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22/22

第22話 私の未来 ~後編~

 グラスに注がれた赤ワインは、ルビーよりも濃い赤色だった。深く、暗い黄色がかった赤色は、血液を連想させる。

 未来と私はそれぞれグラスを持ち、お互いの血液…ではなく、赤ワインを飲んでいた。

 喉の奥から熱さを感じ、お腹の中から全身に酔いが回っていくのが分かる。


「凛」

「なに、未来」

「美味しいね」

「…うん、美味しい」


 本当に、美味しい。いつも飲んでいるお酒より、ずっと美味しい。どうしてこんなに美味しいのだろう、と思って、すぐに答えが分かった。好きな人と飲んでいるからだ。私は、未来が好き。美味しさというのは、脳が感じるのだろう。その私の脳が、未来を求めてまどろんでいるのが分かった。


「…沙織さん、いつも一人で飲んでいるの」

「そうなの?」

「まだ私が20歳になっていなかったから…18歳で成人できるのに、成人したのにお酒飲めないって、なんか不思議だね」

「…そうだね」


 そう言いながら、一口飲む。

 同じこと、思っていた。


(成人の年齢は20歳から18歳に引き下げられたというのに、飲酒が許される年齢は20歳据え置きなのは何故だろう)


 そう思い、20歳になった時、生まれて初めて一人でバーに行ってお酒を飲んで、そこで紫苑さんと出会ったんだ。


(いろいろ、あったな)


 18歳から20歳までの2年間、私は停滞していたように思う。川の底で淀んで沈みながら空を見つめていただけだったように思う。それが20歳になり、いきなり流れが強くなって、私は川面に顔を出して、新しい空気を吸っているのだ。


(お酒)


 お酒が、全ての始まりだったのかもしれない。そう思いながら、また一口。喉を通る紅い液体。

 目の前にいるのは…好きな人。

 未来の頬が紅く染まっている。酔いが回ってきているのが伝わる。私もたぶん、同じような顔しているんだろうな。顔が紅くなっているんだろうな。私の場合は酔いだけじゃなく…未来に会えているから、染まっているんだけど。


 他愛もない話を、2人でする。

 昔のこと、今のこと、これからのこと。

 未来の話をきくのは嬉しいけど、未来が水瀬先生のことを話すのをきくのは、少し胸が痛んだ。…嘘。正直にいうと、かなり胸が痛い。ちくちくが、ずきずきする。


「…沙織さん、優しいの…結婚する前から優しかったけど…結婚してから、もっと優しくなったの…」


 とろんとした瞳で、未来はそう語ってきた。指にはめられた指輪を、とても大切そうに…とても愛おしそうに眺めている。

 もちろん、女同士で結婚なんて出来ない。

 それどころか、未来と水瀬先生は…血がつながっている。未来のお母さんの妹が、水瀬先生。姪と叔母の関係。年齢差は、12歳。


(でも、そんなの関係ないか)


 私は、ずっと未来を見てきたから、分かる。

 私が未来と初めて出会ったのは、13歳の時。

 その時、すでに未来は叔母の水瀬先生に恋をしていた。そんな恋する未来に…私は恋をしたんだ。

 そして、未来がその初恋を成就させるまでを、ずっと隣で見てきた。

 恋にまっすぐに向かう未来。その姿がキラキラしていて、眩しくて、私は憧れたんだ。

 私が好きな人が好きな人は、私じゃなかった。

 でも、好きな人が幸せになっている姿を見れるのは…幸せなことだった。


「未来」

「なに、凛」

「…結婚、おめでとう」


 そういえば私。

 まだ、未来に、結婚おめでとう、って伝えていなかった。

 高校卒業して2年間、直接会ってはいなかったけど、連絡はしていた。本当なら、その連絡の中で「おめでとう」って伝えるべきだったのかもしれないし、伝える機会はいくらでもあった。

 でも…嫌だった。


 好きな人が、完全に自分から離れていったのだと実感するのが、嫌だった。


(結婚)


 未来と水瀬先生は、正式に結婚しているわけではない。法律上、それは出来ない。

 女同士で、姪と叔母で、12歳も年が離れていて。


(学生時代は、それに教師と生徒、という関係まで加わっていて)


 笑っちゃう。なんて障害だらけだったんだろう。どうして諦めなかったのだろう。諦める、なんて選択肢、未来には最初からなかったんだろうな。

 だから、全部全部乗り越えて、そして、2人で、結婚、という取り決めをした。

 2人だけの関係。


 法律上じゃない、2人だけの取り決め。でも、その取り決めは、他のどんな絆よりも硬いのだろう。


「未来、いま、幸せ?」

「うん…とっても…」


 幸せ、だよ。

 そういう未来の笑顔が、とても素敵で。

 私はまたもう一口、ワインを飲む。


 今から伝えることは…お酒の力を借りているわけじゃない。私の、私だけの意志で、私の気持ちをちゃんと伝えたい。


「未来、私、あなたのことが、好き」

「…うん。知ってる」

「中学の時、出会った時に好きになって、高校時代も、ずっと好きだった。そして今も…好き。大好き」

「…ありがとう、凛」


 未来はこんな時、「ごめんなさい」とは言わない。「ありがとう」って言ってくれる。それは、未来が人を好きになるという事の大事さを知っているから。

 だから、私はそんな未来を…好きになったんだ。


「私も、凛のこと、大好きだよ」

「…うん…知ってるよ」

「でも、凛の好きと、私の好きは…違うの」

「…それも、知ってる」

「凛のことは、大好き。それは昔も今も、ずっと変わらない。私の、一番の、親友だもん」


 けれど。

 未来は、私をまっすぐに見つめてくる。

 その指で光っているのは…指輪。


「凛のことは、好き。でも、私が愛しているのは…沙織さんなの」

「…知ってる」


 ずっと、見てきたから。

 骨身にしみて、分かっていたから。

 私は、震えながら、唾を飲み込みながら、言ってはいけないことを、口にした。


「…未来」

「…なに、凛」

「…一回だけ…私…未来と…」


 キス、したい。


 昔からずっと想っていて、今も時々、妄想してしまう。そんな私の中にある、どろどろっとした思い。目を逸らしたいけど、でも逸らすことのできない、心の中に確かにある、その想い。

 そんな私の告白を聞いた未来は、少し寂しそうに…でも、はっきりと、答えた。


「ごめん、できない」

「…」

「私がキスしていいのは、沙織さんだけで。私がキスされていいのも…沙織さんだけなの」


 私は、沙織さんのものだから。


 うん。分かっている。

 知ってた。


 でも、それを。言いにくいことを、逃げずに、ちゃんと私に伝えてくれて…


(ありがとう)


 未来は、逃げない。

 未来は、まっすぐで。

 未来は、いつも全力で。


 そんな未来だから、私は好きになり。

 そんな未来だから、逃げ場もなく、逃げ道もなく、迷いも戸惑いも、余地も可能性も全てなく、完全に完璧に、これ以上なく…


 私をちゃんと、ふってくれた。




■■■■■



 未来は酔いつぶれて、机につっぷして寝ている。

 未来が呼吸するたびにその肩が上下に揺れて、私はそれをじっと見つめていた。


 時計を見る。

 もう遅い時間になっている。

 ずいぶん長い時間…未来と一緒にワインを楽しんでいた。


 その時。


「ただいま」


 扉が開く音がして、そして声とともに足音が聞こえてくる。

 見知った顔が見える。

 2年前ぶりの顔。担任だった人の顔。


「白鷺さん、こんにちは…お久しぶりね」

「お邪魔しています」

「元気そうでなにより」

「水瀬先生も」


 なんともいえない、少しだけ気まずい空気が流れる。

 よく考えたら、水瀬先生と直接2人きりで話す機会なんて今までほとんどなかったな…いつもはたいてい、未来がいて。未来はずっと水瀬先生ばかり見ていたから。


「あら、未来…」

「酔いつぶれちゃいました」

「あー、私のとっておきのワイン!」


 封が開けられたワインは、もうほとんどを私と未来の2人で飲んでしまっていた。もう残り1杯ぶんくらいしか残っていない。

 残念そうな水瀬先生の顔を見て、少し、すっとしてしまったのは秘密だ。


「まったく、この子は…」


 そう言いながら、水瀬先生は自然に未来の隣に座る。その動きがあまりにも自然で、この2人が重ねてきた絆の深さを如実に表していた。やっぱり…悔しいなぁ。


「…ふにゃ…あ…沙織さん…」

「ただいま、未来」

「えへへー」


 酔いつぶれていた未来は、水瀬先生の姿を見るととたんに嬉しそうな顔になり、笑いながら身体を起こした。

 そしてすぐ、ふらついた。


「沙織さん、大変、世界が回ってる!」

「回っているのは貴女よ、未来」


 そう言って水瀬先生は未来を抱きかかえる。


「ごめんね、白鷺さん。ちょっと待ってて。この子、とりあえずベッドに横たわらせておくから」


 力の抜けた未来は、だらんと水瀬先生に寄りかかっていた。

 もう身長は、未来の方が水瀬先生よりも高い。

 そんな未来は全力で水瀬先生に甘えていた。


「もう、未来、しっかり歩きなさい」

「沙織さん…いい匂いー」

「それはいいから、早く」


 顔をこすりつけていく未来。私がいるのに、私のこと忘れたみたいに。なんか…寂しい。


 奥のベッドに未来を横たわらせ、タオルケットをかける水瀬先生。そしてそのまま、そっと頬にキスをしているのが見えた。


 ちくり。

 胸が、痛む。


「私も少し、飲んじゃおうかな」


 とっておき、もう残り少ないし…と、ちょっと残念そうに言いながら水瀬先生が戻ってくる。

 全部飲んでおけばよかった、と、少し意地悪な考えが頭によぎってしまう私は、たぶん嫉妬しているのだろう。


「あの子、あんまりお酒強くないから、普段は全然飲まないのに」


 白鷺さんに会えたのが、よほど嬉しかったんでしょうね。

 水瀬先生は先ほどまで未来が座っていた席に座る。ちょうど私と真向いの席だ。そしてそのまま、先ほどまで未来が使っていたグラスに残ったワインを注いだ。


「私のとっておき…これで終わり」


 深紅のワインをかかげる水瀬先生。先ほどまで仕事をされていたので、今もスーツ姿のままだ。着替えないのかな、と思ったけど、すぐに「ま、いいか」と思い返す。

 私のグラスにもまだワインが残っている。


「乾杯しましょうか」


 水瀬先生がそう問いかけてきたから、


「何に乾杯します?」


 と答える。

 水瀬先生は少し考えた後。


「私たちの未来に」


 といって、笑ってグラスを傾ける。私たちの未来、か。私の未来は、どこにあるのかな。

 私もグラスを傾けると、口にする。

 美味しい。でも、先ほどまでの美味しさとは違う気がする。同じものを呑んでいるのに、飲んでいる相手が違うとこうまで味も変わってくるものなのかな。


「美味しい」


 水瀬先生はそう言って、「でもこれでとっておきも終わりか…」とまた寂しそうに言った。


「白鷺さんに会うのは…2年ぶりくらい?」

「そうですね。高校卒業してからずっと、私地元に帰っていませんでしたから」

「未来、寂しがっていたわよ」

「…分かっているくせに」


 口をとがらせる。

 たしかに、この2年間、私は一度も地元に帰らなかった。でも逆に、未来だって、この2年間、一度も東京に来なかったのだ。

 遠いけど、行こうと決意したなら、なんとでもなるのだ。

 私たちは2年間、その決意が出来なかったということで…それはつまり、そういうことなのだった。


「水瀬先生」

「なに、白鷺さん」

「…結婚、おめでとうございます」


 先ほど未来に伝えたように、水瀬先生にも祝辞をのべる。水瀬先生の指には、指輪がつけられているのが見えた。未来と同じ場所に、未来と同じ指輪が。

 2人の関係が、こうして形としてはっきりと伝わってくる。


「ありがとう」


 水瀬先生はそういって、その後、少し申し訳なさそうに


「ごめんね」


 とも伝えてきた。

 ごめん…ごめん、か。

 私の気持ちなんて、バレバレだったろうから、ね。私はグラスを傾けて、残ったワインを全部一気に飲み干した。

 そして、水瀬先生を見つめる。


「私、さっき、未来に告白しました」

「何を告白したの?」

「大好きだ、って」

「未来の答えは?」

「…分かってるくせに」

「大人は意地悪なのよ」


 そう言うと、32歳の水瀬先生は、グラスを傾けた。赤いワインがその口元に消えていくのがみえる。


「完全にふられました。未来が愛しているのは…水瀬先生だけ、ということです」

「そうでしょうね」


 水瀬先生は、ゆっくりと、でもしっかりと伝えてくる。


「私はね、白鷺さん。もう目を逸らさないことにしたの。あの子を幸せにしてあげたい。そしてあの子の幸せは私と一緒にいることだって分かってるから、だから、そうしてあげたいの」

「…羨ましいです」


 本音をこぼす。

 私には手に入れられなかったものを、この人は手に入れることが出来たのだから。

 そんな私の言葉を聞いて、水瀬先生は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「…ひとつだけ、訂正するわ」

「何を、です?」

「訂正というか、追加、かな…たしかに、あの子の幸せは私と一緒にいることなんだけど…それ以上に、私が、惚れてるの、未来に」


 自分で言いながら、恥ずかしそうに照れている。なら言わなければいいのに。もう。


「…べた惚れなの。私、未来がいないと…生きていけない」

「相思相愛、ですか」

「相思相愛、ね」


 だって私、未来の奥さんだから、といって水瀬先生は笑った。

 はぁ…やっぱり。

 かなわないなぁ。悔しいけど。


「水瀬先生」

「…白鷺さんが卒業してからもう何年もたつのに、それでもずっと先生、って呼んでくれるの、少しこそばゆいね」

「先生は、いつになっても先生ですから」


 思い出は変わらないし、一度形作られたものはそうそう変わるものではないのだ。


「一つ、相談してもいいでしょうか?」

「いいわよ。私、まだ白鷺さんの先生らしいから」

「…実は私」


 彼女が、いるんです。

 陽花里の笑顔を思い出しながら、水瀬先生に伝える。水瀬先生はさすがに驚いた顔をする。


「…彼女がいるのに、人の奥さんに手を出そうとしたの?」

「言い方はあれですけど…まぁ、そんな感じです」

「でも、まぁ」


 水瀬先生も、残った赤ワインを全部飲み干した。これで私も水瀬先生も、グラスが空になった。


「白鷺さん、こうなるって、分かっていたでしょう?」

「こうなる、とは?」

「未来に…ふられる、ってこと」

「…」


 見透かされている。見透かされているとは思ったけど、やっぱり。

 でも、完全に正解、というわけではない。もしかしたら、という気持ちが無かったかといえば、それも嘘になる。

 2年間、悩んで悩んで、悩んで。

 でも、いつか終わりを迎えなければいけない時は必ず来るし、それが今日だった、というだけの話だ。


「…好きな人を忘れられないのは、どうすればいいんでしょうか」


 恋敵に尋ねてみる。恋敵、というのはおこがましいかな。私はそもそも、戦いにすらなっていなかったのだから。戦う前から、水瀬先生に完敗していたのだから。


「それを私に聞く?」

「水瀬先生だから、聞いているんです」


 私はそう言うと、空のグラスを眺めた。もう少し、飲みたかったかな…でもワイン一本開けたのだから、もう十分飲んだかな。


「…分かるよ」

「水瀬先生が、ですか?」

「うん、たぶん、私が一番、分かるかもしれない」


 意外な言葉だった。

 そもそも、答えを期待して聞いたわけでもなかったから。

 水瀬先生は、視線を壁際に映した。私も自然に、同じ方向を向く。そこには、写真が飾られていた。女の人の写真。未来の写真でも、水瀬先生の写真でもなかったけど、この2人になぜか面影がある写真だった。


「この人は?」

「私の姉さん。つまり、未来の母親になるのかな」


 そうか。

 話には聞いたことがあるけど、写真を見るのは初めてだった。未来のお母さんは、未来が私と出会う前、10歳の頃に亡くなってしまっていた、という話だった。


(この人が、未来のお母さんなのか)


 綺麗な人だった。私が未来に惚れているからかもしれないけど、それを差し引いても、十分以上に綺麗な人だった。


「私の姉さん、30歳で死んじゃったの」


 いつの間にか、年齢、追い越しちゃったな、と、水瀬先生が寂しそうに言う。


「あのね、白鷺さん」

「はい」

「私の初恋…姉さんだったの」


 …知らなかった。

 いや、当たり前だけど。

 え。

 初恋?

 いま、水瀬先生、初恋って言った?


(ということは)


 この人…実の姉を好きになって…そして、その姉の産んだ子と…結婚、したということ?


(未来もすごいけど、この人も大概だな)


 なんか、めちゃくちゃ。

 めちゃくちゃすぎて…逆にもう、笑いが出てくる。なに、これ。私が入り込む余地なんて…最初からなかったのは知っていたけど、もっと、すごいじゃない。


「姉さん、素敵な人で、私、ずっとずっと、好きだったの」

「…そう、なんですか」

「そう、なのよ」


 水瀬先生は遠くを見ていた。その視線の先にさっきの写真があるけど、水瀬先生が見ていたのは、たぶんもっと違う世界なのだと思う。


「それでね、白鷺さん」

「はい、なんでしょう」

「さっきの質問の答えだけど」


 さっきの質問?

 ああ。


(…好きな人を忘れられないのは、どうすればいいんでしょうか)


「私、ね、今でも姉さんのこと、好きなの」

「…っ?」

「姉さん死んじゃったけど…でも、だからかな、好き、っていう気持ち、消えていないの」


 好き。

 大好き。

 私は、姉さんが、好き。


「未来は…」


 そのことを、知っていますか?


 私の問いかけに、水瀬先生は、「うん、知ってる」と答えた。


「私の中にね、好きっていう気持ち、2つあるの。私は、姉さんが好き。そして、未来が好き。大好き」


 どっちが好き、とか比べるものじゃなくて、両方あるの。


「水瀬先生…」

「白鷺さん、あなたの中にある、未来への想い…消えることはないかもしれないけど」


 でも、それが。


「新しい恋をしてはいけない、っていう理由にはならないと思うわ」


 あくまでも私の考え、だけどね。

 正解かどうかは分からない。そもそも、こういうものに、正解なんてないかもしれないのだけど。


 でも、そう考えたら、


「少しは、楽にならない?」

「…卑怯な考え方です」

「そうよ、卑怯よ。でも」


 未来、幸せそうでしょう?私も、幸せ。幸せになれるなら、卑怯だっていいじゃない。


「水瀬先生、先生のくせに、そんな非倫理的なこと、言うんですね」

「私、倫理の先生じゃないもの」


 そう言って、水瀬先生は笑う。


「…水瀬先生は、いつ頃から未来のこと好きになったんですか?」

「私、そうね…」


 いつからだったかな。忘れちゃった。だって未来、8歳の頃から、ずっと私のこと、好き、好きって伝えてくれているんだもん。


「未来が私のことを好きになったのは、一目惚れだった、って言っていたわ」

「…羨ましいです」

「素直でよろしい。それで、私がいつ頃から未来を好きになったのか、はっきり覚えてはいないけど…でも、どうして未来を好きになったのかは分かるわ」

「どうしてです?」

「それは、未来が、私を好き、って言ってくれたから」


 単純な理由。

 シンプルな理由。

 でも、大事な理由。


 人は、自分を好き、って言ってくれた人を、好きになっていくものだもの。


「白鷺さんの彼女って、どんな子?」

「…可愛い子です」

「未来より?」

「水瀬先生、意地悪です」

「大人だからね」


 意地悪な水瀬先生は笑う。私はため息をついて、答える。


「未来とは、違います」

「そうよね、同じ人間なんて、いないもの」

「私…卑怯になってもいいんでしょうか?」

「さぁ、どうかしら?」


 はしごを外してくる。先生なのに。先生のくせに。


「でもね、ひとつだけ、言えることはあるわ」

「…なんです?」

「白鷺さん…」


 幸せになっても、いいのよ?


(幸せ…幸せ?)


「白鷺さんの彼女、白鷺さんに、ちゃんと好きって伝えてくる?」

「ちゃんと、というか…むしろ…」


 ずっと?

 陽花里、会うたびに、私のこと、好きだって伝えてくる。


「いい子ね」

「はい、いい子、なんです」

「幸せ?」

「私…幸せに…」


 なっても、いいんですか?


(…凛ちゃん、好きな子にあった時…私の匂い、思い出して)


 言葉を、思い出す。

 匂いを、思い出す。


 胸が、高まる。

 とくん、って、鳴る。



 私は、未来が、好き。

 ごめん、この気持ちは…たぶん、消えない。


 陽花里は、私のことが、好き。

 すごく、伝わってくる。


 私…陽花里のこと、幸せにしてあげたいと思った。

 今も、思ってる。


 でも、好きになっちゃいけない、とも思ってた。

 だって、私、未来のことが、好きなんだもん。


 好きって、ひとつだけだって、思っていたんだもん。



 でも。

 正解かどうかは分からないけど。

 もしかしたら。

 好きって、ひとつだけじゃ、ないのかもしれない。


 私。

 陽花里のこと。


 好きになっても、いいのかもしれない。




「水瀬先生」

「なに、白鷺さん」

「有難うございます」

「どういたしまして」

「やっぱり、先生は…ずっと先生です」

「それは、先生冥利に尽きるわね」


 私は立ちあがった。

 もう、時間も遅い。

 さすがに…泊まるわけにもいかないし。


 それに。


 ここから先は、未来と水瀬先生の時間だろう。


「帰ります」

「うん、もう遅いから気を付けてね」

「私もう20歳ですよ。子供じゃないんですから」


 笑う。

 笑って、笑って笑った後。


 部屋の奥、ベッドで酔いつぶれて横たわっている、私の好きな、大好きな子を見る。


「水瀬先生、未来の事…宜しくお願いします」

「それは任せて」


 だって私、未来にべた惚れだから。


 そう答えた水瀬先生は、まるで少女のようだった。





■■■■■




 夜。

 外。

 もう暗い。


 駅に向かって歩く。

 駅についたら、実家に向かおう。

 30分くらい。

 ふぅ。


 空を見る。

 8月の空。澄んでいる空。


 好きな人に、会いました。

 好きな人に、フラれました。

 でもやっぱり、好きです。


 こんな私だけど。

 待ってくれている人が、います。


 私を好きだって、言ってくれる人がいます。




 歩きながら、スマホを取り出す。

 少し考えて、かける。

 すぐにつながる。

 まるで…私からの連絡をずっと待ってくれていたみたいに。


「凛ちゃん!」

「早いね、陽花里」

「大丈夫?」

「…何が」

「ううん、なんとなく」

「あはは」


 私は笑いながら、また空を見る。

 空を見ながら歩くのは…危険かな。

 でも今だけは、許してほしい。


「陽花里」

「なに、凛ちゃん」

「私のこと、好き?」

「大好き!」

「ありがとう」


 息を吸って。

 はいて。

 前を向いて。

 未来を、見つめて。

 私は、言う。


「あのね、陽花里」

「うん」

「私、陽花里のこと」


 たぶん。


「好き」



 

 私の未来の先に、光が、見えた。

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