第三話 青のヒメと糸切の男
「おー、目が覚めたか!アンタ、大丈夫か?」
「……う、ぶ?」
まだ人の言葉が喋れず、口の端から水が零れてしまう。
慌てて拭いながら振り返ると、そこには狩人風の青年が、大岩に片足をかけてこちらを見下ろしていた。
その手には、珍しい黒色の曲刀が握られている。
「あ、あの……もしかして、あなた様が私を助けてくださったのですか?」
「ん?縄と糸を切ったのは俺だけど、助けたのは俺の兄貴だ。気がついたなら、兄貴のところへ行くか」
「えっ?行くって……」
「兄貴はさ、アンタのことを待って待って待ちすぎて、今寝込んじまってんだよ。アホだよな。だから俺が迎えにきたの」
「そ、それは……お気の毒です」
この方の兄上様は、なんとも繊細な方らしい。
青年は音もなく岩から飛び降りると、私の膝裏と背に手を回して軽々と持ち上げた。なんと身軽な人なのだろう。
「じゃなくて、わー!あ、ああああの!」
「ん?どうした?」
「ぬ、濡れてしまいます、から!」
箱入り娘の自覚はあったが、家の敷居を出たとたんに、こんなにも初めてのことばかり経験することになるとは。
青年は見た目よりも力があるらしく、細身だと思ったのにその腕の力だけで私を抱き上げている。
しかもそのまま、何の苦もなさそうに歩き出した。
不安定な岩肌を避け、ひょいひょいと踊るように。
「なに言ってんだよ。アンタを川から引き揚げた時に、俺だってびしょ濡れだ。今さら気にすることじゃねえだろ」
「そ、そうだったのですね、お礼が遅れてしまいすみませんでした!ありがとうございます!!」
「声でかいな」
出来る限りの声を張りあげお礼を言うと、青年は喉の奥を慣らして笑った。
子どものように持ち運ばれていることへの恥ずかしさにお顔は見れないけれど、思ったよりも、歳は離れていないのかもしれない。
恥ずかしいのに降ろしてもらえぬまま、彼が乗って来たという船に乗せられ、私は下流へ運ばれてしまった。
周りの景色は、もう、崖から見た山も屋敷の影もない。
水の中で寝ているうちに、ずいぶんと流されてしまったのだろう。
水底であのかたに告げたように、もうあの家へ、戻るつもりはないのだれど。
* * *
運ばれた下流の末にはなんと、大きな池の上に建物がいくつも建つ不思議な集落があった。
こんな様式の建物ははじめて見る。日葦の屋敷もその周りの集落も、水に流されぬよう地に根を張るように建てるのが普通だった。
均等に並ぶ足の長い建物は、水と共にあるよう建てられているように感じる。
「ここは……?」
「ここは比良坂。豊原を追われた者がここでまとまって生活してる。豊原のヤツらは、俺らのことを土蜘蛛と言うらしいな」
驚く私に、船を停めながらアサキさんが答えてくれた。
私は船の上であらためてお礼を言い、そして互いに名乗りあった。そうしている間に夜が明けた。
彼はアサキさん。兄上様の命で私をここまで運んでくれたのだと言う。
はじめ「アサキ様」とお呼びしたら「呼び捨てにしろ」と言われて困ってしまった。
殿方の名を呼んだのだって、初めてなのに。
私を助けるようにアサキさんに命じたと言う兄上様については、あまり具体的なことを聞けなかった。
ともかく助けてくださったのは事実なので、私は、兄上様に誠心誠意お礼を言わなければという使命感でいっぱいになった。
お会いしたらできるだけ声を張り上げて、丁寧にお礼を言おう。
精一杯できるお礼をして、お金はないけれど働いて恩を返そう。
世間を知らない私がどれだけ役立てるかわからないが、せっかく救っていただいた命なのだから。
もうなにも成せないまま、薄暗い土蔵で日が過ぎるのを待つなんて、してはいけない。そんな気がする。
「まあ、その方が那由多様のお嫁様?」
「すごーい、きれいな髪!おひめさまみたい!」
桟橋を連れられ歩いていると、幼い少年とそのちいさな手を引く女性が近づいてきた。ぐずる下の子のために散歩にでも出たのか、母らしき女性は絶えず背におぶった赤子を揺らしている。
少年は私の腰にも満たない背で、きらきらとした瞳を向けて見上げてきた。
思わず、私も隣にいたアサキさんを見上げる。
彼は、黒々とした艶のある髪を後ろで一つに結わえていた。
男性にしては柔らかそうで「綺麗」と称せるかもしれない。男性の髪も純粋に褒められるなんて、素敵な少年だ。
「いや、俺じゃねえよ。アンタの髪を褒めてるんだよ」
「え!?」
「おねえちゃん、どこから来たの?みやこのおひめさま?」
「わ、私ですか!?」
振り返っても周りを見ても、彼の母の他には女性はいない。少年はまっすぐに、私に話しかけている。
私の、青黒い髪を綺麗だと。
言ってくれる人なんて、いなかった。
「本当、ですか……?」
「?俺も綺麗だと思うぞ?比良坂では髪色なんてバラバラだから誰も気にしねえけどな。ただ、川の上に住んでるから、水は大切にする。水を連想させる青色は、皆好きだ」
「すき……この、髪が……?」
「ぼく、青色すきだよ!」
見上げる笑顔に、嘘はない。
風が吹いて、乾きかけていた髪が靡いた。
皆を怖がらせてしまうから、なるべく人前に出ないようにしていた。出るときは布を巻いて隠していた、髪。
「気持ち悪い髪だ」と「呪われるから近寄るな」と。
はじめて、生まれてはじめて祝福された気がして、涙があふれた。
「わっなんで泣くんだよ!?川に落とされてもぼやっとしてたくせに!」
「ご、ごめんなさい……っ」
「ほら、泣くなって。俺も好きだぞ、その髪」
「う、うわあああん~~」
宥めるためだろう、アサキさんの手がバサバサと散る私の髪を撫でた。
経験したことのない、父のようにやさしい手。
私にはいない、兄のようにやさしい声。
あたたかな手のひらの温度。
少年の母が、慌てて涙を拭うよう手ぬぐいを出してくれる。
申し訳なくて受け取れず、私は声をあげて泣き続けた。
こんなに人目を気にせず泣いたのも、生まれてはじめてだったと思う。