転生した獣人の少年カイ
目を覚ますと、腕と足が縛られていた。
カイ――かつての青年は、見知らぬ自分の姿に息を呑む。灰色の毛皮に覆われた小さな身体。尖った耳と光を反射する大きな瞳。爪は鋭く、石床の冷たさをじかに伝えてきた。
「……ここは……?」
暗い牢屋。苔の生えた壁と、冷たく光る鉄格子。喉は渇き、声を出そうにも掠れた唸りしか出なかった。
過労で倒れたあの日。意識が遠のき、次に目を開けたら獣人の少年となり、鎖につながれていた。――夢だと思いたかったが、夢ではなかった。
牢から引き出されると、そこは人間都市の下層区。
上層から流れ落ちる排水が溝を走り、路地の隅では酒に酔った人間が転がっている。肉や香辛料の匂いと、汗と油の臭気が混ざり合い、空気は重く淀んでいた。
人間たちは獣人を「物」としか見ず、言葉も投げ捨てるように浴びせる。
「ホレ、荷物を運べ!」
「休むな、次だ!」
小さな身体はすぐに悲鳴を上げた。背より大きな荷を背負い、石畳の坂を駆け上がる。転ぶたびに鎖が鳴り、鉄の冷たさと痛みが全身を打つ。
(……ここで潰されるわけにはいかない)
前の人生では理不尽に耐え続け、結局倒れた。だが今度は違う。
夜、宿舎に戻ると、同じ獣人たちが粗末なパンを分け合っていた。湿気た藁の寝床、鉄の匂いが染みついた空気。
「カイ……お前、なんだか他のやつと顔つきが違うな」
隣に座った年上の獣人が囁く。毛並みは荒れ、目には深い影が落ちていた。
「……前世の記憶を持ってたり、しないか?」
カイは曖昧に首を振った。過去の映像は霞んでいる。ただ、体に染み付いた過労の重さと、理不尽に従うしかなかった記憶だけが残っていた。
「俺はな、ぼんやり覚えてる。人間だったんだ」
男は自嘲するように笑い、手首の鎖を弄ぶ。
「人間だった頃は、獣人を下に見てた気がする。……だから余計に、今が堪えるんだ」
カイは何も答えられなかった。けれど、その言葉は胸に深く残った。
ある日、荷を抱えた足がもつれた。転倒するのを覚悟し、衝撃に備えるよう目を閉じた瞬間――。
「おい、大丈夫か?」
人間の青年に抱きとめられていた。温かい手の感触に、カイは息を呑む。
恐ろしい存在とばかり思っていた人間が、こうして助けてくれることもあるのか。
だが次の瞬間、巻かれた鎖が足首に重くのしかかる。罵声が飛び、青年もすぐに去っていった。
鞭打たれながら、落とした荷物を回収し、再び背負う。
(……人間なんて……憎むしかない)
そう思いながらも、心の奥では小さな火が消えずに残った。
その夜。見張りが半開きの扉の前で舟を漕いでいた。
(……今しかない)
カイは息を殺して外へと向かった。
鎖が街の石畳を擦る音がやけに大きく響いた。
路地を縫うように走る。夜風が毛皮を撫で、胸の奥に広がる感覚は――自由。
かつて会社を抜け出す勇気を持てなかった自分が、今は走っている。
だが、それも束の間だった。
「いたぞ!」
怒声と共に人影が迫り、乱暴に捕えられる。足にはさらに重い鎖が巻かれ、自由は奪われた。
「また逃げたか。懲りないやつだ」
屈辱に歯を食いしばりながらも、心の奥で確かに感じた。
――自分はただ従うだけの存在ではない。考え、動き、抵抗できる。
夕暮れ、都市の空が薄紅に染まる。遠くの塔が影を落とし、街の喧騒が風に溶ける。
鎖の音を鳴らしながら、カイは空を見上げた。
人間への憎しみと、かすかな希望。相反する感情を胸に抱えたまま、それでも彼の目は前を向いていた。
(俺は諦めない。この世界で生き抜いてやる)
夜の街に響く鎖の音は、獣人の少年が決して折れないと誓った証だった。