第二話 水の乙女と冥府の鬼
「ねえさまは呪われているんだもの、皇子様とのご婚約は私に譲るべきよ」
「また雨だわ。縁起が悪い。沙矢様のお生まれ日が近づくと毎年こう。本当に呪われているのね」
「いいかい沙矢、皇家との婚約はお前が宗家長女だから、それだけの理由で生まれた時に決めたものだ。宗家の長女は、今日から真矢になる。お前は不幸にも川に落ちて死んだこととする。お前には水の加護があるから、きっと苦しまずに、水神様が冥府へいざなってくれるよ」
おばあさまの嘘つき。
水の中は、とても苦しいわ。
手足や首に、いくつもの糸がぎゅうぎゅうに絡みつくようで苦しくて、痛い。
食い込む糸を取ろうと暴れようにも、手首は本物の縄で縛られているので何もできない。
私は何もできないまま、呪いにまみれたまま、死ぬのだ。
「そんなの……そんなのってあんまりよ!」
ががぼ、と不思議な声が口から空気とともに出た。
音にはならない叫びを、不自由な手足をもがかせながら水の奥へ向ける。
今までずっと我慢してきた。
妹のことは純粋にかわいかったから、父に殴られても祖父になじられても、あの子が幸せになるためならと耐えてきた。
一族の繁栄のために、できることをした。
呪われていると指さされても、それでも父や祖母のいうことを聞いていれば、いつかは一族の皆からも認めてもらえると思っていた。
なのに、あんまりだ。
絡みつく糸を引きちぎるように、腕を思いっきり振り上げた。
縄が、解ける。
* * *
水の底は暗かった。
周囲は漆黒に塗りつぶされ、その人はただ闇に浮かんでいるようだった。
私はそっと、実体なのかを確かめるようにその人の肩口へ触れた。
「わ、本物!?……し、失礼いたしました!」
実体だ。そこに、ちゃんといる。
私は死んだのだろうか。だとしたら私が触れられるこの人も、死者か冥府の住人か。
それでも、他人に殴られ蹴られる以外で触れることができたのは久しぶりで、溺れていたさっきよりも鼻の奥が痛くなる。
ああ、やっぱり死んだのだ。
だって、川に落ちたのに体も着物も濡れていない。私は幽体なのだ。常世へ来てしまったのだ。
「乙女」
「え?わ、私のことでしょうか……」
私のような陰気な女に話しかける殿方はいないとは思うが、あたりを見渡しても漆黒が広がるだけで、この場には私達二人しか人影はない。
「ずっと待っていたよ。さあ、私と契りを結ぼう」
艶やかな、濡れ羽色の髪。あげられた顔に、驚いた。
薄暗く視界が悪くても、水の底でも、整っていることがわかる。
私はこの世で、これほど美しい男性を見たことがない。
美丈夫だと言われていた皇子を、妹の婚礼衣装を盗み見るついでに格子の隙間から見たが、これほど整ったかんばせではなかった。
薄い唇から紡がれる言葉は、頭に染み込むような甘さを含んでいる。
きっとこの人は冥府の遣いの方なのだろう。
だって只人が、これほどまでに蠱惑的であるはずがない。
顔を上げた長めの前髪から覗いた瞳は、やはり真紅かった。
「ありがとうございます。ご案内いただけるのですね。どうぞよろしくお願いします」
青年へ頭をさげ、案内へのお礼をする。冥府の地へ来てなお、案内をしてくれる遣いの方がいてくれたのは、ありがたいことだ。
なにしろ私は世間知らずで、父からはいつも頭の出来を嘆かれていた。
そう言ってから顔をあげると、彼はなぜだか驚いた表情で私を見ていた。
目を見開くと少しだけ、その整った顔が幼くなる。
「いいのかい?もう、現世へは戻れないよ?」
「?ええ……かまいません。私、あそこを追い出されてしまったのです。戻れるところなど、ありませんから」
「……ごめんね、辛い思いをさせたんだね」
なぜ、このかたが謝るのだろう。
彼は棒立ちになっていた私の左手を取ると、薬指にそっと、口づけた。
そういえば、父や祖父以外の殿方に触れられたのは、初めてだ。
もちろん、唇が肌に触れたのだって。
「あ、ああああの……っ」
死者というものは体が冷たくなるのではなかったのだろうか。
頬が、どんどん熱くなる。
彼の後頭部を見ながら、心臓がおかしな音を上げていった。
「乙女、名を教えてくれるかい」
「日……いいえ、姓はありません。……沙矢、です」
「沙矢。私の名は、那由多だ。会いに来て。待っているから」
真摯な声に頷くと、口づけられた指の根が熱くなった。
そして、夜が明ける。
* * *
「げほっ、ごぼっ!……っ、ごほっ!」
気がつくと、大きな岩の転がる川原にびしょ濡れで打ち上げられていた。
口から耳から鼻から、全身から、びっくりする量の水が出ていく。
やはり、私に水の加護なんてないのだろう。こんなに痛くて苦しいのだから。
ただの、加護なしのヒメだ。
苦しさと痛みに喘ぎつつ、なんとか呼吸を整える。
夜明け前に見たあの青年は、冥府への案内人ではなかったのか。
私は冥府へいざなわれることなく、生き延びてしまった。
死に損なったと聞いたら、厳格な父は「こんなつとめも果たせないのか」と、がっかりするだろう。
そう思ったが、以前よりも悲しい気持ちにはならなかった。
父の期待通りにできなかったのに。
言いつけを守れなかったのに。
心に絡みついていたなにかが解かれたように、とてもすっきりしている。心の中だけが快晴になったよう。
ふと、岩肌についた左手を見ると、そこだけまだ熱く、熱が籠っているように感じた。
薬指についていた蜘蛛の傷痕に巻き付くように、草縄のような模様が赤く浮かんでいた。