぎぃ、と少し重たい音がして、扉は開く。
外の光が中に差し込んで、暗いスタジオ内が少し明るく見えた。
「失礼、します…」
ゆっくりと、おずおずと、中に入る。
手は、陽花里を握りしめたまま。
陽花里の感触を感じて、私は少し、ほっとする。
いつも来ている場所。いつも4人でいる場所。
当たり前だった日常。当たり前じゃなくなった今。
「凛?」
中から、私を呼ぶ声がする。
私の知っている声。
紫苑さん…じゃない。
「色葉さん」
「どうしたの、いきなり」
「どうしたのって…」
色葉さんはキーボードの前に座って、どこかうつろな目をしていた。
背の高い色葉さんが、なぜか小さく見える。
8月なのに、色葉さんは長袖を着ていた。胸元に黒いリボンをつけた、上品な白いブラウス。長いスカートは落ち着いていて、まるでどこかの深窓の令嬢のような雰囲気がある。
「紫苑さんが…」
「いないわよ」
ここには、と、色葉さんが続ける。
「ここには、ということは」
どこか別の場所にいる、ということですか、と、色葉さんに聞いてみる。
色葉さんは生気の抜けた表情で私を見ると、「ええ」とだけ答えた。
(よかった)
と、思う。
紫苑さんは、少なくとも誰にも何も言わずに消えたわけじゃなかった。死んでいる…わけでもなかった。
「陽花里」
色葉さんが、私の隣にいる陽花里に声をかける。名前を呼ばれた陽花里は、少しびくっとして、私の手をぎゅっと握る。
「こっちに、おいで。別にとって喰おうって思っているわけじゃないから」
そんなことしたら、怖い彼女に恨まれるしね、と、色葉さんは乾いた声で笑う。
陽花里は不安そうな顔で私を見つめてくる。私はこくん、と小さく頷いた。
「じゃぁ…」
おずおずと、びくびくと、まるで食べられると理解した小動物が捕食者に向かって覚悟を決めて歩き出したかのように、陽花里は色葉さんに近づいていく。
色葉さんは…獰猛な捕食者ではなかった。
近づいた陽花里を、先ほどまでとは違った優しい瞳になり、そっと、抱き寄せる。
(…私の彼女なのに)
こんな時なのに、そう想ってしまった。
醜い嫉妬。
私の中にそんな感情があるなんて…知らなかった。
「陽花里は可愛いね」
「色葉さん…」
「凛が選ぶのも分かるよ。触っていて、落ち着く。安心して、もっと撫でたくなる」
言葉どおり、色葉さんはゆっくりと、優しく、陽花里の頭や背中を撫でていた。最初は少し緊張していた陽花里も、そのうち身体を色葉さんにゆだねて、落ち着いてきたみたいだった。
陽花里を撫でながら、色葉さんは私を見つめてきた。
その瞳の中に浮かんだ感情は…なんなのだろう。
一言では言い表せない、複雑な色。
「紫苑なんかを選んでいたら、こうはいかないよ。あの子は才能の塊だけど…才能しかないから。安らぐ暇なんてあるわけがない」
「そう、ですかね」
「私は紫苑のことを昔からずっと知っているからね。だから、断言できる」
あんな子、ろくな女じゃない。
そう言った色葉さんの表情は、すこし苦しそうだった。
「紫苑さんが今どこにいるのか、色葉さん、知っているんですか?」
「…知ってるよ」
「それを、私たちに教えてくれることは…」
「できない」
予想通りの答えだった。
そもそも、居場所を伝える気があるのなら、最初からそうしていただろう。今のいままでそれをされなかったという事は…つまり、そう言うことなのだ。私たちと、距離を置こうとしているのだ。
(なんか、むかつく)
紫苑さんがとりあえずは無事なのだと分かると、今度はだんだんと、腹が立ってきた。
そもそも、私を巻き込んだのは紫苑さんの方じゃないか。勝手に巻き込んで、勝手にいなくなって、自分勝手すぎる。
「紫苑のこと、自分勝手だと思っているでしょう?」
私の表情にそれが浮かんでいたのかな…まるで私の心を読んだかのように、色葉さんがたずねてきた。その通りだったので、私はこくん、と首を縦に振った。
「あはは。それでこそ、凛だよ。凛のそういう自分を偽らないところを、紫苑は気に入ったんだろうね」
生まれて初めて、他人を気に入ったんだろうね。
他人のことを、気にしたんだろうね。
いつも隣にいた私のことなんか…見ていなかったくせに。
色葉さんは笑いながら、陽花里を撫でながら、悲しそうにそう言った。
「凛、陽花里、私はね」
あんたたちのことを、気に入っているんだ。
これは、本当だよ?私は嘘をつくのが上手いけど、でもこの言葉は嘘じゃない。
色葉さんは目で、私に「座って」と語り掛けてきた。
私は色葉さんにうながされた椅子ではなく…近くに歩くと、陽花里の隣に座った。
「彼女、ですから」
少し照れながら、そう言う。
陽花里は嬉しそうに、色葉さんから離れ、私にくっついてきた。
暖かい。
この暖かさは…私のものだ。誰にも、渡したくない。
「意外。あなた本当に…陽花里のこと、ちゃんと彼女だって思っているんだね」
「…この前、そう言ったじゃないですか。あの時、色葉さんだってその場にいたじゃないですか」
「だって凛、あなた、あの時」
紫苑を、ふった時。
「陽花里のこと…好きじゃなかった、でしょ?」
この人は…怖い。
いつも紫苑さんしか見ていないような、いつも飄飄としているような、そんな捉えどころのない行動をしているくせに、いったいどこまで深くものごとを見ているのだろう?
「…好き、でしたよ」
「ふーん、まぁ、そういうことに、しておこうか」
今はちゃんと、陽花里のこと、好きになってるみたいだしね。
色葉さんはそう言うと、少し、笑う。
「私は、凛ちゃんのこと、大好き」
「ありがとう、陽花里」
頭を撫でる。嬉しそうに、陽花里は私に身を委ねてくる。
「それで、話を戻しますけど」
紫苑さんは、無事、なんですよね?
答えは、イエス。
紫苑さんは、私に会いたくないと言っているんですよね?
答えは、イエス。
紫苑さん、私のこと、嫌いになったのでしょうか?
答えは、ノー。
「紫苑さんがいなくなったのは…私が、陽花里を選んで、紫苑さんを選ばなかったことが、原因ですか?」
「それは…ただの、きっかけだよ」
色葉さんは、指を動かした。
キーボードの上で、指がダンスを踊る。
音色が、スタジオ内に溢れ出す。
あの日、初めて見たライブを思い出す。
音が色になる瞬間。
紫苑さんの声が、世界を変えていった瞬間。
あの才能。
溢れる才能。
人の心を惑わさずにはいられない、輝く才能。
「私は、紫苑のあの才能に、痺れるほど惚れこんでいるんだ」
自分の人生かけてもいい、と思えるくらいにはね、と、キーボードを弾きながら色葉さんは言う。
「心がないくせに、他のなによりも心に響く歌声を届けてくる。他には何もないのに、才能だけで生きている。心がないから、心を求めている。その永遠に満たされない渇望に、私は心を溶かされたんだ」
歌う。
紫苑さんの歌。
色葉さんの口から出る、紫苑さんの歌。
陽花里が、そっと私の腕を掴んできた。
そうだった。
陽花里は、この2人が大好きだった。大ファンだった。憧れだった。
これは、今は、その憧れの半分が届けてくれる、私たちへの小さなミニライブだった。
曲が終わり、歌が終わり。
キーボードを前にして、色葉さんは下をうつむき。
「失恋したのが問題だったんじゃない」
ぽつりぽつりと、つぶやく。
「恋を知らなかった子が、恋を知ってしまったことが、駄目だったんだ」
私たちの方を振り向く。
色葉さんのかけていた眼鏡に、色葉さんがうつむいた時に流していた涙が溜まっていた。
「私が愛したあの子は、死んでしまったの」
生きている。
紫苑さんは、生きている。
色葉さんは、さっき、そう言った。
紫苑さんは無事です、といった。
でも、今。
死んだって。
「あの子ね」
色葉さんは、眼鏡をとった。涙の痕がみえる。目の下が紅く腫れていた。
「歌が、歌えなくなったの」
恋を知らずに恋を歌っていた化け物は。
恋を知って、人間になり。
その才能を…失ってしまったのでした。




