第14話 指。
家に帰り、電気もつけずにそのままベッドの上に倒れこんだ。
外の埃を落とさなければいけないのに、そんな気力も湧いてこない。疲れていた。頭の奥がしびれるくらい疲れていた。
(…今日のぶんの勉強…しないと…)
ぼんやりとそんな事を考えながら、ゆっくりとベッドから立ち上がる。電気はつけない。薄暗い部屋の中を、手探りで机まで歩く。
椅子を引いて、座る。
頭の中がまだぐるぐる回っている。今日は別にお酒は飲んでいない。紫苑さんたちと一緒に行動することが増えてきて、自然と酒量も増えてきていた。
もう二度と飲まない、と毎回飲むたびに決心する。
ノートを開く。
線が滲んで、ぐにゃりと溶けていく気がする。
勉強しないと…勉強。
私には勉強ぐらいしか取り柄がないのだから。
自分で自分を卑下しているのは分かっている。褒められたい、と本当は心の中で思っているのに、あえてそれから目を逸らして自分を下に下にと見ていくのは、いったいどういう心理状況なのだろうか。
(勉強できるの、すごいと思うよ)
紫苑さんは私に向かってよくそう言ってくる。
(嫌味ですか?どうせ私には勉強しかできないからって)
(嫌味なもんか)
私の皮肉に対して、紫苑さんは本気で答えを返してくる。あの人は基本的にだらしがない人だともう分かってきたけど、それでも、そのマイナスを消し去るほどの美点に満ち溢れているのは…認めたくないけど、認めるしかない。むかつくけど。
(私はね、からっぽだけど、そのからっぽの中身を全部出してさらけ出してしまいたいんだ。それってどう思う?)
(かっこつけてるだけに見えます。からっぽの私、かっこいいだろって?)
(分かる?実際、そう思ってるよ。私は私をかっこいいと思ってる)
(…私には真似できません)
勉強するしかない。勉強なんて、誰にだってできる。紫苑さんみたいに、紫苑さんにしかできないことなんかじゃない。
(くだらないです)
(私はね、たぶんドブにでも落ちて死ぬと思ってるんだよね)
(いきなり何を言うんです、紫苑さん?)
(ビートルズみたいに世界を変える歌なんてうたえないし、私の歌も、私の絵も、私のつくるものなんて、結局たぶん何も世界に影響なんて与えない)
(…自信満々に自信のないこと言わないでください)
(勉強って、才能だと思うんだよね。誰にでも使えるチート力。でも、誰にでも使えるから、結局誰も使わないんだ)
(話が散らかってますよ)
(凛はすごいから自信もって、という話)
(はいはい、有難うございます)
(そろそろ惚れてくれた?)
(私が好きなのは世界で1人だけですから)
…でも、今はもう、少なくとも…嫌いじゃ、ないですね。
ノートを閉じる。
あれだけ、勉強する凛はえらいと言われたから、なんかそのまま続けるのが負けた気がして嫌になってきた。
私は再びベッドに横になり、スマホを取り出した。
紫苑さんのつくりかけの歌が、データとして送られてきている。
(とりあえず聞いて。そしてまた感想ちょうだい。ついでに私に惚れて)
(何言っているんだか…)
目を閉じて、音を聞く。
ワイヤレスイヤホンを取り出して、耳につける。
外の音が遮断されて、紫苑さんの声が直接脳に届いてくる。頭の奥から声がする。紫苑さんの声。この声は…この歌は、たぶん、私に向けて語られている歌だ。
(いい声)
紫苑さん、顔がいい。声もいい。むかつくけど、いいところはちゃんと認めてあげよう。何上から目線なんだろう、私。
歌詞は、ありきたりのラブソングだった。
才能は…感じられない。なのにどうして、響いてくるのだろう。
からっぽの言葉なのに心に染み入ってくるのは、たぶん、私に向けられた言葉だと私の脳が認識しているからなんだろうな。
(この声を聞いた女の子がみんな、同じこと思うんだろうか)
1人1人に語り掛ける歌が、同時に何百人にも何千人にも届くのだろうか。
100人に届くのではなく、1人1人が100人。
脳がしびれて。
そして私は、ふと、首筋に手を当てた。
(…陽花里)
紫苑さんの声を聞きながら、陽花里のことを想う。
私は何か壊れているのかもしれない。
最近、ずっと、陽花里はお酒を飲んでいる。可愛い飲み方で、いつも小さな口で、ちょっとずつちょっとずつ飲んでいる。頬を真っ赤にして、めがとろんとして、たぶんわざと自分をそう追い込んで。
私を舐めてくる。
(だいたい…このあたり)
首筋を、指で触る。
つぅ、っと撫でる。
陽花里の唾液がいつもここで線を引いている。
陽花里の舌が触れている時は暖かくて…そして、離れると冷たくなる。
「…ん」
身体をよじる。
ベッドの上で、シーツに手を伸ばす。
自然に、それをぎゅっと引き寄せる。
(一人でえっち、してる?)
色葉さんの言葉を思い出す。
今は夜。
色葉さんの言葉を聞いたのは…何時間前だったかな。
ノーコメントです。
言わなくちゃ、いけないですか。
顔を横にして、本棚を見る。
参考書がたくさん並んでいる。
漫画も小説もたくさん並んでいる。
…その中に、同人誌もたくさん並んでいる。
えっちな同人誌も、ある。
ある、じゃない。
たくさん。
手を伸ばそうとして、やめる。
目を閉じて、首筋にもう一度手を伸ばす。
指先が首にあたると、背中がびくっと動いたのが分かった。
(私、何してるんだろう)
耳から紫苑さんの声を聞きながら、陽花里の唾液の感触を思い出している。
駄目だ。
やめよう。
友達に失礼だ。
それに…別に気持ちよくなんて…無いから。
首をふって、しっかりとはまっていなかったのか、イヤホンが片方とれた。とたんに、紫苑さんの言葉が半分になる。それが私を少し現実へと戻してくれる。
「…ん」
やめよう。やめた。やーめた。
そう思って、思ったはずで、そうなんだけど。
ふいに。
顔が思い浮かんでしまった。
もう二年もあっていないのに。
毎日会っている紫苑さんや陽花里のことは、ずっと考えていてもとめることができたのに。
その子のことを、一瞬だけ考えただけで。
私は、止まらなくなってしまった。
やめたい。
やめて。
動かないで。
思い出のあの子は、私を見て、妄想の中のあの子は、私に語り掛けてきてくれて。
あんなこと言われていない。
あんなこと…言ってくれていない。
触ってもらったこと、ない。
止まらない。
右耳には、イヤホンがまだついている。
そこから紫苑さんの歌声が聞こえてくる。脳内に直接届いてくる。ラブソング。当たり前のラブソング。さっきまで、私の心を溶かそうとしてくれていた歌声。
左から、私の身体の中がこすれる音が聞こえてくる。
聞きたくない。
こんな音、私から出てくるはずない。
指。
水。
液。
(未来)
想ってしまった。
想っちゃいけないのに、思ったら止まらないって知っているのに。
汚しちゃいけない。
あの子は綺麗で。私を救ってくれて。
好きで、好きで、大好きで。
止まって。
お願い、止まって。
どうして止まってくれないの。
想っちゃ駄目。
(凛)
あの子が私を呼んでくれた声。もうそれだけで、背中が溶けていくのが分かる。
あの子の肌の色。
着替えの時、ちらりと、見たことがある。
一瞬だけ。
見ないふりしたけど、駄目。ずっとずっと、残ってる。
(思っちゃ駄目。思い出しちゃ駄目。汚しちゃ駄目)
自分の声が聞こえる。
自分の声が、自分の声じゃないみたい。
こんな声、出してるんだ。
口元が冷たい。
あれ、どうしてだろう。
濡れてる。
私の唾液が、シーツを冷たくしている。
止まって。
お願い。
白い。
溶ける。
指先が、ぬるってしているのが分かる。
背骨が無くなったみたい。
頭の奥が白くなる。
思考も全部白くなる。
何も考えたくない。
何も考えれない。
白。
しろい。
私が溶けていく。
「あ」
ひゅんって、私は、墜ちた。
■■■■■
「凛」
声がする。
私の名前を呼ぶ声。
私、いつの間にか、寝ていたんだろうか。
寝てた、というか、気を失っていたのかもしれない。
あ。
ああ。
冷たいシーツが、火照る私の身体を冷ましていく。
嫌悪感。
自分が、嫌になる。
どうして止められなかったんだろう。
止めれたはずなのに。
途中で、何もかもが、もうどうでもよくなって。
あの子を。
私が。
「凛」
もう一度、声が聞こえる。
目を開ける。
私の目の前に、私を見下ろす私がいた。
「…葵」
当然、私じゃない。ふたごの葵だった。
葵はいつも、突然私の家に来る。
最近はあまり見なかった気がする…でも、いま、このタイミングで。
(見られた?)
葵に見られたことは…何回もある。今はそれぞれが一人暮らししているから、そんなことはほとんど無くなったけど。
高校時代、一緒に住んでいた時は…お互い、時々、その、ばれないように、と思っていても、分かるものだった。
「…お風呂はいろう」
葵はそう言うと、私の手を掴んで私をベッドから引っ張り上げてきた。
葵がつかんだの手は…さっきまで。
私の、中に。
「葵、ちょっと、待って」
「またない」
手をつかんだまま、葵は私をお風呂場へと連れていく。
葵は、お風呂が長い。
昔はよく一緒に入っていたけど、今はほとんど入ることが無い。
けど、今日の葵は強引だった。
脱衣所で、私は服を脱がされる。
葵は自分で脱いでいた。
私の身体と、葵の身体。
もともとは同じ身体だったけど、生まれて20年かかって、もうほとんど別々の身体になっている。
それでも、やっぱり。
似ている。
葵は特に口を開くことなく、私と一緒に中に入り、そして私の身体を念入りに洗ってくれた。
泡をたてて、ごしごしと、ごしごしと。
「ちょっと…痛い」
「…我慢して」
葵はとくに、私の手を何度も何度も洗ってくれた。
指を。
指についたものを全部。洗って、流して。
泡を付けて、こすって、流して。それを何度も、何度も。
葵は何も言わなかった。
葵の目の端が濡れているように見えたのは、お風呂場にいたからだろうか。
分からない。
葵は私を洗ってくれたから、私も葵を洗い返してあげた。
自分の身体じゃないのに、自分の身体と錯覚してしまう。
2人とも泡まみれになって、向かい合って、そして葵が、私の手をとった。
何度も何度も洗って綺麗にしてくれた、さっきまで汚れていた私の手。
それをそっと、自分の胸に当ててきた。
「どう?凛?」
泡の中、葵の胸の柔らかさを感じる。私は特に感慨深くもなく、普通に、
「胸、だね」
とだけ答えた。
葵は少しだけ悲しそうな顔をして、手を私の胸に差し伸べてきた。
触れる。
普通だ。特に何も感じない。
「凛の…胸」
「どうしたの、葵」
葵が指先を少し動かした。
こりっと、つまむ。
泡で少しだけ滑る。ちょっと痛い。
「痛いよ、葵」
「痛いだけ?」
「…うん」
私の答えに、葵はまた寂しそうな顔をして、「もういい」とだけ言って、お湯を私にかけてくれた。
泡が流れて足元に消えていく。
私と葵は生まれたままの姿になって、そのまま2人で一緒に湯船につかる。
私の足の間に葵が座って、ちょうど私が抱きかかえる形になる。
一人暮らし用のお風呂だから、狭い。
狭いから、密着する。
一時間くらいお風呂にはいっていて、さすがにふやけてきて。
お風呂から出た時には身体の芯までぽかぽかになっていた。
「もう寝る?」
葵が聞いてきたから、「うん」と答える。
「一緒に寝ていい?」
と聞いてくるから、「そのつもりでしょう?」と答える。
葵は私と一緒のベッドに入って、いつも通り私にくっついてきて、ふたごの体温を感じながら、葵はずっと私の手を握っていた。
まるで、もう、この手を動かさないように。
■■■■■
翌朝。
気が付いたら、葵はもう家にいなかった。
勝手に入ってきて、勝手に出ていく。
いつもみたいに、まるで猫みたいなふたごだった。
私は着替えて、歯磨きをして。
家を出て、外を見て。
また一日が始まる、と思った。
歩いていくと、声をかけられた。
嬉しそうな声。
弾んでいる声。
私を見るだけで、幸せを感じてくれているような声。
振り返るまでもなく、陽花里だった。
「おはよう、凛ちゃん」
そう言いながら、そっと、私の手を握ってくる。
私の、手。
指。
なぜか、動揺してしまう。
汚れて…いないよね。
昨夜、葵にたくさん洗ってもらったし。
今朝も、洗ったし。
綺麗に、したし。
「凛ちゃん?」
私をのぞき見上げてくる陽花里。
可愛い。
そんな感想しか浮かんでこないのは、何故なんだろう。
周りから見られているような気がする。
すれ違う誰よりも、陽花里は小さくて、可愛い。
ふわふわで、いい匂いがして、柔らかくて。
ついつい、陽花里の口元を見てしまう。
薄紅色の唇。
この中には、陽花里の舌が入っていて。
時々、舐めてくる、と思ってしまった。
朝なのに、馬鹿。
「おはよう、陽花里」
「うん、おはようっ、凛ちゃんっ」
嬉しそうに指を絡めてくる陽花里。
私の指。
あんまり…触らないで欲しい。あんまり…絡めないで欲しい。
私の中の暖かさは指が覚えている。
そんな私の指を、陽花里の指が包み込んでくれている。
まるで。
陽花里の中に入っているような気がして。
私はまた、罪悪感に陥ってしまった。
「どうしたの、凛ちゃん?」
「ううん、なんでも、ないよ」
昨日から私は変だ。
頭が回らない。
紫苑さんだ。
紫苑さんが悪い。
あの人が全部、悪い。
「今日も、スタジオ、行く?」
「いくー!」
紫苑さんと色葉さんに会いたい、と、陽花里はいった。
私が隣にいるのはもう当たり前なのだろう。
陽花里は、ずっと紫苑さんと色葉さんのファンで、その心は純粋で。
純粋じゃないことを考えているのは、私だけなんじゃないかな、と思った。
私はもう20歳。
もっと、大人になってもいい年ごろのはずだった。
指が…熱い。
ずっと、そのことばかり、考えてしまっている。
■■■■■
夕方。
スタジオ。
私は陽花里と一緒に、手を握り合ったまま中に入った。
薄暗いスタジオの中で、私たちに最初に気づいたのは色葉さんだった。
「今日も来たね」
「こんばんは、色葉さん」
「こんばんはっ!」
もうすっかりなじんだ陽花里に、すこし嬉しくなってしまう。
色葉さん以外にも、スタッフの人たちにも、陽花里は可愛がられている。まるで飴ちゃんでももらえそうな、そんな雰囲気すらある。
一応、陽花里も私と同じ20歳なんだけどね。
「相変わらず仲がいいね」
「はい、ラブラブです」
「…陽花里?」
「違うの、凛ちゃん?」
「ちがわ…ないけど」
付き合ってはいない、はずだよね。最近、距離感が分からなくなってきた。
「今日も飲むかい?」
「はいっ」
嬉しそうに答える陽花里。
スタジオをバーか何かと勘違いしているんじゃないかな、と思わないこともない。
でも、幸せそうだから、いいか。
陽花里をみていたら…私も幸せな気持ちになれるから。
なぜか、色葉さんは私に向かって、ピースしてきた。
「…なんです?」
「いや、なんとなく、ピースピース」
表情を変えないのが少し怖いんですけど。
色葉さんは背が高いから、より威圧感を感じてしまう。時々、この人が何を考えているのか分からなくなる時がある。
色葉さんは、じっと、私と陽花里の繋がれている手を見つめていた。
あんまり見つめられるものだから、手を離そうか、と考えてしまう。
けど、あまりに自然に陽花里が握りしめてくれているから、離すことなんて出来ない。
陽花里の手を、離すことなんて、出来ない。
「ふふ」
「何笑っているんです、色葉さん」
「別に、ね」
いいんだけどねー、と腕を組んでそっぽを向かれてしまった。
何なの、いったい。
「凛、昨日渡したデータ、どうだった?」
奥から紫苑さんの声がしてきた。
ギターを首にかけたまま、なんかいろいろ考え事をしているみたいだった。
「…よかったです」
「本当に?」
「残念ながら」
「ま、凛は嘘つけないからね、そんな凛が言うんだから、本当によかったんだろうね」
紫苑さんはそういいながら、ギターの弦を弾く。
ラフなTシャツ姿で、ズボンもところどころに穴が開いている。道端ですれ違ったなら、とりあえず視線を合わしたくはない格好だ。
そんな恰好なのに…どうして、目が離せないのだろう。
(汗)
汗が煌めいて見える。
スタジオの淡い照明なのに、それでもはっきりと見えるくらい、紫苑さんが汗まみれだった。
(この人の、どこがからっぽなんだろう)
紫苑さんは私のことを真面目だという。
嘘がつけないという。
嘘ばかりなのに。
紫苑さんの曲、よかったです。
本当です。
でも、心に残ったのは…別の事です。
私は、陽花里に握られたままの指を、少し動かした。
陽花里の手のひらの感触を感じる。
指先は敏感で、いろいろと細かい動きも分かる。
私の指先の動きに合わせて、陽花里が少し、ぴくっと動くのが分かった。
指。
指と心は、繋がっているのかな。
昨夜の、私の指。
濡れていた、指。
葵の指。
絡めて、洗ってくれて、綺麗にしてくれて。
陽花里の指。
私と繋がれた指。
色葉さんの指。
ピース。
そして。
「見ててよ、凛」
紫苑さんが、指先を動かす。
からっぽだという紫苑さん。
からっぽだと自覚した瞬間、そこには何かがもう埋め込まれているんじゃないだろうか。
(綺麗)
想ってしまった。
私の指みたいに…汚れていない。
あの指は、何かを作り出す指だ。
目が動きを追ってしまう。
むかつく。
ああ、むかつく。
私は、陽花里と手をつなぎながら、昨夜、好きな人のことを思って動いて濡れて汚れた指で、それがさも何もなかったかのように、平気な顔でつないだままで、
紫苑さんを見て。
その指の動きを見て。
(…好きかも)
と思い、そんな自分に、むかついていた。




