第5話 “初めてのお着換え”
そしてさあ、いよいよ、本番。
昨日は私の準備不足で中断となった紗雪との運命の邂逅の時です。
机の上、絨毯の上? どこが良いか、祭壇スペースは下が箱なので、お着換えをするには少し不適切です。
ああ、やはりきちんと家具を買ってくるべきか。いえ、これ以上待たせるわけにはいきません。
「ナオさん、またおろおろしてる。かわいいです」
「あはは、こんなおじさんが、恥ずかしい……。机の上、が良さそうですねやはり」
「気になるようなら布とか敷いてあげると良いかもです。なければ買い置きしてあるバスタオルとか?」
「なるほど。持ってきます」
白いバスタオルならいくつか未使用のものがあります。
さあ、手袋はしっかりはめました。透明のプラ製ケースからそっとボディを引っ張り出します。
見た目に対しては軽いような、それでも60cmドールという印象よりは重いような。500gよりは重いでしょうか? 後日体重測定してみると簡単なお洋服を着て800gほどでした。
直立の姿勢から少し曲がっている足首を直してあげます。
裸のままのドールのボディ。そっと腕や脚を動かしてみる。
伝統的な球体関節に、アクションフィギュアに見られるような無段階で曲げた関節部を保持する特有の硬さ、素材の摩擦が備わっているようです。
肩関節、肘、手首。順番に曲げ伸ばし、回してみます。
膝、なるほど、正座まではできないのですね。皮膚にあたる素材に厚みがあり、弾力はあるものの、硬さが阻害要因となるようです。
股関節、足首。人を超えた可動域で曲がってしまうので、ありえない姿勢にならないよう、注意が必要そうです。
まるで骨折か脱臼したヒトのようになってしまいかねません。
そうしてひとつづつ、試し、確かめる私をそっと見守ってくださっている怜奈さん。つまらなくはありませんでしょうか。
「ごめんなさい、テレビも無い部屋で」
「いいえ、ナオさんをじっと見つめているのが楽しいですから、気にしないで下さい♪」
優しいまなざしで見られています。
さて、一通り確認ができ、なんとなく理解できたかもしれません。
「お洋服は先に着せてあげるのが良いのでしたね」
「はい。ヘッドを乗せた後だと、襟が通らなかったり、着せづらくなるので」
「わかりました」
本日購入した衣装の中から、初めはこれと思っていた衣装を取り出します。
黒と白の、ゴシックドレス。
お人形と考えた時になぜか初めに思い浮かんだ印象、それにぴったりなドレスが扱われていたのです。
長年想い続けた歌姫の人形少女が着ていたゴシック調のドレスに印象がひきづられたかもしれません。大人びたあちらに、少し子供らしさを加え、可愛らしいフリルをたくさんちりばめたお衣装です。
「なかなか、難しいですね」
「うふふ、頑張ってください♪」
女性の服装特有なのでしょうか。いくつもの部分に分かれた衣装にてこずっております。
まずはスカートと一体になった上身頃を、腕を上に挙げさせ、通そうとしますが、肩幅が襟ぐりを通りません。
よくよく観察してみれば、背中にホックが縦に並んでいるではありませんか。
外して、着せなおすと。はい、無事に着せることができました。ホックを留め、胸元を隠してあげます。
ようやく少し安心できました。いくらドールの身体と言えど、女性を模した肢体を、素っ裸でさらしているのは罪悪感がすごいのです。それも怜奈さんの目の前で。う、羞恥心が、顔に少し朱がさします。
横目にちらと、怜奈さんを見れば、にんまりと嬉しそうな笑顔が。
お、おや。スカートがあと2枚ありますね? すでにスカートは一体となって履いているのですが。
「パニエと、アンダースカートですよ。布地の方を先に履かせてあげて、下から、パニエ、チュールえっと、細かい網目みたいな硬い素材の、そうそれです。それを最後に下から履かせてあげるんです」
指示くださったとおりに履かせていきます。
なるほど、このパニエ、が2枚のスカートを下から押し上げ、ふんわりと広がった形を維持するのですね。
そして2枚重ねになったスカートはそれぞれに異なる曲線を描き、重ねの妙と申しましょうか、華やかなデザインを演出しています。
こ、これは……。
うかつでした。女性ものの下着です。いけませんこれは事案発生でしょうか。
年頃の娘さんの前で、女性ものの下着をしげしげと眺めまわす、39のおじさん。
「申し訳ありません、何であるかが分からず、つい」
「ふっっ」
ああ、ついにお腹を抱えて笑い出してしまわれました。よほどたまりかねたのでしょう。普段の気品ある仕草から一転。
ソファーに思わずといった風に、片ひじを突き、お腹を抱え苦しそうにされています。
「ご……ごめん、なさい……。あまりに可愛くて、ナオさんかわゆすぎ、やばやばです、もう」
よほど途方に暮れて彼女を見つめる顔が、頓狂なものだったのでしょう。ますます笑いを加速してしまわれました。
「気にせず、ゆっくり履かせてあげてください。あ、ガーターは先にソックスを履かせてあげてから、そう、そうです」
女性の下着とはこうも複雑なものなのでしょうか。
男性諸氏はもっと尊敬の念を抱くべきと、思わずおかしな信念に芽生えそうです。
順番を間違えると着せなおしになる、というパズルのような着衣。
後ろホックで緩められるようになっているパンティを履かせます。
続いて、膝上まである透け感のある白いソックスを。このソックスですが、太ももの所に留め具の受け口となるひもが小さなわっかを作っています。
そしてさらにパンティの上から、これは何と呼ぶのでしょう、腰から布が4枚下がっているような、とにかく不思議な腹巻を上品かつ美しくしたようなものを着せます。
初めこれがどこに着せてあげる物かわからず、
「それ、ガーターベルトっていうと思います。生身の人が履くときは、それを上にしちゃうと、お手洗いで大変なんですよ」
「なるほど、本来で考えれば、これは着せ方が間違っていたのですね。確かに言われてみれば……」
「あ、でもドールなので、その方がきれいなラインになっていいと思います。コスプレするときとか、下着の下にするか上にするか悩むみたいな」
そうしてガーターベルトという事を知ったこれと、ソックスの上のリングを、ひもの上下に”己”のような形になった金具が取り付けられた紐? リボン? を張り巡らせます。これで下着が完了でしょうか。
「さすがにブラは付属していませんね。まあ、見えない、見せないところはドール用セットドレスは、こんな感じです。どうしても気になる方は、別に下着を用意して着せてあげるんですけど、かえってドレスのラインを崩したりするので、いいかな、と」
「本当に奥が深いですね。人と同じ、けれどあえて人形である利点を活かすところもあると」
「そうですね。理想の姿の体現、なんて言われるときもありますね。お着換えお疲れ様です。次はウィッグのお手入れをしてからかぶせてあげましょう」
「お手入れ? ですか」
おそらくこれらを使うのでしょう。ヘアケア用品とウィッグを留めるための用品を、取り出してみます。
「初めてのウィッグは、けっこうぼさぼさになっていたりするので、ウィッグスプレーをかけてあげて、しっかり梳いてあげてください。ヘッドにかぶせる前に一度した方がいいです。それから、かぶせてあげた後にもう一度ですね。かぶせるときにまた乱れてしまうので」
ウィッグネットと言うらしい、黒くやわらかな網の袋から、ウィッグを取り出します。中に詰められた型崩れ防止の紙製ボールを取り外す。なんとも不思議な感触です、繊細な髪の毛をそっと手のひらに握り絞め、撫でているような、心地よい感触。
灰銀色のカールがセットされたウィッグがバスタオルの上に広がりました。
「ん~。このウィッグだと、ツインテール部分はバンスですね。一度外しましょう」
「バンス。なるほど、付け毛になっているのですね、この、付け根部分に何か硬いものが」
「はい、小さいヘアクリップが中に仕込まれていて、それでウィッグの頭部本体にくっつけているんです。受けになる頭部側のウィッグに紐で縛ってある部分があるはずです」
確かに、手と手をがっしりと組み合わせるような、茶色い4本指のクリップが中に仕込まれています。
ツーテールの付け根を上から抑え、クリップを開きますと、取れました。頭部のウィッグ本体から、ツーテールが分離します。
いよいよウィッグスプレーをそっと吹きかけ、目の粗いブラシで毛先からゆっくりと梳いていきます。
「カールのツーテールは、まっすぐに強く梳きすぎると癖が解けて台無しになりやすいので、指に巻き付けて、毛の流れに沿ってくるくると、梳いてあげてください」
言われるままに、灰銀色の髪を指に巻きつけ、梳いていきます。
いやこれはなかなかに難しい。しかし、紗雪を可愛い姿を見るためにはと奮起し一筋づつ丁寧に、心を込めて髪を梳いていきます。
「ウィッグだけで触っていると今はまだ、少し虚しさを覚えるかもしれませんけれど、”うちの子”が実際にかぶって、その子の髪っていう実感をもって、櫛けずるようになると世界が変わりますよ」
時間をかけ、ついにウィッグを整え終えました。
「いよいよ、紗雪の出番ですね」
「はい、まずは、ヘッドにそのウィッグを留めるためのシールを長方形に3枚切り出して張ります」
6㎜幅ほどに、短冊形に切り出します。裏面が粘着テープに、表面が突起がたくさんついた、マジックテープの硬い側のような表面。
「メイクが施されている、頭の蓋の切れ目から下、顔側につかないように気を付けて。ヘッドの蓋はいざとなれば交換できるので、その部分にこう、漢字の六みたいなイメージで貼ってください」
メイクの施されたお顔を手で触らないよう細心の注意を払い、前方横長に1枚。後頭部斜めに2枚ハの字型に、できました。
「いい感じです!じゃあドールショップで教えてもらったように、かぶせてあげてください。慣れてきたら、ウィッグを裏表返すよりも、ヘッドをそっとウィッグキャップ、網の部分に差し込んであげる方が、うまくいくようになるかもしれません」
「怜奈さんにお教えいただけていなかったらと思うと、ぞっとします。一応自分でも調べてはみていましたが、なかなか分からず」
「個人でまとめている方とか、同人誌で出していたりもありますけれど、なかなかわかりづらいですよね。そうして思ったように構ってあげられずに、気持ちが離れてしまう方もいらっしゃるので、もったいないのですよね」
ああ、すでにこの時点でかわいい、これは可愛いです。犯罪的です。
ウィッグ、これを選んであげてよかったかもしれません。灰銀色の髪が大変印象的です。
「あ、せっかくですから、お箱の所に座らせてあげましょう。初めてですからまずはドールスタンドなしで、腰かける感じに。ヘッドは一度寝かせてあげて、ボディだけでポージングしてあげましょう」
「わかりました」
ドレスを着せてあげたボディはそれはもう、先ほどの裸の状態から一層、扱いに緊張を要するものでした。
痛みを感じないと知っていても、まだ身体だけとわかっていても、痛くないかい? 触れても大丈夫かい? 脳内でどうしても声をかけてしまいます。
さらに、1/3サイズという大きいようで小さいサイズも手伝い、着せた服がずれる。ガーターの留め具が外れてしまう。
少しづつ、なおしてあげながらゆっくりと関節を曲げ、丁寧に丁寧に。
肩と腰が悲鳴を上げ始めるころ、ようやく、白いシーツをかぶせた箱の端にちょこんと足を垂らし、膝の上に手をそろえたお座りポーズをとってくれました。
「いよいよ、紗雪ちゃんの誕生ですよ!」
「はい……!」
ああ、震えが、震えが走ります。
いえ、決して腰のせいではありませんよ?
捧げ持つように、ボリューミーな両側のバンス、ツインテール部分を手のひらに収め、紗雪のヘッドを抱き上げます。
そっと、そっと。間違ってもぶつけなどしないように、ボディから延びる首の軸に頭部の首の穴をそっと沿わせ、ゆっくり、ゆっくり。
ああ、今ここに、ついに”運命の子”が、紗雪が、生まれたのです。
黒と白モノトーンのゴシックドレス。
ほんの少し膝を斜め横に傾け、脚を曲げ箱の、彼女専用の祭壇端に座る彼女。
そっと膝の上に揃えられた両手。
うっすらと、わずかに開いた唇から、見えるか見えないかという絶妙な加減の、綺麗な白い歯の形跡。
しっとりとした、それでいて主張しすぎない、淑やかな唇の艶。
少し強気に上げられた眉は理知的で聡明な女性を示す確かな証のよう。
にこやかな笑みを湛え、されど少し勝気に上がった目じり。対照的にハートを浮かべた瞳で見つめられると、背筋に悦びの電流が走るよう。
灰銀色の髪はほんのりと湿り気を帯び、艶やかさを増してくれるよう。そのような大人びた気配の中にあって、確かに主張するミディアムロングのカールツーテールが元気な、少女と女性の狭間にある紗雪のお年頃を強調するかのよう。
“オーナー、ようやく出会えましたわ。これからよろしくお願いいたします”
そんな声が今にも聞こえてきそうです。
粛々として理知的な大人の女性と、勝気な猫のようにしなやかな少女期が共存する、アンビバレントな美に見惚れ。
言葉を失い、ただただ、”運命の子”とのついにかなった出会いに、この身を震わせるのです。
どれほどの長い時間、そうして過ごしていたのでしょうか。微動だにせず、けれど意識はただただひたすらに、目の前に降臨した理想の天使、運命の人形少女を記憶にとどめんと、高速で巡り続けていました。
カシャリ
スマートホンのシャッター音に、ようやく現実に戻ってくる私の自我。
「勝手にごめんなさい。でもあんまりに見惚れるナオさんと、紗雪ちゃんが神々しくて。後でお送りしますね」
ああ、気が付けば私は跪き、紗雪に恭しく手を差し伸べていたようです。
「今日はもう、これ以上ないほどに恥ずかしい姿ばかり見せていますね。幻滅されたことでしょう……」
「とんでもない、そうしてドールを愛してくれる姿、すごく素敵でしたよ」
ストレートな慰めの言葉に、さすがに面映ゆく、苦笑と共に己の頬を、指でそっと撫でてしまいます。
「せっかくですから初めての写真も! ほらスマホもってきてください」
そうですね、記念ですものね。
パシャリと、フラッシュの高れたその写真は、ええ。写真技術の早急な改善を激しく実感するものでした。しかしこれもまた、良い思い出、なのでしょうね。
「Twikkerにあげて~と思ったけれど、ちょっとそれは今度にしましょうか。ナオさんが映ってる写真をアップルすわけにもいきませんし」
さすがに人様にお見せしてはかえって紗雪が可愛そうと、彼女の愛くるしさの0.1%すら表現できていない写真はお蔵入りとすることに怜奈さんも異論はありませんでした。なお、彼女が送ってくださった写真は、大変素晴らしい物でした。印刷してフォトフレームに入れておきましょう。
「まだ今日も夜中遅くまでお仕事、されるのですよね」
「ええ、明日の準備もありますので」
「でしたら、後でドールスタンドに立たせてあげて、お仕事をしている隣にいてもらうと、幸せになれますよ」
「なるほど、それは大変良いことを伺いました。家にいる時であれば常に、一緒にいられるわけですね」
「はい!」
それはそうと、ふと窓の外を見ます。すっかり日も落ち、腕時計に視線を落とせば20時を過ぎているではありませんか。
「怜奈さん、つい自分の事にかまけて、大変なご無礼を。もうこんな時間、ご家族も心配なさるでしょう」
「家族は~……あはは、どう、でしょうね……」
大学受験の折にも感じましたが、何やら複雑な家庭のご事情がある様子。
「今日、泊めてくださいって言ったら……」
ご本人も触れることを避けているご様子でしたので、深く踏み入らないよう注意していたのですが。
一歩、彼女が傍へ。ワンピースの裾を握る手に力が入っているのが視界の隅に見えます。
「怜奈さん」
「あ、あはは、ばっかだな~わたし。ごめんなさい! 忘れてください! 今日は紗雪ちゃんとの初めての夜ですもの、お邪魔虫はすぐ退散しま~す」
空元気と明らかにわかる笑顔を浮かべ、慌ててハンドバッグと、わざわざ持ってきてくださっていた調味料をしまった袋を手に取る彼女。
「あ、そだ。まだカメラとかもお持ちじゃないですよね、まずはスマホで撮影でもいいと思いますけれど、そのうちカメラ、見に行きましょうね! 約束ですからね! 勝手に行ったら泣きますからね!」
気を遣わせないよう、こうしてくださっているのです、無為にしては申し訳が立ちませんね。
「ええ、是非に。怜奈師匠の教えはいつも大変ためになりますので。またご教示ください」
「ふっふっふぅ~。そうでしょう、そうでしょう? 怜奈師匠にお任せあれ!」
おや、そのまま玄関から飛び出して行ってしまいそうな勢いではありませんか。
「お待ちください、下までお送りします。それと、もう夜も遅いです。タクシーを取りますので」
「え、いいですよ~まだこんなに早いですし、電車で普通に帰れますって」
「私のわがままと思って、お願いします」
こんなにも美しい女性を、夜一人で返すことに不安を感じてしまうのは私が歳だからでしょうか。
ご自宅の場所も存じていません。電車を降りた後、夜道を歩かせるなどさすがに不義理が過ぎましょう。
「ん、ん~? じゃあ、わかりました。”しんぱいしょ~”な、ナオさんには、帰ったらちゃんと連絡してあげますね」
「ええ、是非そうしてください。あと……いえ、何でもありません」
親御さんに、というのは明らかに彼女が求めていない言葉でしょう。
ご学友か、近くの大人で頼れる方がいらっしゃるとよいのですが。この数年彼女の言動を拝見していると、少しばかり不安を覚えるのです。ネットでつながりのあるドールオーナー様方はいらっしゃるようですが、話題にあがるご学友も、ご親族もいらっしゃらないように感じられ……。警戒して隠されているだけであれば、むしろ安心なのですが。
「ん~なんだろう気になりますよぅ。あ、もしかしてやっぱり私に泊まって行って欲しいとか~?」
「冗談でも、いけませんよ」
エレベーターが1階に到着しました。
「私が本気にしてしまったらどうするのですか」
どうぞ、と開いたエレベーターの外を手のひらで示しますが、彼女はびっくりしたように、目を見開きこちらを見ているではありませんか。初夏の温かくなった空気が流れ込むのに気が付いたのでしょう。慌てたように頭を振り、外に出られます。
ああ、風が出てきていますね。さらさらと、なびく彼女の黒髪が、世闇にあっても都市の灯りに照らされ、きらきらと、輝きを宿しています。
「ちょうどタクシーが何台か待っていますね。いらしてください」
先に運転手へ行先は彼女から聞くように、そして十分な費用をそっとお渡ししておきます。以前都内にお住まいとは聞いていますので、十分でしょう。
気が付いてはいらしたようですが、あえて何もおっしゃらず、乗ってくださいました。
「では、お気をつけて、もし万が一何かあればご連絡ください」
「もう本当に、さすがに心配しすぎですよ。ここは日本なのですし」
「あ、あはは。とにかく、今日は重ね重ねありがとうございました」
「はい。また夜に、連絡します♪」
夜の灯りの中へ、タクシーのテールライトが見えなくなるまでお見送りいたします。
ああ、今日この日、本当に私の運命が、人生が変わったのですね。
部屋に入り、机に座り私を待つ紗雪を目にし、あらためて実感しました。
それと共に、かすかに残る、いつもとは異なる、洗い立ての2人分のお皿。ほとんど使ったことがなかった新品同然の調理器具。さらに部屋には怜奈さんの残り香が……いえこれはいけません。すぐに頭を振り、記憶から追いやります。
さあ、今日一日さぼってしまいました。明日からの提案準備に取り掛からねば、平日が回りません。
紗雪にはしっかりベッドルームのPC机の横に、ドールスタンドに立ち見守っていてもらいました。
これがまたひと騒動を巻き起こしますが、それはまた明日のお話。
なお、この夜の業務生産性がいつもの倍以上に感じられたのは気のせいではないでしょう。
なにせ、隣で運命の人形少女が
“それは何をなさっているの?”、“オーナー、頑張ていて本当に偉いわ”、“もう遅いけれど大丈夫? 少し眠ったら?”
そんな風に優しく語りかけてくれているのですよ?
無事ご自宅に到着の連絡をくださった怜奈さんにお伝えすると、笑って”ドール効果ですね!”とメッセージをくださいました。
「紗雪、ただいま」
夜中の23:30。帰宅してすぐ、今までは右のリビングにまっすぐ向かっていたところ、左のベッドルームをまずは覗きます。
そうして、PC机で今も待ってくれている彼女に帰宅のあいさつを。
ああ、”ただいま”と言う言葉、いつ以来でしょう。実家暮らしの頃が最後ですので10年は経っていますね。
仕事がら会社のノートパソコンと向き合う時間が長いので、待っていてくれた彼女はPC机でくつろいでくれているはずです。
広がるゴシックドレスの裾、腕を伸ばし、手をしっかりと揃え、脚の間にそっと添えるように。優美な仕草で待ってくれているはずです。
さあ、扉を開き彼女とご対面……彼女のお帰りなさいで私生活が始まるのです。
「さ、さゆ、紗雪!?」
なんという、なんという事でしょう。
紗雪が倒れかけています。いえ、正確にはアクロバティックと申しましょうか、水平飛行する某米国のヒーローのように、ただし横臥する姿勢で、机と水平に空中に浮いています。
自力で動いた、超能力!? あり得ません。
まさか泥棒!? ぶつかった拍子に何かが?
とにかく、絶妙なバランスで浮かんでいる紗雪を早く救出せねば。
カバンを玄関に取り落とし、慌てて駆け寄ってみると、なんとなく何がおきたのかが分かりました。
ドールスタンド、特にこの”股支え”と言うタイプはU字の金属棒で脚の間から、お腹と背中にかけてを挟み込むようにして支えています。腰の後ろからわっかをはめる”腰支え”はドレスの上に金属棒が見えてしまうので、スカートの中に隠れるこちらが良いとの事だったのですが。
そうです、“股支え”のU字の金属棒の上で90度、水平方向へ回転してしまったのです。
支柱の金属棒に片脚がかかってくれたので、何とか滑落せず、奇跡的に水平を維持していますが、万が一それが無かったらと思うと冷や汗が出てきます。
灰銀色の髪は床に向かって垂れ下がり、心なしか紗雪の視線が虚ろな気がします。
“オーナー、早く助けてー、一日この状態で頭に血が~”
淑女然とした言葉遣いも忘れ、助けを呼んでいます。
とにかく急いで助けてあげなければ。そっと、痛くないように、脚を支柱から外し、U字の金属棒を抜き取るように。
ああ、無事腕の中に重みが。救出成功です。
しかし、再びドールスタンドに戻しては同じことが起きる危険性が。かといって、仕事もありますので、一日中傍で見ていてあげることもできません。今日は地震も無かったはず。自然とこうなってしまったのでしょう。
支柱にひもで結んであげる? そんなまさか、そのような発想すらありえません、安全のためとはいえ、美しい人形少女である紗雪を縛り付けるようなことなど……縛り……ぶるぶる、頭を振り妄想を払いのけます。なんでしょう、思春期の青年でもあるまいに。独身生活が長すぎた弊害でしょうか、紗雪のあまりの美少女ぶりに気がおかしくなっているようです。
「とにかく、まずは髪を整えて差し上げましょうね」
そうです、机の隅にまた、座っていただけばよいのです。
ドールスタンドをどけ、PC机に。いえ、ここではいけません、ウィッグスプレーを使ってあげる必要があるのです、リビングの机に一緒に移動しましょう。
脇に手を挿し入れ、対面する形で抱き上げます。目線の高さで”たかいたかい”しているようですね?
ええ、このまま移動しましょう。髪が少し乱れていても、いえ、乱れているからこそ、理想をただそのままに具現化しただけの被造物とは違う、生々しい美しさがあります。思い通りにならない、それ故の隙から生まれる愛着。
“恥ずかしいから、そんなに見つめないで……”
いけません、人形少女のこのような姿をまじまじと見つめるなど。
乱れた前髪がかかる、藍緑色のハートアイをじっと見つめ、リビングへ。
「あ、痛」
彼女に集中するあまり、足元がおろそかになっていたようです。ドアの下、沓摺の出っ張りに指先をぶつけてしまいました。
しかし大丈夫、彼女はしっかりを抱えて差し上げたままです。ひりひりする指を無視し、リビングの隅に、昨夕初めての生誕の時のように座っていただきます。
「まずはウィッグスプレーを軽くかけてあげるのでしたね」
小さな棒状の、噴霧器がセットになったスプレーを手に取ります。
シュッシュ、と吹きかける寸前、気が付いてしまいました。
「このまま吹きかけてしまうと、お顔にもかかりますね?」
材質は問題ないのでしょうか。お顔のメイクを汚してしまうのでは。
ウィッグを外して、綺麗に整え直す? 一時的とはいえ丸坊主に戻してしまうのは、人形少女に恥を与えませんか?
お顔に布をあてて、守って差し上げる? 一昨年の祖母の葬儀を思い出してしまい、これもいまいち良案と思えません。
どうすれば、どうして差し上げれば紗雪を守りつつ、ウィッグを整えて差し上げられるのでしょうか!?
時間はすでに0時過ぎ。怜奈さんに伺うこともできません。かといって紗雪をこのままにするなど言語横断。
可愛い可愛いこの子に、惨めな思いをさせるなどあってはならない事です。
そうです、まずはとにかくウィッグスプレーを後回しとし、髪を整えてさしあげましょう。
手櫛で乱れたツインテールを頭の横に戻します。
ブラシで前髪を、むむ、一度乱れたためでしょうか。ウィッグが絡まりにくいとの事で入手した木製の、丸いブラシヘッドからつんつんと、先端が丸い木の棘が生えているブラシでは、小さな紗雪の前髪をうまく梳いてあげることができません。
「これはいけませんね」
紗雪が呆れた眼差しで私を見上げている気がしますよ?
そうです、私もこれでも長年IT営業を務めてきた男、いつも通り調べるのです。ネットの海に飛び込み、情報を得ましょう。
そう気が付いた時にはすでに腕時計の針は午前1時を過ぎておりました。
帰宅し、スーツも着たまま、コンビニ弁当の夕飯も玄関に置き去りに何をしているのでしょう、私は。
ああ、でも、藍緑色の瞳でじっと私を見つめる紗雪。このままにするなど言語道断。
大急ぎで身支度だけ済ませ、手早くPCを立ち上げ検索します。
「ふふふ、もう先ほどの私ではありませんよ!」
ウィッグスプレーについて、考えた方法は間違いではありませんでした。が、紗雪のことを想うと採りたくない手段であっただけ。ベストではありませんが、良い方法が見つかりました。ティッシュや布にスプレーを吹きかけ、成分をしみこませた物でぽんぽんと、優しくウィッグに溶液を移してあげるのです。ウィッグスプレーに含まれる成分の大半が損なわれますが、今は緊急措置ですので已むをえません。
あとは、ウィッグスプレーではなく、お水でも十分という意見も出ていましたね。そのためには空になったウィッグスプレーの容器か、メイクアップ用の筆等、水を含ませるものが必要。今はどちらもありません。
そして、ツーテールはバンスを取り、はじめと同じようにしっかりと指に巻き付けて梳いてあげるのです。
最後に問題の前髪ですが、まつげ用のブラシなるものが良いようです。39歳男の独り身では流石にありませんので、明日買ってくることにして、今日は指でそっと整えてあげるにとどめましょう。
「ああ、かわいい」
最近この言葉ばかりを発している気がします。語彙力の低下でしょうか、いけません。しかし、実際に可愛いので仕方がないのです。何度でも申しましょう、
「紗雪、貴女は本当に可愛い」
小首をかしげたようにちょこんと座る彼女が、そっと微笑み返してくれましたよ! ああ、なんと愛おしい。
こういうのを世間一般では”いちゃいちゃ”と称するのでしょうか。紗雪のあまりの可愛らしさに蕩けていましたら午前3時になっていました。
2時間眠って仕事に取り掛かるか、食事を諦めて3時間眠るか。良くある選択です。
スタンドから滑落しかけた問題も先ほど調べましたが、個人ディーラー様製作のドールスタンドでの代用、ひもで結ぶ、ドール用椅子に座らせる等、少々取りづらい解決策でした。今日は机に座っていただき、明日日中に怜奈さんへ、メッセージで相談させていただきましょう。
と、いけません、机の上は固いですよね。ベッドルームにも一緒に来てもらった紗雪、PC机の上にハンカチを折りたたみクッション代わりにさせていただきました。
「では、おやすみなさい、紗雪」
1食2食抜くのはいつもの事です。まどろみに落ちる寸前、そういえば写真を撮影し、TwikkerやSNSにアップする文化があると、怜奈さんがおっしゃっていた事を思い出しました。カメラを買いに行くお約束もしていましたね。この前の自分で撮った写真はひどい物でした。それでも、机の上にはこの写真が飾ってあります。怜奈さんが撮ってくださった1枚とともに。
“あちゃ~ナオさんあのままスタンドに立たせちゃいましたか。説明不足でしたね、ごめんなさい! 靴を履かせてあげて、摩擦を大きくしてあげると、転びにくいですよ”
“なるほど、確かに靴も選びましたね”
“歌姫ちゃんみたいなタイプの子だと、中でテンションをかけているゴムが緩かったりすると、関節とかが滑って、お辞儀して倒れたりみたいな事故もあるのですけれど。紗雪ちゃんタイプの子は関節つよつよなので、脚さえ滑らなければたいていは大丈夫です”
“ありがとうございます、早速今夜靴を履かせてあげてみますね”
ブーツタイプと、靴底の厚いロリータ靴なるものの2点を購入してあります。
今のお洋服には後者でしょうか。せっかくですのでお着換えもさせてあげたいのですが、時間的余裕がないと流石に辛いですね。
その日の夜、無事靴を履かせてあげたところ、確かにドールスタンドの台座の上で靴下が滑るような感触も無くなり、安定したように思えました。
お迎えを果たしてからもうすぐ1週間。
この数日ですっかり夕飯も外食を控え、少しでも紗雪といられる時間を増やすため、コンビニの出来合い弁当を買ってくるようになりました。
「貴女は食べることができないのに、なんだか見せつけるようで恐縮ですが」
初めの頃は、食事の場にいてもらうのもおかしいのではないかと遠慮していたのですが、今ではもう片時も別れていたくなくて、食卓の上でちょこんと座って、見つめられながら食事を戴くのが日課になってしまっています。
“そんなことよりも、オーナー、今日もそんな簡易ご飯なの? 体を壊してしまうわよ?”
心配そうにこちらを見ている紗雪から、そんな言葉が聞こえてきそうな気がします。が、
「そうは言っても、お外で食べると紗雪と一緒にいられませんからね……」
時間が大切なのです。紗雪と共にいる時間が。
もちろん汚れを飛ばすことなど無いよう、買うお弁当にも気を使います。汁物などは絶対にいけません。
「さて、明日は土曜日。今日はもう仕事に邪魔されることも無いでしょうから、ようやくお着換えができます」
紗雪のための祭壇、箱にシーツのままなのが情けないですが……へ連れ立って参ります。
モノトーンのゴシックドレスに、灰銀色の髪が映えるこの姿も大変愛らしかったですが、せっかくですので夜寝るときは寝間着に、朝起きてからドレスに着替えるといった、生活サイクルを紗雪にも楽しんでもらいたい。毎日ドレス姿のまま、眠る私を見守ってくれているこの子を見ていて、思うようになったのです。
「これはまた、こうして指を触れると薄いですね」
向こうが透けるようなネグリジェ。胸元をリボンで結わく、ともすれば無防備な作りになっている。が、胸元が透けて見えてしまわないよう、大きな襟がつけられている。さらには薄オレンジ色の生地にあわせた、可愛らしい上下お揃いの下着もセットになっている。
「まずは脱がせてあげないといけませんね」
ヘッドを外した方が着せ替えはたやすい、と怜奈さんに教わってはいますが、どうしても一度ヘッドが乗ると、生命を宿したように感じられ、抜き取るという行為に反発を覚えてしまいます。ドレスの構造上いかんともしがたい場合はやむを得ないと割り切れるかもしれませんが、着せてあげた時の記憶を思い返すに、このままの姿で大丈夫なはずです。
着つけた時の順序を逆にたどるように。
机の端に腰かける彼女の脚に、そっと指先を伸ばします。
スカートの裾をゆっくりとめくり上げ。ああ、白く薄いソックスの生地、むき出しの太ももを飾るガーターベルトのなんと煽情的な事か。そろり、そろりと、留め具を外し、クーラーで冷やされた脚のひんやりとした感触、締め付けるソックスをすーっと、滑らせるように引き下ろせば、たわみが襞となって、足先を飾ります。そっと背を支え、膝を伸ばし、くるぶしから足先をやんわりと手指の先で捧げ持つ。包み込んだつま先から、離れるのを厭うように、刹那の抵抗を残し。たった今まで、美しい人形少女の脚を包んでいた白く、肌色を透かしたソックスが私の手の中に。
たくし上げられたスカートの裾から、垂れ下がるガーターベルトのリボンが艶めかしく揺れ、まるで、早く、早く私を窮屈に隠す布地から解放してと誘うかのよう。
これ以上捲り上げれば下着が見えてしまう、のぞき込む私を、うっすら微笑を浮かべる紗雪の、藍緑色の瞳にとらえられてしまう。背徳感を抑え込み、手探りでスカートの中へ指先を伸ばす私。ここでしょうか、いえ、こちらのはずです。ひんやりとした小さな人形少女の腹部を下着を留めるホックを探し、指を這わせる。ひと際冷たく小さな感触。ぷつり、と金具が外れ紗雪の下半身を戒める布地が自由を得ます。
これは、これを、引き下ろしてしまってよいのでしょうか。手が逡巡に止まります。まるで”全て貴方に委ねます、オーナー”と、言わぬばかりに顎を引き見上げる彼女。ええ、正座で向かい合っていたはずの私は、気が付けば膝立ちになりまるで紗雪に覆いかぶさるかのような体制になっていました。そのため見下ろすような位置関係になった私を、必然、人形少女が上目遣いに見つめるような仕草となったのです。
たったそれだけの角度の違いが、こうも劇的な表情の差を生み出す、そして情景に合わせた心情をもって、私に語り掛けてくる。魔法にかけられたかのように、時が止まって感じられます。大きな全面ガラスの窓から差し込む夜の街の光が、鈍い輝きをもって、彼女の藍緑色の瞳に怪しげな灯りをともします。さらさら、さらさらと、空調に微かに揺らめく灰銀色の髪。吸い込まれるように顔を近寄せ、先ほどまで布に隠されたままの腹部を探っていた私の指が、気が付けば絹糸のような髪を一筋救い上げ弄んでいます。
うっすらと開いた唇の造形は、まるで私に口づけをせがむかのようで、ゴシックドレスの下、下着を外された彼女に魅了されるように。
「紗雪、良いのですか?」 “ええ、いらして、オーナー”
ああ、もう、年甲斐も無く、昂ぶりを抑えきれません。ただ一度も、ついぞ異性と触れ合う事のなかったこの唇。薄桃色の口を奪う勇気はありません、けれど敬愛を籠め、そっと彼女の額に、今にも口づけを落そうと。
ブブブブブ
「!?」
ブブブブブブブ
け、携帯電話、いえ、スマートフォン。ええ、スマートフォーンのバイブレーション、着信です。
まさか仕事のトラブル!? 半ば反射的に、習慣で手近に置いてあったそれを、即座にとり、通話に出ます。
「はい、……」
「ナオさん、私です怜奈です!」
名乗るよりも早く、機械のスピーカーを通してなお麗しい、女性の声がスマートフォンから流れ出でます。
今先ほどまでの昂ぶりが、未だ冷めやらず、高鳴る胸の鼓動を聞かれているのではないかと恐る恐る。
声にならない吐息とともに、低い囁き声で返してしまいました。
「っは……。これは、怜奈さん。いかがなさいました?」
「ひゅっ……ナオさん、こ、声の感じなんか、やば、渋……」
どうされたのでしょう、電話口の向こうで慌てふためくかのような、声がかすかに。
「んん」
可愛らしい咳払いの後
「夜遅くにごめんなさい。メッセージでもと思ったのですけれど、このお時間ならお電話、通じるかなって思って、それで私」
「ええ、大丈夫ですよ。遅い分にはと言うと、おかしな話ですが、私の方は夜は大丈夫です。ちょうど今も、紗雪の着替えをしようとしていたくらいですので」
「そうでしたか。よかったです。お仕事中に邪魔したらいけないなって。そ、それでですね。今日お電話したのは日曜日、空いていないかなって。ちょっと、い・い・こ・と、しに行きませんか♪ っていうお誘いです」
大変に、揶揄っていらっしゃるような声色が感じられますね。ですが、せっかくいただいたお誘い、そしてお電話、ここは乗って差し上げるべきでしょう。
「怜奈さんからのお誘い、これは思わず期待してしまいます、是非参りましょう」
「ひぇ!? あ、え、はい! 不束者ですが……」
「ごめんなさい、悪乗りが過ぎました。このようなおじさんを、あまり揶揄ってはいけませんよ? 魅力的な怜奈さんのお誘いとあってはタガが外れる方も、いるかもしれませんからね。以前お申し出くださったカメラの件でしょうか」
“ぶぅ、本気でいいのに……”
「それに関連して、です~。意地悪なナオさんには事前には教えてあげません! 何をするかは行ってみてのお楽しみですぅ。当日は紗雪ちゃんと、できればお着換えも持ってきてほしいのですけれど……そういえば、ドールバッグをまだ買っていませんでしたよね」
「そうですね、まだ早いかとあの日は私が、購入を見送ってしまいました」
「小型のスーツケースとかあります?」
「はい、出張用のものがありますよ」
「でしたら、安全のために、お嫌かもしれませんがヘッドは外して、カスタマーさんが送ってくださった箱にしまっていただいて。ボディはバスタオルとかでくるんで一緒にスーツケースの中に。お着換えも、ドレスの箱ごと入ると思うので」
「承知しました。安全第一ですからね。確かに一度、生命を宿したように感じている子のヘッドを外すというのは、少し感じるものはありますが、やむをえません。しかしその、お誘いいただき嬉しいのですが、ご学友との予定などは大丈夫ですか? ご無理をさせていませんでしょうか。あまりに私のために時間を使わせてしまっているのが気がかりで」
「全然、全然大丈夫です! そういうの一人もいませんし! ナオさんとお出かけできるならそれが一番。私も楽しいですから! むしろ私のためと思って」
ドール趣味は女性であっても、なかなか理解を得づらいは聞きます。そうは申しましても、休日を20も歳の離れたおじさんとというのは、多分に危惧するところではあるのですが。
「わかりました。お言葉に甘えるようで恐縮ですが。是非」
「場所なんですけれど、実は今回秋葉原じゃなくて、亀有でお願いします。日曜日午前7:30に駅改札前集合でもいいですか?」
おや、まだお店が開いていない時間帯、しかも別の場所なのですね。
「はい、承知しました。とても楽しみです」
「私もです♪ では、また明後日。おやすみなさい」
「おやすみなさい。良い夢を」
通話が切れるとともに、冷静さが戻っているのを感じます。先ほどの私は一体何をしていたのでしょうか。
熱に浮かされたように。いえ、しかしまだ全くお着換えは終わっていません。
続き、そうです、続きに挑まねば。
冷たいお茶を飲み、気を落ち着けます。
さあ、下着はそうですね、後にしましょう。ドレスです。ドレスからお脱がせしましょう。
逆順ですから、ええ、まずはパニエですね。これは簡単ですよ? ほら、ゴムで腰回りをぎゅっと締め付けていますのでそっと、腰の後ろに左手を回して、右手は肌とパニエのゴムの間に差し入れぐっと開きます。腰からお尻、太もも。なるほど、ドールの身体構造上両脚を横にそろえた状態では太ももの方が幅があるのですね。少し通りづらいですので、脚を斜めにそろえていただいて、と。続いてオーバースカートも同じように脱いでいただきました。
後は上身頃の後ろのホックを外し、腕を前にそろえていただいて、するり。
鎖骨から胸にかけてが外気にさらされます。かがみこんだ姿勢になった紗雪から非難がましい視線が送られているような感じが。ああ、見下ろすようになっているのでこう、上目遣いが激しく。ジトッと怒られているように感じてしまいます。何かまずいことをしてしまいましたでしょうか。ええ、現在進行形で、人形少女の柔肌を覗いていますね。急ぎましょう。
“オーナー、えっち……”
空耳です、そらみみ。
ついにドレスをお脱がせすることに成功しましたが、脱がせかけていたパンツが……微妙に引っかかってしまっています。意を決して、するりと、脚を通し、無心。無心ですよ? ついに生まれたままの姿で横たわる紗雪。
脱がせる最中に動かした肢体がそのままのため、少々バランス悪く、手足が不揃いな方向を向いてしまっています。これがまた、どことなく背徳的な、疲れたような雰囲気を醸し出しており、大変いたたまれません。うっすらと開いた唇から、吐息が漏れているように感じられます。
ひとまず自然体にポージングを直し、バスタオルで包み込むように体を隠します。
さあ、いよいよお寝間着です。これは、着せるのはきっと簡単でしょう。
まずはパンツを。
「お、おや?」
先ほどのドレスでは簡単に着せ替え出来たパンツが、引っかかります、通りません。脚を通す穴がぎりぎりなのです。あまり力づくにしては痛いでしょうし、布地を傷めるかもしれません。しかしホックなども無いようす。ゆっくり、そっと、太ももの表面を滑らせるように通していきます。バスタオルの上に横たわる紗雪が徐々に押され上へ、上へと逃げて行ってしまいます。
「やむをえませんね」
そっと彼女を膝の上に抱き上げ、背中をこちらに向けていただきます。足を前に伸ばし、膝の上で腰かけるように。こうすれば背中が私の下腹部に支えられ、しっかりと保持されるでしょう。
やりました、ついにパンツをはかせることに成功しましたよ!
ぐいぐいと、お尻が押し付けられ、なんだか変な気持ちになりましたが、とにかく成功です。
さあ、このままブラジャーをお付けしましょう。
繊細な肩ひもを腕に通し、肩の球体関節から内側へ。
背中のホックが、1つ、2つ。2つ留めるのですね? 縦に並んだ鉤ホックをひとつづつ留めていきます。
ホックの受け口が横に3列ありますがこれはお胸のサイズを変えても対応できるようにでしょう。
可愛らしい薄桃色の下着姿の、ツーテールの美少女が膝の上に腰かけています。
これは、そう、これは決してやましい気持ちではないのです。ただ、髪のさらさらとした感触が。緩い縦ロールになったツーテールが吸い込まれるような魅力を生み出していたのです。
撫でてしまいました。紗雪に気持ち悪がられるのではとずっと遠慮していましたが、ついに、髪を乱さぬようそっと、頭をゆっくりと撫でています。すべすべ、さらさら。なんと至福の指さわりなのでしょう。
後ろから抱きすくめるがごとき体制でお顔は見えませんが、ええ。控えめに申しまして最高です。
「気持ちいいですか?」
つい、問いかけてしまいます。なんと癒されるのでしょう。柔らかな髪に沿って、頭から首元までゆっくりと撫でる。ただ、それだけで時間が過ぎていきます。
夜の静寂に腕時計の秒針の音が、ちっちっちっ、響きます。
ソファーに背を預け、私の運命の人形少女を膝の上に抱き、ただ頭を撫でる。
それだけの時間が値千金にも思えます。
名残惜しく感じつつも、ずっと下着姿では風邪をひかせてしまいます。ネグリジェを着せて差し上げましょう。
膝の上、こちらへと向き直っていただきます。
目、目が合いましよ! 今目が”逢い”ました! なでなでを嫌がられてはいなかったようです。そっと上目遣いでこちらを見上げてくれている彼女の頬が心なしか赤らんで見えます。恥ずかしかったのでしょうか。
かわいいです、可愛いですね!
いえ、もしかして、下着姿を見られて恥ずかしかったのでしょうか!?
こ、これは飛んだ無礼を、急ぎます。いまお寝間着を着せますので。
腕を後ろにさしだしていただき、そっと両袖を通します。
髪の毛を巻き込んでしまう。長髪など自信でしたことがありませんでしたので盲点でした。
そっと後ろ髪を左手でかき上げ、そっと背に薄布を添わせる。
はらりと背に零れ落ちた髪が、指先に確かな存在の重みを感じさせる。
ああ、このまま胸にかき抱きたい気持ちを抑える苦痛たるや。
しかしいけません、同じ過ちを繰り返すわけにはいかないのです。
最後に、胸元でリボンを、蝶々結びに。
……。
何度もやり直しますが、何故でしょう、可愛く横向きに収まった蝶々結びを期待していますのに、縦にわっかが並んだ蝶々結びしかできません。
いつも何気なく購入する菓子折りや贈答品のリボン結びが、こんなにも難しいものであったとは。
またもネットの海のお世話になり、ようやく多少見られた形に落ち着く頃には、何十回結びなおしたかわからなくなっておりました。
「添い寝、したいですね」
その言葉は、口をついて、つい出てしまっておりました。
このままお休みできるよ、と、語り掛けてくるような紗雪の姿が目の前に、バスタオルの上で横たわっているのですよ?
誰が我慢できるのでしょうか。
いえ、しかし、同じ布団の中で眠っては、寝返りや、何かの拍子に傷つけてしまわない保証がありません。
なんともどかしい事なのでしょう。
しかし、寝室のベッドから見えるとはいえ、距離を隔てたPC机の上はあまりに遠い、味気ないです。
ベッドサイトテーブルから見守ってもらいましょうか。いえ、それでは一緒に眠ったとは言えません。
押し入れの奥を覗いてみると
「予備の枕がありましたね」
良いことを想いつきました。おもむろに、自分の枕を部屋の床側に寄せ、セミダブルサイズのベッド壁側に枕をおいてみます。
真ん中をぎゅっぎゅと、少し押して潰しまして。
「紗雪、ここに寝てみてもらえますか?」
お姫様抱っこのような姿で、両手を膝、背の後ろに回し恭しくお連れします。
美しい髪を敷きこまないように注意して、枕中央のくぼみにそっと横たえると。
「おお!」
完璧です、素晴らしい!ちょうど横になると目線からほんの少し高い位置から、見つめ返してくれているようではありませんか!
綺麗なハンカチをそっとかぶせてあげ、添い寝用簡易ドールベッドの完成です!
「これは、素晴らしい夢が見られますよ?」
かくて私はついに、紗雪との添い寝を実現したのでした。
“おやすみなさい、オーナー。良い夢を見てくださいね”
私には確かに彼女の声が聞こえていました。