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チコリ蕩

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/12






「これがそのチコリ蕩か……」


信長は茶碗に注がれた黒い泡立つ汁を見た。

そして周囲に座る家臣たちにもその茶碗の中身を見せる。

ニヤリと笑ってその茶碗を口に運び、今にもその汁を飲みそうになった瞬間に、家臣の一人が口を開いた。


「そもそも、チコリ蕩とは何から出来ておるのだ」


信長はそれを聞いて手を止め、茶碗を床に置いた。


「そう……じゃな……。何から出来ておるのか聞いてから飲む方がよさそうだな……」


信長は音を立てて扇子を開くと自分を扇いだ。


「風呂伊、一体何から出来ておるのか説明してみよ」


風呂伊と呼ばれた宣教師は頭を深く下げる。


「なんでも南方の国で取れる木の実からだと……」


「木の実じゃと」


「大丈夫なのか、そんなモノを殿のお口に」


「そんな、得体の知れぬモノを……」


信長の家臣たちは口々に言う。

信長はそれを黙らせる為に扇子の尻で床を突いた。

その音に一同が身体をビクリとさせた。


「わしはこのチコリ蕩に興味がある。これを飲んで死ぬのであれば、わしもそれまでの男だという事よ……」


信長は床に置いた茶碗を持ち上げて口に運んだ。

一同がその信長をじっと見守った。

そして茶碗に口をつけたその時に、その部屋の襖が音を立てて開いた。

その音に信長は顔を上げた。


「信長様」


大声で信長を呼ぶ明智光秀の姿がそこにはあった。


「どうした……騒々しいぞ、光秀……」


信長は再び茶碗を床に置いた。


「浅井長政をこのままにしておくおつもりですか」


光秀は信長の前にドカッと座り、そう声を荒げた。


越前の朝倉義景を攻めた際に、長政が義景を助けた事により、義弟である長政とも対峙する形になっていた。


「いずれ長政にも筋は通させるつもりだ……」


信長は剣幕な光秀の様子に身を逸らしながら、顔をしかめた。


「ここは早々に岐阜へと戻り、浅井と朝倉を討つべきです」


光秀はそう言うと、信長の前に置いてある茶碗を手に取る。


「失礼」


光秀はそう言うとチコリ蕩を一気に飲み干した。

喉をゴクゴクと鳴らしながらチコリ蕩を飲み干す光秀を一同はじっと見つめていた。


「何だこれは……」


光秀は大口を開けて、自分の口の中を掌で扇いだ。


信長はゆっくりと光秀の前に身を乗り出した。


「どんな味だ……」


信長は光秀に小声で訊いた。


「恐ろしく苦い葛湯ですな……」


信長は悶え苦しむ光秀を見てニヤリと笑った。


「苦い葛湯か……そうか……葛湯な……」


そして次第に声を上げて大声で笑い出す。

すると周囲の家臣たちも同じように声を上げて笑った。


「光秀……。今、貴様が飲んだのはチコリ蕩と申すモノらしい。その茶碗一杯で船が一隻持てる程の価値がある」


信長はゆっくりと立ち上がる。


「光秀、岐阜に帰るぞ。貴様の言う様に浅井・朝倉を討つ」


そう言い放つとズカスカと部屋を出て行った。

 





姉川の戦いに何とか勝利した信長は、木下藤吉郎に横山城を任せ、小谷城に逃げ帰った浅井長政を見張らせる事にした。


風呂伊と呼ばれる宣教師のルイス・フロイスはその横山城を訪ねた。


「おお、風呂伊か……。京よりはるばるご苦労であった」


信長は風呂伊に微笑んだ。

風呂伊は頭を深く下げると、信長と一緒に歩き出す。


「今回は徳川の働きがよろしかったですね」


風呂伊は城下を眺める信長に言う。


「いや……。今回の功は光秀じゃ……」


「明智さんですか」


風呂伊は不思議そうな表情で信長を見ていた。

明智光秀はこの姉川の戦いには参陣せず、岐阜に留まっていた。


「光秀の進言で、この城を包囲した。それが正しかった。この城を軽視して進軍していたら、わが軍は全滅していたかもしれぬ……」


風呂伊はゆっくりと頷く。

戦の事は信長の方が長けている事を知っていたからだ。


「光秀は頭の切れる男だ。あやつに京都の守護を任せようと思っておる」


風呂伊は城下の遠くを見つめる信長と同様にその景色を見た。


風呂伊は信長の人を使うセンスには一目置いていた。


「チコリ蕩を飲んだからかの……。あの光秀の頭の切れの良さは……」


信長は風呂伊の肩を叩くと大声で笑いながら去って行った。






岐阜城へ信長が戻ると、甲冑を脱ぐ前に明智光秀を呼んだ。


「光秀、光秀」


その通る声は城内に響く。

光秀はその声に城内の廊下を摺足で走った。

そして光秀は襖を開けると、茶を飲む信長の前に膝を突いた。


「光秀……。この度はお前の予想が的中したぞ」


光秀は深く頭を下げた。


「それよりも、足利義昭に不穏な動きがございます……」


信長は湯呑を床に置いた。


「わかっておる。いずれはあの傀儡も討たねばなるまい」


二人の小姓が信長の甲冑を後ろから脱がせた。


「本願寺、比叡山、浅井、朝倉……、そして足利。わしは敵が多いのう……」


「敵が多いのは、それだけ殿が力を持っておられるという証拠でございます」


信長は光秀の言葉を鼻で笑った。

そして身を乗り出した。


「光秀……。貴様にしか頼めん事がある……。聞いてくれるかな……」


小声で言う信長に光秀は顔を上げた。


「何なりと……」


光秀はそう答えると微笑んだ。


「その四面楚歌の京の守護を頼みたい」


信長は床に置いた湯呑を手に取り、茶を飲んだ。


「貴様なら、敵がどう動こうが臨機応変に動けるだろう……」


光秀は今一度頭を下げる。


「それは……」


光秀は京を守備するという事がどれほどの武力を持つ事になるかを知っていた。

それを信長に訊こうとして止めた。

信長が自分の事を信頼し切っている事が理解出来たからだった。


「敵は多いぞ……。頼めるか……」


信長はまた湯呑を床に置く。


「もちろんわしらも石山本願寺を攻めるつもりじゃ……。大坂と京は目と鼻の先じゃ。もしもの時はいつでも駆けつける。それに今は浅井も朝倉も動けまい。浅井に関しては横山城を藤吉郎に任せておる。城から出る事も出来んじゃろう……」


光秀は数歩引いて、膝を突き座った。


「私でよろしいのでしょうか……」


信長は何度も頷いた。


「貴様にしか出来ん事だ……」


光秀はその言葉に喜んだ。

そして顔を上げると信長に目を閉じて深く頭を下げた。


「謹んで守護させて頂きます」


そう言った。


「それは良かった……」


信長は頬を緩めた。


「今から飯を食う。貴様も一緒にここで食え」


信長が手を叩くと、食事の膳が運ばれてきた。

 





その後、明智光秀を京の守護に就かせ、信長は大坂へと討って出る。

しかし、旗色は悪く、その年の秋には京へと陣を引く事になる。

更に、四方を敵に囲まれた京では思う様に兵の立て直しが出来ず、打倒織田信長の旗を振っていた足利義昭と和睦し、岐阜城へと引き上げる事となった。


その後、信長は戦を上手く運ぶ事が出来ず、思う様に成果を上げられなかった。

更に武田信玄が京を目指し進軍を開始し、三方ケ原で徳川家康が武田信玄に負け、浜松城に入ったとの報告が入った。






その日、信長は晴れた空を見ながら、庭に集まる雀に粟を撒いていた。

雀はチュンチュンと啼きながら信長の撒いた粟を啄んでいた。


「殿が雀に餌をやっておられる時は何かを考えておられる時だ……」


小姓たちが奥の部屋に座り、そうやって話をしていた。


信長はその小姓の声を聞き、微笑んだ。

周囲が自分に気を使っている事がおかしかった。


「信長様」


襖の向こうから風呂伊の声がした。

ポルトガル人だが、日本人顔負けの日本を話す様になってきた。


信長は振り返り、部屋の中に戻ると小姓に粟の入った袋を渡し、襖を開けた。

そこには膝を突いて座る風呂伊の姿があった。


「久しぶりじゃの……風呂伊……」


信長も腰を低くして風呂伊の前に座る。


「中に入るが良い……」


信長はそう言うと自分の甲冑の前に座った。


「横山城以来か……」


信長の言葉に風呂伊は頭を下げた。


「はい……。あの後、長崎へ行っておりましたので……」


風呂伊は手に持った風呂敷を信長の前に広げた。

風呂敷の中から見た事も無い大きな木の実が出て来た。


「何じゃこれは……」


信長は扇子の先でその木の実を指した。


「これがチコリ蕩の木の実で、カカオと申します」


風呂伊は微笑みながら信長にカカオの実を見せた。


信長はそのカカオの実を手に取り、匂いを嗅いだ。


「匂いは無いな……。これを食えばあのチコリ蕩と同じ味がするのか」


信長はカカオの実に噛りつく。

それを見て風呂伊は笑った。


「その実の中に種が入っています。それを使ってチコリ蕩を作ります」


信長は口の中に残った、カカオの実の欠片を指先に取り舌を出した。


「ほう……。そのまま飲めるモノではないのだな……」


風呂伊は信長からカカオの実を受取り、頷く。


「まずはこの中の種を取り出して発酵させます。つまり味噌や納豆などと同じ様に腐らせるのです」


信長はゆっくりと頷く。


「その種を乾燥させた後、火で焙煎します。焙じ茶の様に」


日本の文化にも精通している風呂伊の説明は信長には解りやすく、素直に頷く事が出来た。


「それが終わると、種の皮を剥いて、中のモノを擦り潰すのです」


信長はじっとカカオの実を見つめたまま風呂伊の話を聞いていた。


「それを湯に溶いて飲むという事か……」


風呂伊は微笑む。


「西洋ではそれにシュガー……つまり砂糖を入れて甘くして飲むようです。この間は砂糖を入れずに明智さんは飲んでしまったので、かなり苦かったのでしょう……」


信長と風呂伊は顔を見合わせて笑った。

チコリ蕩を飲んだ後の光秀の表情を思い出したのだった。


「そうか……。良くわかった。すぐに飲みたかったが、手間暇のかかるモノなんだな……」


信長が言うと風呂伊は自分の後ろから瓶を取り出した。


「そう言われると思いまして、すぐに飲めるモノも用意してます」


信長はそれを見て風呂伊に微笑んだ。






その夜、信長は風呂伊と風呂に入っていた。


「徳川は敗走したと聞きました」


風呂伊は夜空の月を見て口を開いた。


「ああ、多勢に無勢……武田の数には勝てんかったらしい……」


信長は湯をすくい顔を洗った。


風呂伊はそれを見てまた空を見た。


「武田は今、何処に……」


信長は月を見つめる風呂伊に微笑んだ。


「三河だ……。野田城を攻めていると報告があった」


風呂伊は頷いて、自分も顔を洗った。


「徳川がそこを抜かれると、こちらへと武田は向かう事になりますね……」


信長は湯に映る月を見ながら頷く。


「そうなるな……」


信長は苦笑して再び湯をすくい顔を洗った。


風呂伊も同じように湯に映る月を見ながら何かを考えていた。


「光秀に対抗策を考えさせている……。明日あたり、その答えも出るだろう……」


信長は湯船から立ち上がった。

風呂で待っていた小姓が信長の身体を拭いた。

そして着物を着せる。


「そんな話をしに長崎から来たのか……」


信長は腰の紐を締めながら風呂伊に言った。


風呂伊はまた月を見て微笑んだ。


「今日はお別れに来ました」


信長は紐を締める手を止めた。


「別れ……」


「はい……」


風呂伊も湯船から立ち上がり、信長の小姓から手拭を受け取った。


「しばらく九州で布教するつもりです」


信長は微笑みながら言う風呂伊を見て微笑む。


「そうか……」


信長は腰の紐を締めた。


「わしも九州平定出来る様に急がないといけないな……」


そう言って笑った。


「お待ちしております」


風呂伊はそう言うと着物を羽織った。

そして風呂を出る。


前を歩く信長に風呂伊は声を掛けた。

信長は風呂伊を振り返る。


「何じゃ……」


風呂伊はその場に正座した。


「私に、早馬と……先程献上したチコリ蕩を分けて頂けませんか」


信長は風呂伊の前にしゃがみ込んだ。


「風呂伊……」


信長は風呂伊の肩を叩く。


「一体、何を企んでいる……」


そう言うと立ち上がって笑った。


風呂伊は俯いたまま床に手を突いた。


「信長様には、大変お世話になりました。信長様の後押しが無ければ私も今頃は本国に帰らされていたでしょう。何か、信長様のお役に立てる事を私にもさせて下さい」


そう言うと風呂伊は頭を下げた。


「風呂伊……」


風呂伊は立ち上がった。


「今、私は西洋のポイズン……、毒を持っています……。ジワジワと効いてくる毒です。それをチコリ蕩に混ぜて武田に……」


信長は頷いて風呂伊の肩を叩く。


「ありがとう……風呂伊……」


信長は珍しく礼を言った。


「宣教師にそんな事させられると思うか……」


信長はそう言うと歩き出した。


風呂伊はその信長の背中をじっと見つめていた。


「とりあえずお前は、わしの酒に付き合え……」


信長は立ち止まり振り返ると風呂伊に微笑んだ。







「信長様、信長様」


信長は大声で名前を呼ばれ目を覚ました。


「騒がしいな……、どうした……」


信長は隣に寝ていた筈の風呂伊の姿が無い事に気付いた。


襖が開き、家臣の者が頭を下げていた。


「柴田勝家殿の馬が盗まれました。馬番の者に訊くと、どうやら宣教師の風呂伊殿が乗って行かれた様で……」


信長は飛び起きて、昨日チコリ蕩をしまった棚を開けた。

チコリ蕩の入った瓶は無くなっていた。


「あいつ……」


信長はゆっくりと振り返った。


「如何致しますか……」


信長は頷く。


「是非に及ばず。勝家にはわしの馬、黒獅毛をくれてやる。後でここに来るように伝えよ」


「し、承知いたしました」


そう答えると襖は静かに閉まった。


信長は縁側に出て晴れた外の景色を見た。


「風呂伊……」


信長はそう呟くと苦笑した。


庭には信長の撒く粟を待つ雀が集まってきた。







「進軍が止まっただと……」


光秀は斥候からの報告を聞いて驚いた。


「はい。どうやら信玄殿の持病が悪化したらしいとの話です」


信長はその話を背中越しに訊きながらニヤリと笑った。


「それどころか、甲斐へと引き上げる模様」


光秀は喜んで手を打った。


「やったな……風呂伊……」


信長は誰にも聞こえない様に小さな声で呟いた。


「信長様……」


信長は微笑みながら振り返る。


「話が上手すぎやしませんか……。これも何かの策なのでは……」


光秀は縁側に立つ信長に膝を畳で擦りながら近づいた。


信長は光秀の肩を叩き、上座に座った。


「天が味方したのじゃろう……。いや……神かな……」


そう言って微笑んだ。


すると別の斥候が慌ただしく襖の向こうで声を上げた。


「入れ……」


信長が声を上げると、斥候は信長の前で膝を突いた。


「申し上げます。武田信玄殿、信濃、伊那で急死。嫡男の勝頼殿が兵を纏めて、甲斐へと帰還しております」


信長は光秀を見て笑った。


「ほら……。風はこちらに吹いている……」






その後の信長は正に鬼神のようだった。

足利義昭を追放し、室町幕府は名実共に滅亡する事になった。

後ろ盾の無くなった、因縁の朝倉義景、浅井長政を自害させる。

そこから信長の勢いが止まる事は無かった。


そして近江に安土城を築城させる。






安土城。

唯一天主と呼ばれるモノが存在する城である。

その天主閣に立ち、信長は城下を見下ろしていた。


「信長様……」


家臣が信長の後ろで膝を突く。

信長は振り返り、その家臣を見た。


「宣教師の風呂伊殿が参られておられますが……」


「風呂伊……」


信長は慌てて階段を駆け下りた。


風呂伊……。


信長は風呂伊に今一度会い、あの時の礼を言いたいと常に思っていた。


「風呂伊」


信長は駆け下りて風呂伊の名を大声で呼んだ。

そして広間の戸を開けた。

そこには信長を見てニコニコと笑う風呂伊の姿があった。

そしてその横には胡坐をかいて座るもう一人の男がいた。


「ご無沙汰しております」


風呂伊は丁寧に信長に頭を下げた。

信長も風呂伊に頭を下げると平然を装い上座に座った。


風呂伊は男の横に正座した。

最初は正座も出来なかったのだが、風呂伊も長い日本の生活に慣れてきたのだろう。


信長は信玄を殺してくれた礼を言いたかったが、隣の男の手前、それを言うのを控えた。


「こちらは巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノです」


信長はその男の顔を見た。

ヴァリニャーノは信長に手を合わせて深く頭を下げた。


信長は頷くと手を出して風呂伊を制した。


「風呂伊……。わしもチコリ蕩を作ったぞ……」


そう言うと手を叩き小姓を呼んだ。


しばらくすると西洋のカップにチコリ蕩に似た黒いモノが注がれ、ヴァリニャーノと風呂伊、そして信長の前に置かれた。


「良くカカオが手に入りましたね……」


風呂伊はそう言って、ヴァリニャーノにも通訳する。


「まあ、飲んでみられよ……」


信長は二人に勧めた。

二人はそのカップを手に取ると口に運んだ。


ヴァリニャーノは美味しいと言わんばかりに微笑んで頷く。

同じように風呂伊も頷いていた。


「カカオではありませんね……」


風呂伊はそう言うとまた一口飲んだ。


「これは一体何でしょうか……」


信長はニヤリと笑って自分もカップを取り口に運ぶ。


「風呂伊でもわからんか……」


信長の言葉に風呂伊は頭を下げた。


「参りました。信長様……。教えて下さい。これは一体何なのですか」


信長は満足そうに笑うとカップを置いた。


「黒豆だ。丹波の黒豆……。それをカカオ豆と同じようにして作ってみた」


風呂伊はヴァリニャーノに通訳していた。

するとヴァリニャーノは感心したかのように頷いていた。


「流石は信長様ですね……。驚きました」


風呂伊はニコニコと笑いながらまた信長のチコリ蕩を飲んだ。

 





信長は二人を城の表まで見送る。


「本当にありがとうございました」


風呂伊は信長に頭を下げた。


信長は首を横に振った。


「礼を言いたいのはわしの方だ……風呂伊……」


信長がそう言うと風呂伊は自分の唇に指を一本当てた。

それ以上は言うなという事だろう。

それを察し信長はゆっくりと風呂伊に頷いた。

そして信長の耳元に口を近づける。


「少し不穏な話を聞きました……。明智さんには気を付けて下さい」


風呂伊はそう言うと馬に乗った。


信長の耳にも届いていた。

坂本城の明智光秀が不満を漏らしている事が。


信長は風呂伊たちが見えなくなるまで見送っていた。







「秀吉の方は……」


信長は座りながら家臣に訊いた。


「黒田官兵衛の策で高松城を水に沈めたようです」


信長は酒の注がれた盃を手に取りニヤリと笑う。


「流石は官兵衛……。秀吉め、良い軍師を手に入れたの……」


そう言うとその酒を一気に飲んだ。

空になった盃を横に出すと、小姓がその盃に酒を注ぐ。


そこに慌ただしく斥候が走り込んで来た。


「騒がしいな……。ここは寺だ。静かにせい……」


信長は酒を呷りながら静かに言う。


斥候は肩で息を吐きながら信長の前に膝を突いた。


「申し上げます。明智光秀殿、謀反です。ただ今、桂川を越え、こちらに近付いております。数は一万三千……」


斥候は言い終えると俯いた。


信長は飲み干した盃を小姓の前に出し、注がれた酒をまた平然と飲み干した。


「信長様……」


家臣が声を荒げる。


「お逃げ下さい。今ならまだ……」


信長は盃をまた小姓の前に出す。


「是非に及ばず……」


そう言うとまた酒を一気に飲み干して盃を床に置いた。

そしてゆっくりと立ち上がる。


「女、子供を裏から逃がせ。信忠が明覚寺におる」


慌ただしく従事する者たちが動き出した。

それを見ると信長はまた腰を下ろした。

そして傍らに置いた茶筒を取り、蓋を開けた。


「蘭丸……お前は行かぬのか……」


森蘭丸は信長の傍に膝を突くと頭を下げた。


信長は本能寺の中のその部屋を見回した。


「お前たち、チコリ蕩を飲まぬか……」


信長は蘭丸に頷き、湯呑を準備させた。

そしてその湯呑に粉を入れると湯を注ぎ、本能寺に残る家臣の者に配った。


それを飲んだ家臣たちは口々に美味いと言う。

それを見て信長は満足そうに微笑んだ。


「美味いじゃろ……。まあ、本物ではないんだけどな……。わしはこの偽物の方が好きじゃ……」


信長はそう言うと自分もチコリ蕩を口にした。


「秀吉にも飲ませたかったな……」


湯呑に残ったチコリ蕩を信長は一気に飲み干した。


「光秀の馬鹿にも……」


信長は湯呑の底に残った黒豆の粉をじっと見つめていた。







「申し上げます。ただ今、信長様が自害されたとの……」


すべてを言い終える前に秀吉が声を上げた。


「何じゃと……」


秀吉は周囲を見渡した。


「光秀か……」


秀吉に報告した男は静かに頷いた。


「官兵衛、毛利に使者を出せ。和睦じゃ。清水宗治の切腹と毛利の国の分割を持って和睦する。そう伝えよ。絶対に殿の死を悟られるな……。もちろん光秀の謀反もじゃ……」


官兵衛は一礼すると筆を取り、毛利への手紙を書いた。


「信長様……」


秀吉は東の空を見ながら呟いた。


「私はまだ、殿のチコリ蕩を飲んでおりません……」


秀吉の目からは涙が溢れていた。








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