魔族として生まれ変わった少女
――冷たい。
息を吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅうっと縮む。土と草の混じった湿った匂いが、肺の奥にまで染み渡っていく。
まぶたを上げると、見たこともない森が広がっていた。大きな木々が空を覆い、枝葉の隙間からわずかに光が差し込んでいる。
「……ここ、どこ?」
思わず声が漏れた。声は震えていて、自分でも知らない音色に聞こえる。高く、まだ幼い響き。手を見下ろすと、小さな指。薄い皮膚には幼子らしい柔らかさがあった。
背中に違和感を覚え、そっと手を回す。そこには、柔らかい羽根の感触――小さな翼が生えていた。
「え……なに、これ」
息を呑む。だが、不思議と驚きよりも「やっぱり」という感覚の方が強かった。理由はわからない。ただ、胸の奥にぼんやりとした既視感が残っていた。
――私、知ってる。転生とか、そういうやつ。
学校の教室。友達とのおしゃべり。駅前の本屋。人気のラノベやアニメの話題。
記憶はぼんやりと霞んでいるのに、それが「前の世界」での自分だという確信だけはあった。
「……でも、名前も思い出せないや」
口にすると、胸の奥が少しだけ痛む。だけど、涙は出なかった。ここが「もう戻れない場所」であることを、無意識のうちに理解していたのだろう。
少女は地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。体は軽く、翼がバランスを取ってくれる。小さな足で森の中を進んでいると、枝葉の間から差す光が、進むべき方向を示しているように思えた。
森を抜けた先に、灯りが見えた。煙が上がり、ざわめきが聞こえる。村があるみたいだ。
「……行ってみよう」
心細さと同時に、得体の知れない期待に胸を膨らませた。翼を小さく広げ、まだ慣れない体を支えながら、少女は光の差す方へ歩いていった。
村は、森の中に溶け込むように広がっていた。
木の幹をくり抜いたような家々、蔓や枝を組み合わせて作られた小さな橋。焚き火の煙が夕空に昇り、どこか懐かしい匂いが漂っている。
村の入り口に近づくと、誰かの視線を感じた。
木陰から、翼を持った子どもがひょっこり顔を出す。自分と同じくらいの年格好――いや、身体つきからしてもっと小さいかもしれない。
「ねえ、見て! 新しい子だ!」
弾む声が村の奥に響き、あっという間に数人の子どもたちが集まってきた。皆、小さな翼を持ち、光を受けて羽根がきらめいている。
「どこから来たの?」
「名前は? 名前!」
口々に問いかけられ、少女は言葉に詰まる。名前……そうだ、自分の名前を思い出せない。
「……わかんない」
正直に答えると、子どもたちは一瞬きょとんとしたが、すぐに明るく笑った。
「じゃあ、これから決めればいいんだ!」
「長老のところに連れていこう!」
子どもたちに手を引かれるまま、少女は村の奥へと歩いていった。
広場の真ん中には、大きな焚き火が燃えていた。火を囲むようにして、大人たちが集まっている。その中に、長い翼を持つ年老いた男性が立っていた。
長老の目は優しく、少女をじっと見つめている。
「ふむ……空から舞い降りた子か。星が導いたのだろう」
長老の言葉に、大人たちは頷き、子どもたちは目を輝かせた。
少女は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。拒絶も疑いもなく、ただ「受け入れられている」という感覚。
「私にも名前を……つけてください」
震える声で告げると、長老はにっこりと笑った。
「では、星明かりにちなんで――『リュナ』と呼ぼう」
「リュナ! リュナだ!」
子どもたちが一斉にその名を呼ぶ。
リュナ――それが、自分の新しい名前。胸の奥にすっと馴染み、目に涙がにじんだ。
「ここがお前の家だ。今日からお前は、この村の子だよ」
長老がそう告げた瞬間、リュナは初めて「自分の居場所」を得たのだと感じた。
村での暮らしは、驚きと戸惑いの連続だった。
木の実を集めるのも、泉から水を汲むのも、皆、魔力や翼を当たり前のように使っていた。
「リュナも、そろそろ練習を始めようか」
ある日、村の青年が声をかけてきた。名前はザグ。背中に黒い大きな翼を広げ、炎を手のひらに灯す姿はとても頼もしい。
彼がリュナにこの村で生きるための全てを伝える役として選ばれた。
「まずは、火を呼ぶんだ。心を落ち着けて、炎の形を思い描け」
言われるままに目を閉じ、両手を前に差し出す。
――炎。暖かくて、揺らめいて……。
ぱちん、と小さな火花が散った。
「やった!」
「おお、最初にしては悪くない」
周囲の子どもたちが声を上げる。だが喜んだのも束の間、火花は弾けて周囲に飛び散り、草が焦げてしまった。
「わわっ!」
「熱っ!」
慌てて消し止めようとするが、火は思い通りに収まらない。ザグが素早く水の魔法を放ち、飛び散った炎を鎮めてくれた。
「リュナ、焦るな。火は心の鏡だ。揺らげば暴れ、静まれば従う」
叱られるというより、諭されるような言葉だった。
リュナは唇を噛みしめた。
「もう一回……やってみます」
その日から、リュナの小さな挑戦が始まった。
次に教わったのは、翼を使った飛行だった。
最初は、ただ羽ばたくだけで体がふわりと浮き、驚いてバランスを崩すことを繰り返していた。
「きゃああっ!」
頭から落ちそうになった瞬間、下で見ていた子どもたちが笑いながら受け止めてくれた。
「リュナ、羽ばたきが速すぎ!」
「鳥じゃないんだから、もっとゆっくり!」
何度も転んで膝を擦りむき、それでも挑戦をやめなかった。
ふと、頭の奥底にぼんやりとした映像が浮かぶ。体育の授業。走り幅跳びで必死に飛ぼうとした時の感覚。――あれに似ている。
リズムを意識して、呼吸を整えて。翼を広げ、風を受ける。
ふわりと地面が遠ざかり、体が浮いた。
「できた……!」
思わず笑みがこぼれる。地面に着地すると、ザグや仲間たちが大きな拍手を送ってくれた。
火を操ることも、翼で浮かぶことも、まだ未熟で不安定。
それでも少しずつ、できることが増えていくたびに胸が温かくなった。
「リュナは頑張り屋だな」
「うん! きっと村の誇りになるよ!」
仲間たちの笑顔に、リュナは初めて「ここで生きていける」と思えた。
季節は巡り、リュナは少しずつ大きくなっていった。
翼も強くなり、飛べる距離が延びた。炎の魔法も、最初のころのように暴発することは減り、焚き火を点けたり、料理の手伝いができるようになった。
「リュナ、森へ木の実を取りに行くぞ!」
子どもたちに誘われて、朝から森に出かける。枝の間を飛び越え、泉で水を汲み、木の実を摘む。
小鳥のように翼を広げ、森の風に乗る感覚は、リュナにとって日常になっていた。
ただ、森の奥へ行くときは、大人が必ず同行した。
そこには獰猛な獣や、異形の魔物が棲んでいるからだ。
けれど、その危険さえも、村の暮らしの一部として自然に受け入れられていた。
ある夕暮れ、焚き火を囲みながら、大人たちが戦の話をしていた。
人間との争いが長く続いていること、平原の向こうでは血が流れていること――。
「人間って、そんなに怖いの?」
リュナが小さな声で尋ねると、焚き火の赤が揺れた。
大人たちは互いに目を見交わし、やがて一人の女性が答えた。
「怖いというより……わからない存在だね。森を焼き、仲間を奪い、私たちを獣のように扱う。だが、本当に皆がそうなのかは……」
言葉を濁したその表情には、憎しみだけでなく、迷いも浮かんでいた。
リュナは胸の奥がざわつくのを感じた。
人間。どこかで聞いたことのある響き。遠い記憶の影。
けれど、はっきりと思い出せない。
その夜、寝床で翼を丸めながら、リュナは小さくつぶやいた。
「もし……人間と会ったら、私はどうするんだろう」
日々の暮らしは穏やかだった。
子ども同士で遊び、時に競い合い、時に助け合う。森を駆け回り、夜には星空を見上げる。
笑う声が絶えず響く村の光景は、リュナにとって「家族」そのものだった。
名前も覚えていない自分を受け入れ、育んでくれた場所。
――だからこそ。
リュナの心には芽生え始めた。
「守りたい」という願いが。
その日、森はいつもと違う匂いに包まれていた。
焦げた木の香り。獣が荒れ狂った後のような、嫌な匂い。
「リュナ、こっちだ!」
ザグの声に導かれ、森の奥へと足を踏み入れる。
そこにあったのは、斬り倒された木々、焼け焦げた草地、そして倒れている一人の人影だった。
リュナの心臓が強く跳ねる。
――人間。
子どもの頃から話に聞かされてきた存在。恐ろしい侵略者、破壊するもの。
だが目の前の人間は、血を流し、苦しげに息をしているただの若者にしか見えなかった。
「助ける必要はない」
ザグが低く言った。
「人間は敵だ。放っておけ」
普段の優しいザグからは想像もできない、低く冷たい声。
その言葉に、リュナは唇を噛む。
――でも。
助けを求めるように差し出されたその手を、見過ごすことなんてできなかった。
「……私が助ける」
思わず声が出ていた。
ザグが目を見開き、仲間たちがざわめく。
「リュナ!」
「裏切る気か!」
「違う……ただ、見捨てられないだけ」
リュナはしゃがみ込み、人間の手を握った。熱い。命が燃えている。
その瞬間、胸の奥に微かな痛みとともに、遠い記憶が閃いた。
――自分も、かつて人間だった。
もはや霞のように薄い記憶。制服姿、教室、誰かと笑い合った声。
それらはすぐに霧散し、掴むことはできなかった。
「……!」
目を開けた人間の若者が、かすれた声で何かをつぶやいた。
その言葉は聞き取れなかったが、不思議と懐かしい響きがあった。
その夜。
リュナは横たわる人間の若者を村の外れの小屋に運び込んでいた。
怪我の手当てをしながら、自分の心臓の鼓動がまだ早いままだと気づく。
――助けたのは正しいのか。それとも、村を危険に晒しただけなのか。
仲間の視線は冷たい。
ザグはしばらく黙ってリュナを見つめ、やがて低く言った。
「……リュナ。お前が背負った責任は、お前自身のものだ。
だが、覚えておけ。人間と関わることは、きっとお前の運命を大きく変える」
その言葉は、胸に鋭く突き刺さった。
月明かりの下、眠る人間の横顔を見つめながら、リュナは翼をたたんで小さくつぶやく。
「どうして……私はあなたを見捨てられなかったんだろう」
答えはまだ見つからない。
けれど、心の奥で確かに何かが動き始めていた。
村を守りたいという想いと、目の前の人間を助けたいという想い。
ふたつの願いは、やがて大きな流れとなり、リュナの未来を作っていく。
遠くで、焚き火の音が聞こえた。
人間と魔族を分かつ炎。
それがいつか――共に温め合う火に変わることを、リュナは心の奥で願っていた。