婚約破棄された夜に、最後の恋をした~魅惑の甘い香りの「彼」に、私は捕まってしまう~
目を開けると、私の目の前にある棚が目に入る。
視界に入りきらないほどに並べられたお酒の瓶は、私の知らない銘柄がたくさん。
視線を落として飲んでいたウイスキーのグラスを傾ける。
グラスに一つ入っている大きな氷は、甲高い音を立ててグラスを滑った──
「マスター、同じのもう一杯くれる?」
「アシュレイ様、お体は大丈夫ですか?」
「ええ、酔ってるけど意識はしっかりしてるわよ」
マスターは私の声に静かに頷いた後、棚に置いてある背の高い瓶の後ろから小瓶を出す。
その小ぶりの瓶は菱型のガラス細工が施された、職人手作りの一級品の代物。
コルクが開けられて、氷の入ったグラスにゆっくりと注がれていく。
慣れた手つきのマスターの動きと、注がれていくウイスキーをじっと見つめる。
氷に当たった液体はグラスの中で綺麗に円状に広がって、底に落ちていく──
「どうぞ」
「ありがとう」
カウンターに置かれたグラスを持ち上げて、一口飲む。
先程よりも桃の香りが強くなったそれは、喉を通って私にまたあの日の記憶を思い出させる。
ずっと好きで好きでたまらない人。
このバーにとても馴染むダークブラウンの髪、そして漆黒の瞳をした彼とは、あの日に出会った。
──私が婚約破棄をされて落ち込んでいた夜。
元々侯爵家の三男だったマスターが運営していた会員制のバーに入り浸っていた。
幼馴染への初恋にも敗れ、そしてその日に今度は5年も一緒にいた婚約者に婚約を破棄された。
婚約自体は実家の事業立て直しのための政略結婚のようなもので、向こうから一方的に好きとも伝えられてたから、私からの恋愛感情は5年間湧くことはなかったけど。
私が恋をしたのはたった一度だけ。
幼馴染だったオリヴィエただ一人。
でも、そんな初恋の淡い想い出を壊したのが彼だった。
漆黒の瞳の彼は婚約者にいらないと言われた耳に告げてきた。
『お隣、いいですか?』
私は乱れた髪を手櫛で直し、そしてドレスを整えて座り直す。
『そんなにかしこまらないで。マスター、いつものもらえる?』
マスターが小ぶりの瓶を取り出して、ゆっくりと氷の入ったグラスに注いでいく。
差し出されたグラスを手に取り、彼は形のいい唇で一口飲んだ。
ふんわりと甘い香りが漂っているけど、彼の香りなのか、お酒なのか。
『桃のウイスキーだよ』
不思議に思っていたのが、顔に出てしまっていたのだろうか。
お酒のせいか、少し体が熱くてなんとなく頬も熱い。
『一口飲んでみる?』
誘惑するような甘美な声に、心臓が飛び跳ねる。
鼓動が早まって思わず声が出ない。
『ごめんね、淑女に対して失礼だったね。マスター、新しいものを……』
私は彼の細くも逞しいその腕に手を置いた。
自分でもそんな大胆な行動をしたことに驚いたけど、彼のグラスから一口もらう。
桃の香りがふわりと体に入っていって、後に少しウイスキーの苦味が訪れる。
『どう? 気に入ってくれた?』
彼は胸ポケットからペンと小さな紙を取り出すと、さらさらと何かを書いていく。
ペンをしまうと、紙を私に差し出す。
『アマリティーナ、このウイスキーの名前。君の名前は?』
私は自分の名を言うと、彼は優しく微笑む。
『アシュレイか、素敵な名だね』
そう言われたのは初めてだった。
だって、アシュレイといえばこの王都の伝承で英雄騎士たちを苦しめた大悪女の名だから。
田舎の子爵家だったため、両親はおろか、村の人はみんなそんな伝承は知らなかった。
婚約をして王都に花嫁修業に来て初めて知ったその事実。
誰も、みんな私に近寄らなかった。
学院で友達もできなかった。
お茶会でも晩餐会でも、名を呼ばれるたびにみんなに避けられた。
『どうして泣くの?』
私はそう言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。
そうか、この王都にいて「アシュレイ」を素敵だといってくれる。
きっと、この国の人じゃないのかもしれない。
ロングコートにシャツを着た彼は、この国では珍しい漆黒の瞳をしているもの。
『君は綺麗な瞳をしているね。淡いピンクの瞳』
甘ったるい声と唇に色気を感じずにはいられない。
あなたに触れてみたい、と思った。
今日会ったばかりのあなたに……。
『また会いたい』
そう告げられた言葉を最後に、私はたぶん眠ってしまって……。
気がつくと夢のように消えてしまった彼。
隣の席に手を伸ばしてみても、もういなくて。
──そんなあの日から、このバーに週に一度は来ている。
両親に背中を押してもらって始めた服飾の事業も、ありがたいことに忙しくなっていてなかなか時間がない。
彼はもしかしたらすれ違いでバーに来ているのかもしれないけど、あれから会えていない。
『また会いたい』
その言葉を信じて、彼のまたあの声が聴きたくて足を運んでしまう。
桃の香りを教えてくれた彼に、会いたい。
彼に褒めてもらえた名で、私はデザイナーをして段々私のデザインしたドレスが世界に広まっている。
「お礼が言いたいな……」
私はポーチから取り出した小さな紙を見つめる。
「アマリティーナ」と書かれた文字は脳内であの甘い声で再生された。
その瞬間に思わず顔を赤くしてしまって、恥ずかしくて急いでお酒を一口飲む。
褒めてくれた言葉も、この文字も、このお酒も。
もう一度あなたの声で聴きたい──
この後、私はこの国を出ることになっている。
私のドレスをもっとたくさんの人に来てもらいたくて、私は旅に出る。
ファッションの聖地と呼ばれる「ディルナ」で新しい生活を始めるんだ。
だから、この恋はここでおしまい。
最後にもう一杯だけ飲んで、ありがとうをしよう。
そうしてマスターにグラスを差し出そうとした時、後ろから声をかけられた。
「お隣、いいですか?」
「──っ!!」
甘ったるくて、桃の香りで、優しいけど艶やかな声。
聴きたくて、もう一度聴きたくて。
大好きだったこの声。
「また泣いてるの?」
「泣いてません」
私は隣に座った彼から顔を逸らす。
涙を拭いたその手を、後ろから力強く引かれる。
そうして、彼の胸元にいた。
「アシュレイ、会いたかった。もう一度、君に。会いたかったんだ」
耳元で囁かれた少し低い声は、吐息ごと私に届く。
そっと腕を解いて私を解放すると、彼は胸ポケットから何かを出す。
それは一枚のチケットのようなもので、よく見るとそこには「ディルナ行き」と書かれている。
「ディルナ……」
「君はもう旅立つんだろう? 私もそこに用事があるんだ。一緒に行かないかい?」
彼は名刺を取り出して、私に手渡した。
そこには「ショコラティエ」の文字があった。
そうか、彼はお菓子職人だったから、お酒にも詳しかったのかもしれない。
そうしてその下に視線を落とした。
「──っ!!」
私は顔をあげて彼を見る。
「綺麗になったね、アシュレイ。会いたかったよ」
「オリヴィエ……!」
どうして気づかなかったのだろう。
このバーはかなり照明が落とされていて暗い。
なのに、私の瞳の色を知っていた。
それに、私も勝手に彼の瞳は漆黒だと思い込んでしまった。でも、彼の瞳はきっと──
「もう一度君に会えた。一緒に夢を追いかける旅にでませんか?」
ゆっくりと差し出された手に、私はそっと手を置いた。
大好きなあなたと、ずっと傍にいたい。
このバーを出た時に言おう。
大好きでたまらない、あなたへの想いを。
素敵な旅の始まりに、グラスとグラスが重なる甲高い音が響き渡った──
読んでくださってありがとうございます!!!
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お酒と甘い恋のマリアージュはいかがだったでしょうか?
作者もお酒が好きなので、行きつけのバーとかいってみたいです!
●よかったらこちらも連載中なのでどうぞ
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『悪役令嬢に転生したのに、私は展開を知りません!~なんか嫌われているのかと思いましたが、力を使って尽くしてたら溺愛されまくるんですが!?~』
【和風ファンタジー×悪役令嬢(転生もの)】です。