第九話 正装のヒメと正装の王
アサキさんがいる。目の前で、不思議な表情をしている。
その姿を見た瞬間、先ほどまであった「見られたら恥ずかしい」という感情は吹き飛んでしまった。
「アサキさん、その、お姿……」
彼は、少し前までの旅人のような簡素な服ではなく、変わった狩衣の衣装を身にまとっていた。
それは、夢で見た“那由多様”と同じ。
長い漆黒の羽織に、青と黄の刺繍のされた着物。
後ろでくくられていた髪は下ろされ、整ったかんばせを際立たせるように背へ流れる。目元にはうっすらと化粧が施されていた。
「やっぱり見分け、つくのですね。あたしには、アオイさまなのかアサキさまなのかわかりませんわ」
「え……?」
ヒサナさんの声に、横を見る。視線を合わせてはくれないが、アオイさんは先程お会いした時と同じ服装で、ここにいるのに。
髪形は同じだが、さすがに並んでいれば見分けがつかないことはない。
「兄貴は、アンタと俺以外には見えないんだよ」
「え!?」
「俺たちは、体を分け合って生まれて来た双児なんだ。今は俺が体を使ってるから、そこにいる兄貴は命だけ。屋敷の中なら、声くらいなら他のヤツらにも聞こえるらしいけどな」
ヒサナさんが大きく、何度も頷いている。冗談を言われているのではないらしい。
驚くことばかりで、せっかく紅を引いてもらったのに、口を開きすぎて唇が渇いてしまいそう。
アオイさんはほんのり夕焼けのように微笑みながら、なぜか私にお礼を言った。
「身内以外と話ができて、嬉しかったよ。他人と目が合うのがこんなに怖いなんて、久々に思い知らされちゃったけど」
「滅多に部屋から出ないせいだろ。それより、なんで俺に正装をさせたんだ?てっきり何か、俺の知らない儀式でもあるのかと」
「そうだよ。大事な儀式だ。サヤヒメ、君はどっちの花嫁になりたい?」
アオイさんが、しっかりとした声音で問いかけた。
早口でも、躓くような話し方ではない。
苦手だと言っていた、目もしっかりと合わせている。
冗談ではないのだ、と、隣に並んだアサキさんも頷いた。
ヒサナさんが嘘を言うようなひとではないともう知ってはいるけれど、いざ「花嫁」と突きつけられると迷いが出た。
だって、選ぶなんて、拒否なんて、私にはできない。
誰からも求められることのなかった、私なのだから。
「誰の花嫁にもなりたくないなら、ここを出てもいい。もちろん、花嫁にならなくてもここにいてもいい。仕事と住むところくらいは、那由多の力で紹介できるよ」
「どうして、そんなに……」
「あのさ、アンタは自分が思ってるよりずっと特別で、大事にされるべきおヒメサマなんだよ。少なくとも、俺達にとっては」
「そう、だから、君はもう選んでいい。糸は全部アサが切ったから。君は自由だ」
特別。
自由。
心に縫い付けるように、その言葉を飲み込む。
けれど縫いとめるべき糸は、もうなかった。
かわりに飲み込んだ言葉がゆっくりと、自分の体に染み込んでいくのを感じる。
兄弟の声は、甘く、誘うような、本当なら聞いてはいけない甘美なものだけど。
私には欲が出てしまった。
全部、真矢にあげたっていい。自分にはなんの価値もないから。
そう思っていたこの体が、この命が、大切なもののように感じられる。
どく、と胸が脈打った。
鼓動を感じたのが久々のよう。
息を吸って、吐き出した。
もう水は出てこない。
「わ、私……ここにいたいです。皆さんと一緒にいたいです!」
これが、私の欲。
必要としてくれる、求めてくれるひとと、一緒にいたい。
「どっちかまだ選べないかー」
「ご、ごめんなさい!私、えっと、実は少しだけ気になっている方がいて……」
「ええっ!!」
アサキさんとアオイさんが、そろって驚いた声をあげた。二重になる声はとても似ていた。
婚姻を断れる立場ではないけれど、花嫁だとか、お二人のどちらかに嫁ぐとか、こんな気持ちのままでは失礼だ。
私は二人に向けてきちんと、ずっと気になっていた蜘蛛の子の話をした。とても早口になってしまったけれど、アオイさんは笑顔で聞いてくれた。
アサキさんは……
「あの、どうしてお顔が赤いのですか?」
「なんでもないよ。弟は初恋に夢見てるタイプだからさ」
「たいぷ……?」
「あのね、それ、アサだよ」
「?」
その蜘蛛の子はアサキだよ、と、アオイさんは二度、かみ砕くようにゆっくりと伝えた。
「え、っ、あ、あの……!?」
今度は私の頬が赤くなる番だった。
まったくそう思わなかったから、本人を目の前に、優しい瞳だったとか成長したら素敵な殿方になっているだろうとか、恥ずかしいことを言ってしまった。
「兄貴はもう黙っててくれ。なんでこんな時だけよくしゃべるんだよ。もういい。さっさと儀式をすればいいんだろ」
「そういうことだね」
アサキさんが手のひらを向けて、指先を私に向けて差し出した。つられて、私もそれに乗せるように差し出す。
あたたかい手だ。触れていると、驚きにざわついていた胸の奥が、なぜだか落ち着いてくる。
「まだ選ばなくていい。ただ、俺は、俺を選んでほしいと思ってる」
そっと左手の薬指に彼がその薄い唇を寄せると、一瞬だけ光って何かが巻き付いた。
赤い痣になっていたそこには、見れば黒い輪が嵌っている。
まるで、指環のよう。
「アサキさん……これは……」
「沙矢、俺は、那由多朝黄だ。アサキと、名を呼んでくれ」
「私の、名前……」
“アンタ”ではなく、名を呼ばれた。
日葦でもなく、日女でもなく、私を呼ぶ声。
優しく、甘く、頭の上から痺れていく。
「いいの、でしょうか……」
「いい。っていうか、はやく、呼んでほしい。沙矢のその声で。俺は、それが欲しいんだ」
「……アサキ」
室内だというのに、大きく風が吹いて窓が音を立てて開いた。
さらに入ってきた風が、若葉の匂いとともに私の髪を薙ぐ。
青黒かった髪は、日の光を浴びて快晴の空のような色に変わっていた。
アサキの指が、全部が飛ばないように押さえてくれる。大きいのに、怖くない。
私の頬へ添えられた左手には、揃いの指環が輝っていた。
「沙矢、俺はこの髪、好きだ」
誰かに選ばれるということが、名を呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、なのに涙が溢れてきて。私は彼の優しい手に縋りついて、大声でただ泣き続けた。
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次話はまとめ(後日談)と、異母妹達のその後を更新予定です。