第五話 走るヒメと引き止める男
桟橋で幼い少年に「髪がきれい」だとお世辞を言われ、気を遣ったアサキさんにもそう言わせて。
なんと恥知らずなことをしてしまったのだろう。
好かれるはずないのに。
誰かに、求められることなど、ありえないのに。
ひどい格好のまま参上して妄想の話などして、困らせてしまった。
行くところもないけれど、走って走って、屋敷を出ようともがいて。
いくつも知らない角を曲がったせいだろう、完全に迷ってしまった。
「ああ、私って、本当に何もできないのね……!」
叫んだ場所は、中庭らしき開けた庭園だった。
屋敷を外から見た時は洞窟の中にそのほとんどを埋めているように見えたが、洞窟内にも空の見える場所があったのか。
それとも走りすぎて洞窟の反対側に出てしまったのか。
ここは水上ではなく、空と地のある場所だった。
丁寧に作られた囲いの中には、いくつも花の苗が植えられている。けれど、せっかくの庭なのに薄暗く、どれも花が開く状態ではない。
作られたばかりの庭園なのだろうか。
「あ、あー……あの」
「はい!?」
後ろから声をかけられ、振り向くとそこには那由多様がいた。
長い漆黒の外套を、なぜか頭から被っている。
おどおどと目線を泳がせ、怯えたように肩をすくませてはいるが、逃げた私をここまで追いかけ、話をしようとしてくれているのがわかった。
ただただ申し訳ない。
「那由多様!先ほどは大変失礼を……!」
「さ、サヤヒメ!さっきはごめんね……!!」
「え?」
「え??」
二人同時に、しかも裏返った声で謝罪をしてしまい、互いに顔を見合わた。
那由多様の薄い唇が、ふ、と動く。
喉の奥で押し殺すような笑い方は、さすがご兄弟だけあって、アサキさんと似ていた。
「いいえ……。那由多様、お話しをしても大丈夫なのですか?」
「うん。さっきはさ、僕の城とも言える部屋に勝手に入られて怒っちゃっただけで。ごめんね、君はまったく悪くないよ。女の子は苦手だって言ってあるのにアサは……弟はいつも人の話を聞かないんだよ。あのお札だって意味があって貼ってるのに、勝手に剥がしちゃうし」
「お札は私も剥がしてしまいました……あの、お礼と謝罪をあらためて……」
那由多様はとても早口だった。
庭園の中央にあった腰掛けに座るよう促されたので座ると、那由多様はその一番離れた端に申し訳程度に腰をつける。
肌はおろか、互いの着物の布の先すら触れぬ両端に腰かけた状態だ。
「あ、あとね、那由多は家の名前だし、僕はまだ正式に継いでないから、青宵でいいよ」
「アオイ様」
そういうと、「様はなしでいいよ」と笑った。つられて笑ってしまう。
最初の印象より、ずっと話しやすい方だ。
はじめはあんなに怯えていたのに、話すうちにもう心を許してしまったのか、笑顔は子供のよう。
とても素直な方なのかもしれない。
けれどやはり、彼はあの水底で見た“那由多様”ではない。
「アサキさんと同じことをおっしゃってます。さすがは、ご兄弟ですね」
明るいところでよく見れば、アオイさんはアサキさんと瓜二つだった。
アサキさんは狩人風の格好で、髪も乱雑に括っているだけだったから、普通の兄弟といった程度かと思った。
しかし濡れ羽色の髪をきちんと梳かして、兄と同じように目元を伏せていれば、ほとんど同じだ。
同じ整った頬を、アオイさんは長い髪を垂らしてわざと隠しているように見える。
「ああ、アサと僕は双児だから……怖い?」
「?いいえ?ご兄弟似ていて、うらやましいです」
「こ、こわく、ない……?」
「はい」
「そっか。あ……でも、僕と弟は見た目だけは同じだけど、僕はアサと同じようにできることは、一個もないから。アサはなんでもできるんだ。他人とだって普通に話せる。キミを娶って家を継ぐのだって、不完全な兄じゃなく、アサがするべきなのにさ……」
最後の方は消え入るようで、すべては聞こえなかった。
不安そうに足元を見つめながら、アオイさんは続ける。
「アサはね、僕が屋敷から出られないから、ああやって出かけては外の様子を教えてくれるんだ。あんなものが面白い、こんなものを見つけた、って。君を見つけてきたのもアサなんだよ。なのに、自分じゃなくて僕のお嫁さんにするとか言ってきて……」
「そうだったのですね、すみません。でもご安心ください。きちんとお礼ができましたら、私はここを去りますから」
「ええ!!!!???」
ガタン、と音を立てて腰掛けが揺れる。
見れば驚愕、といったお顔でアオイさんが私を見下ろしていた。アサキさんもだが、二人ともとても背が高い。
「だだだだだめだよ、なんで出てくの!?今の話の流れで普通出てくってなる!??」
「そうですね、すみません、失礼でした……。お金は、なんとか仕事を見つけて、何年かかっても謝礼をきちんと……」
「うわ、そういう思考回路?これだから虐待されてたおヒメサマは……」
「?ぎゃくたい、とは、なんでしょうか……」
「いいやもう。わかった。弟もだけど、弟が選んだ君もなかなかだね。自分に自信がないと言うか、自己肯定感が低い」
アオイさんはさすが、当主候補として教養があるのだろう。私のような名ばかりの長子とは違う。
使われる言葉が、時々わからない。
「来て。君はもう少し、自信をつけないと。那由多のヒメにふさわしくないからね」
その目は、はじめて見る星のように光っていた。