第10話 残りの人生を砂糖水を売ることに費やしたいか?
傲岸、不遜、自信満々傍若無人。
紫苑さんには、そんな感じの漢字がよく似合っている。見ていてイライラしてくる。ムカムカしてくる。他の人にはこんな感情抱くことないのに、どうしてだろう。
「スカウト?」
「そう、スカウト」
「誰を?」
「凛」
「はぁ…」
大きなため息をつく。
この女は、世界が自分を中心に回っているとでも勘違いしてしまっているのじゃないだろうか。
隣で、私と紫苑さんを心配そうにきょろきょろ見ている陽花里をみて、やっと、少しだけ心が落ち着いてくる。
紫苑さんには心を乱されるばかりなのに、えらい違いだ。
陽花里から握られた手が暖かくて、私をちゃんとここにつなぎとめてくれているのが分かる。
「よく分からないけど、人違いです。陽花里、講義始まるし、行こう」
そう言って、握られたままの手を引っ張って、紫苑さんの隣を歩き去っていく。
陽花里は何か言いたそうだったけど、黙って私についてきてくれる。これで、終わり。これでこの前から始まった何かしらの変な縁も切れて、おちついた今まで通りの大学生活が戻ってくる。
平凡だけど、平和で。
隣に陽花里がいてくれる、そんな変わらない日々が。
「私が…」
後ろで声がする。
大きい声じゃないのに、よく届く。雑音の中に消えていかない。たとえ100万人の中に紛れ込んでいても、手を伸ばしたら必ずたどり着くような、その声。
「本気じゃないと、あなたが本気で思っているなら、私の本気が、あなたに本当に伝わっていないのなら、諦める」
紫苑さんの声。初めて聞いたのは、あのバーで。優しく、私の言葉を全部聞いてくれた、営業用の声。
二番目に聞いたのは、その夜。仮面をとって、私と素で話をして、なぜかいきなり告白してきた声。
三番目に聞いたのは、ライブの時。圧倒的で、支配的で、完璧で、完全で瀟洒で、そして…脆い声。
「ただ、私が本気だと分かっていて、それでもなお、その本気を見ないふりするような相手なんだったら…軽蔑できるから、安心する」
4番目に聞いたのは…今。今までで一番…むかつく声。
私は足を止めた。
ふりむく前から、紫苑さんがにやけているのが分かる。
ああ、むかつくむかつくむかつく。
何がむかつくって…紫苑さん、たぶん分かってやっている。たぶん、ほら来た、止まった、振り向くぞ、振り向くぞ、って思っているのが…分かるのがむかつく。
でも一番むかつくのは、分かっていながら、それに抗うことが出来ない、私自身の心だ。
「誰が…」
ふりむく。
紫苑さんの顔を見る。やっぱり…むかつく顔をしている。自信満々で、この世の中心は私にある、って信じて疑っていないような顔で、汚らしい恰好しているくせに、中に一本通った芯の強さは一切ぶれていなくて、まっすぐ、しっかり地面を踏みしめて立っていて、金髪で、私から一切合切目を逸らすことが無くて。
(…いい顔)
悔しいけど、認める。顔は、いい。
私の大好きな未来の顔は、優しくてじんわりとしていて、黙っていても身体の細胞と言う細胞に全部染みってきて私の心を溶かして気持ちよくしてくれるんだけど、紫苑さんの顔はまるで違う。強引に、両手を伸ばしてきて、捕まって、見せつけてくる。皮膚を通り越して血管と肉もすり抜けて、心臓に直接叩き込んでくる、そんな感じ。
「誰を、軽蔑するって?」
「私が、君を、だよ」
歩いて、近づいて、目を見る。
笑っている。むかつく。
どうせこうなるって分かっていたんでしょう。むかつく。
「戻ってきたわよ」
「おかえり」
「もう一度聞くわね、誰が、誰を、軽蔑するの?」
「もう、私が軽蔑すべき存在なんて、どこにもいないよ」
紫苑さんは笑った。
笑い顔というのは、本来、誰かを攻撃する時に浮かべる表情なのだと聞いたことがある。なら、紫苑さんは今、いったい誰に向かって攻撃しようとしているのだろう?私?ううん。違う。むかつくけど…紫苑さんはたぶん…私の敵じゃぁない。
「凛、君が欲しい」
「紫苑さん、残念だけど、私はあなたがいらないの」
「本気でそう思っているなら、君は引き返してくるべきじゃなかった。あのまま私を無視して、大学にいっていればよかった」
「…一言、文句を言いに来ただけ」
「その一歩も踏み出せない人が、世の中にどれだけ満ち溢れている事か」
紫苑さん、楽しそうだ。
頬が少し紅潮しているのが分かる。興奮しているのが分かる。私を見つめる瞳はずっと輝いているし、その口から流れる言葉は弾んでいるし、息の間隔が少しずつ狭まっていて、空気の中の酸素を求めているのも分かる。
「紫苑さん、あなたは不真面目すぎません?」
「凛、君が真面目すぎるんだよ」
私の嫌味にもいっさい動じることがない。むかつく。
「でも、その真面目なところがいい…真面目に、狂っているところがいい。君は頭がいいし、理知的だし、判断力も理解力も全部備わっている。そしてそれを全部分かった上で…自ら、乗り越えていくことが出来る人だ」
「…私の何が分かるというのよ」
「君が分かっている事以外、全部」
紫苑さんが肩をすくめた。
少しお茶らけているように見えて…目だけは、笑っていない。
「昔、どこかの偉い人は、狙った人をスカウトする際にこう言ったらしいね。『残りの人生を砂糖水を売ることに費やしたいか?それとも、私と一緒に世界を変えてみないか?』」
「なら私が答えてあげる。私は砂糖水で満足よ」
「君の周りのどこに砂糖水があるっていうの?」
あなたが言ってきたんでしょう?ただの比喩にかみついてくるなんて…むかつく。
「実はさっき、私、嘘をついた」
「何から何まで嘘じゃないの?」
「実は私、君のことをあんまり知らない」
「そんなの、知ってるわよ」
何、この会話。
抽象的で、ふわふわしていて、何一つ具体的じゃない。
それらしいことをそれらしいように言っているだけで、肝心なことは何も言っていない。詐欺師の言葉だ。
「私は紫苑さんみたいに、歌が歌えるわけでもなく、何かを作れるわけでもなく、人気者なわけでもなく、有名人でもない。ただ、勉強が少し得意なだけの、たんなる一般人よ」
「一般人というには、凛が通っている大学は少しレベルが高すぎるね」
「普通よ」
たぶん普通じゃないかもしれないけど、それでも毎年3000人くらいは合格してくる大学なのだから、世界でたった一人の才能、とかいうたぐいのものじゃない。
私がいなくなったとしても世界は回るだろうけど、むかつくけど、この目の前にいる飄飄とした紫苑さんという人が1人いなくなったら、たぶんこの人の変えというものは存在しないんだろうな、と分かる。
「凛、世界を変えてみないかい?」
「だから言ったでしょう…私にそんな能力なんて…」
「あなたといれば、私が変わるの」
さっきまで、あんなに適当に飄飄としていたのに。
今は、真剣な瞳で私を見つめてきていた。
本気の目だった。
「私が変われば…私なら、世界を変えることが出来る。だから、世界のために、私を変えて、凛」
むかつく。
結局私は、本気の人をみたら…見捨てることなんて出来ないのだ。
クールで、冷静で、判断力あって、リーダーで。
そんな見せかけの自分なんて、本物を前にしたらメッキがはがれ落ちてしまう。
丈夫でしっかりとしたメッキ、だと思っていたんだけどな。
「…なにすればいいの?」
「それは今から考える」
「あなた…馬鹿じゃないの!?」
「でも、だからこそ、凛の心が少し動いたでしょう?」
むかつく。
結局、いいように手のひらの上で転がされているだけみたいで、むかつく。
何だろう、このもやもやする気持ち。
他の誰にも抱いたことが無いこの気持ちを、紫苑さんにだけはずっと向けてしまう。
よし、意地悪してやろう。
「私1人じゃ心細いから、陽花里も一緒でもいい?」
「いいよー」
いいのかよ。
この日、私は和製スティーブジョブズにスカウトされ、可愛い陽花里を道連れにして、人生を盛大にすっこぶことになった。




