第六話 飾られるヒメと飾る少女
アオイさんに連れられて中庭を出る(勘違いのないよう言いますと、この間アオイさんは一指たりとも私には触れませんでした。)と、女中らしき皆さんがずらりと廊下に並んでいて、その端にアサキさんがいた。
少し不機嫌そうに、形のよい眉が顰められている。
「あ、あの、アサキさ」
「兄貴……どういうつもりだよ」
「アサ、この子はまだまだ、那由多のヒメになるには不十分だ。見出した君には悪いけど、僕が徹底的にわからせてあげるよ」
「まさか、あれをやる気か?兄貴はやられた時、すぐに音をあげて泣き喚いたくせに」
「ももももー!そういうこと言うのなし!アサだって昔は嫌がって……」
ご兄弟がわあわあと言い合いをしているのを、並んだ皆さんはにこにこと微笑んで流している。
私も倣った方が良いのでしょうか。
その中から一人、真っ赤な髪の女性……少女と言った方が良い年齢かもしれない、小柄な少女が列から離れて近づいてきた。
「ではサヤヒメさま、行きましょうか!」
「はい!……ど、どちらへ?」
「準備はできておりますわ!!」
細い腕のどこにこんな力があるのか、少女は私の手を掴み力強く床を踏みならして、湯殿へ案内してくれた。
檜の香りの広がる大きな浴槽に、湯がたっぷりと溜められている。
その光景に驚き立ち尽くしていると、あれよあれよという間に流れるように服を脱がされ、湯に入れられ、髪も体も綺麗に洗われた。
川に落ちた私は相当汚れていたのだろう。複数人でこすられた。
それが終わると丁寧に体を拭かれ、拒否する間もなく絹の衣を着せられてしまう。
指通すのははじめてだが、わかる。これは、絹織物だ。
一度、真矢が祝辞の際に着せられているのを見たことがある。
こんなにも指通り、肌触りが良いものだったなんて。
少し動いただけで破けてしまいそう。
「あの、私はなぜこんな……?」
「次は髪を結わせていただきますねー」
「ひえぇ!?」
湯上りの肌に、なんだかわからない油のようなものを塗り込められ、ガサガサとしていた指先がすべて一枚皮を剥いたように綺麗になってしまった。
髪も、櫛を入れられるたびに椿の花のいいにおいがする。
たしかにこれは、アサキさんたち殿方には苦痛かもしれない。
女中のみなさんに丁寧に、私よりも白く淡い手で触れられて撫でられて、むずがゆくて仕方がない。
「できました!おきれいですわ!」
「へ……」
髪結いをしてくれた少女から「お綺麗ですよ」、と再度言われて見た姿見の中には、たしかに美しい娘がいた。
長い髪は一本一本すべてが艶々と流れ、淡い色の肌を彩る。化粧を施してもらったせいだろう、肌はなめらかで乾燥しきっていた唇も頬も、華やぐ色を取り戻していた。
こんなに、大切な女の子のように扱われたのは、生まれて初めてだ。
「あの、お……」
「はあい?」
「お名前を、教えてください!」
鏡越しではなく、振り返ってそういうと、少女は笑った。そばかすのある頬に、えくぼができる。
「何を言われるのかと思ったら、変なかた!あたしは緋真と申しますよお」
「ありがとうございます、ヒサナさん。どうしてこんなに良くしてくださるんですか?」
「お礼を言われたのなんてはじめてですわ。アオイさまもアサキさまも、終わると恨みがましい目で見るだけですのよ?こっちだってお仕事でしているだけで、なにもいじめたりなどしていませんのに!」
「お仕事でも、私は嬉しいです。私はこんなにしていただいたの、はじめてだったので……」
私はおかしなことばかり言っているのだろう。ヒサナさんは「あらあら」「ふうん」と呟き、私をまじまじと観察する。
視線に耐えられなくなって、絹の袖をそっと持ち上げてみる。丁寧にしないと壊れてしまいそう。
「磨きがいのあるお嫁さまでよかったですわ。やってもらって当たり前っておヒメサマだったらどうしようかと。やはり、あのお二人が選ぶだけありますわね!」
「選ぶ……?すみません、私、実は流されるままに来てしまって、自分が何をするためにここへ来たのか、わかっていないんです……」
「ああ、あのお二人は、説明が下手ですからね。サヤヒメさまは、那由多の花嫁さまになるために連れて来られたんですよ」
「えっは、花嫁!?」
そういえば、アオイさんもずっと「嫁」とか「那由多のヒメ」と言っていた。
なにかの比喩かと思っていた。
「そう!どちらにするか、もう決まってるんです?当主候補だしアオイさまのお嫁さま?それとも仲が良さそうにしてらしたし、アサキさま?」
「わ…………、わかりません……」
鏡の自分から、目を反らす。
嫁になれと言われるのなら、断る権利はない。今までだって、そうしてきた。
女児が生まれたら皇家の男児と結婚する、と決められていたから、私は宗家の長女として皇子と婚約をしていた。そこに私の意志はない。
父がやれというから妹の世話を、祖父が人前に出るなというから、土蔵で暮らした。祖母に髪を隠せと言われたから、布をかぶった。
けれど、今はそれが完璧に正いことだったとは、思えない。
人の言う通りにすることが、言われたとおりに動くことだけが、正しかったのか。動いた結果、父や祖父は喜んでくれたのか。
言われるがまま“那由多様”と結婚すれば、あの二人は喜んでくれるのか。
「ああでも、ここは比良坂ですから、花嫁になりたくなかったら、拒否しても大丈夫ですわよ?お二人はまあまあ美形ですけど、女たちにも好みってものがありますものねえ」
「拒、否……」
したことが、ない。
私が悩んでいると察したヒサナさんは、私の肩にやさしく手を添えた。
とんとん、と赤子の背ををあやすように。
「ここは自由です。来るものは拒まず、去る者は追わず。豊原を追われた人がなんとなく集まっただけの集落で、那由多様のご先祖様が、なんとなくまとめただけの寄せ集めですから」
泳ぐのに疲れたらお休みができる、河原みたいなものです、と彼女は続けた。
比良坂は神代の時代、神々の住む天を追われた土蜘蛛の一族が流れ着いた場所と言われているのだそう。
土蜘蛛一族の名は那由多。
那由多は冥府へと続く黄泉平坂の番人をしていた。それがこの土地の由来だ。
ここはそれ以来、豊原の住人からは「冥府」や「黄泉口」とも言われ、来てはならない忌むべき場所とされている。
一方で豊原を追われた者たちにとっては、ここは唯一の安住の地となった。
土地を統べる那由多を「王」と崇め、敬い慕う。
那由多は、現世にいながら冥府を統べる王となった。
川岸にあるのに「坂」というのはおかしな名前だと思ったが、そうだったのか。私はそんな場所があることも、神代の話もまったく知らなかった。
「知らなくて当然ですよ。神々が仲間を追い出したなんて、カミサマを信奉するヒトには聞かせられませんもの。豊原では禁忌です。この話は、比良坂にしか伝わってないんです」
「そうなのですか……」
「サヤさまはやっぱりこんな薄暗いとこ、出て行きたいです?」
そんなことない。ここの人々は、皆、信じられないくらい優しい。
首を大きく横に振って答えた。
「アサキさんもアオイさんもお優しい方です。こんな、汚くてみずぼらしかった私をお屋敷へ上げて、見れる程度にしてくださって。ああ、もちろんヒサナさんにも。きちんとお礼をするまでは、出るわけにはいきません」
「義理堅い方ですのねえ」
「いえ、きっと、意地のようなものです」
以前は、豊原にいた時はこんな風に意地を通したくなることはなかった。
あの時水の中で助けられてから、ずっと心にかかっていた黒い霧がなくなったのだ。
父に殴られ怒鳴られたときにかかる、どす黒い色のもや。
生まれてはじめて晴れ渡った頭の中で、ここをまだ出てはいけないと、意地を張る自分が大声で叫んでいるのだ。