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【短編小説】熱湯コマァ死ャル

掲載日:2025/12/17

 それは鄙びた温泉街にある共同浴場だった。

 安い入湯料で時間制限無く使える。

 都内の銭湯はどこも二時間制になってしまい、長湯の人間としては寂しい限りだった。


 うむ、とおれは頷いた。

 ここならら心ゆくまで湯に浸かっていられる。

 別に最新の設備はいらない。

 サウナもいらないし、ジャグジーや電気風呂も必要無い。

 打たせ湯、低温湯、露天風呂も要らない。洗い場だってシャワーじゃなくていい。

 湯船は熱い湯船と水風呂のふたつがあればそれで十分だ。


 脱衣所の真ん中に鎮座するババアに金を払う。

 生きているのか死んでいるのかも分からないババアだ。

 服を脱いでガタつく引き戸を開ける。

 獣のように白い湯気が襲いかかった。

 その獣は一瞬にしておれを包み、飲み込む。そしてその白い獣の中でおれは目を開く。

 おれはうむ、と頷いた。


 その温泉は関東系の温泉施設なのか、湯船は浴室のいちばん奥にあった。

 古い建物で、使い込まれて黒くなった板張りの床が伸びている。

 湯船までずらりと並んだ洗い場はもちろん古いタイプで、湯を汲んで桶で流す。

 都内の銭湯みたいに最新型のシャワーヘッドなんてついていない。

 それが良い。

 うむ、とおれは頷いた。


 浴室の奥にある湯船は家風呂のように跨いで入るタイプでは無かった。

 掘って造られたと思われるその湯船は、木製の縁が床からわずかに1,2cmほど出ているだけだ。

 そしてその湯船からは透明な湯が静かに溢れ出て床を洗っている。



 うむ、とおれは頷いた。

 やはり黒く変色した木製の小さな椅子に座り、備え付けのすり減った石鹸で髪や身体を洗い、同じく変色した桶で湯を溜めては、繰り返し流した。

 都内の銭湯みたいにチョロチョロと流れては自動で止まるカランなどでは無く、緩めた蛇口からは勢いよく湯水が流れ出ていた。



 うむ、とおれは再び頷いた。

 すっかり全身の汗を流したおれは湯船に向かった。

 湯船から溢れ出た湯がおれの指先を擽ぐる。


 う、とおれは歩みを止めた。

 熱い。

 沸騰でもしているんじゃあないのか、と思うほどに熱い。

 だがその熱湯湯船の中には数人の老人たちが鎮座している。

 そして心地よさそうに両目を閉じていた。

 おれは止めた足を再び動かして湯船に向かい、片足を突っ込んだ。



 う、とおれは唸った。

 熱い。

 咄嗟に足を引き上げそうになったが、どうにか堪えてもう片方の足を湯船に放り込んだ。

 無数の針で突かれる様な痛みが走る。

 おれは奥歯を噛み締めてうむ、と唸った。



 熱湯湯船の中にいた老人のひとりが、片目だけを器用に開けて「肩まで浸かって10数えたら出な。少し休んだら次はすっと入れる」 

 と言った。

 おれはその助言に従うことにした。



 おれはうむ、と唸った。

 全身の血が濁流の様に駆け巡り、噛み締めた奥歯は砕け散るのでは無いかと思われた。

 だが血は沸騰せず、奥歯は砕けなかった。

 老人はまた目を閉じた。

 おれは努めて冷静に10まで数えて、極めてゆっくりと湯船から全身を引き抜いた。

 



 先ほどの老人が同じように片目を開けて

「水風呂に入るなよ、元の木阿弥だ」

 と笑った。

 おれはうむ、と頷いた。

 そして湯船に浸かった。

 もう奥歯は締まらない。

 どこから吹いているのか、湿度の高い風がおれを撫でる。

 熱いな、と笑う。

 老人たちは笑わなかった。


 おれは老人たちと共にあった。

 うむ、と頷いた。

 すると引き戸が音を立てて開いた。

 弛緩しきった表情の老人が手ぶらで入ってきた。

 手拭いを忘れたのだろうか、と思って見ていると一歩ごとに糞便を垂れ流しながら歩いていた。

 黄土色の糞便は、歩くごとに揺らぐ老人に踏まれて足型に変わった。

 扁平足なんだな、と思った。

 



 臭いがおれの鼻に届いた辺りで、洗い場にいた別の老人が「要介護の人間が銭湯なんかに来るんじゃあ無いよ」と言った。

 うむ、そりゃあそうだ、と踏まれた糞便を見ながらおれは同意して頷いた。

 しかしひとつ気がかりなのは、苦言を呈した老人が死んだ祖父に似ている事であった。

 それは本当におれの祖父かのかも知れない。

 彼岸にはまだ遠いが、果たして。



 そう言えばここにいるのは老人ばかりだな。

 そうか、そう言う事もあるか。

 おれはおれが老人でない可能性について考えながら、うむ、と唸った。

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