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赤い薔薇が滴り落ちる

作者: 路明(ロア)

 門の向こうには、三人の人物がいた。

 ずんぐりとした体型の初老の男性、その両脇に若い女性。

 いずれも白い衣服を身に着けていた。

 三人は横一列に並び、揃ってこちらを見たかと思うと一礼する。

 赤い薔薇の花びらが、吹き抜けた風に乗って白い空の向こうに消える。

 そよそよと吹く風は柔らかく暖かかったが、春霞のようなものが掛かって三人の顔をぼやけさせていた。

 いずれも顔立ちまでははっきりとは分からない。

 蝶子は門扉を閉めた。

 ガコン、と重厚な鉄の音が響く。

 植物を模した西洋風のレリーフで飾った壁が視線を数センチの所で遮った。

「お食事を」

 背後から高齢の執事が声を掛ける。

「それと食塩水を」

 静かな声で執事はそうと付け加えた。

 蝶子は頷いて応じる。

 着ている薄地の服の(すそ)を軽く抑え、ハーフアップに結い上げた髪の解れを少し気にする。

 執事に連れられ部屋に入ると、猫足の白い椅子に座った。

 椅子と揃えのテーブルに静かに置かれたのは、常温のスープだ。

 何が溶かされているのか容易には分からない、薄橙色のドロッとした代物だ。

 口に含むと、いつも体液に似た匂いがした。

 不思議と不快感はない。

 微かにビスケットとミルクのような匂いも感じる気がするが、甘さは無い。

「食塩水を」

 執事が透明な液体の入ったビニール袋を置いた。

 袋に小さなノズルが付いていて、そこから口に一滴ずつ落とすように飲む。

 部屋やテーブルの華美な雰囲気に全く似つかわしくない食事だった。これがいつもの食事だ。

 執事は、数年前に亡くなった祖父によく似ている。

 あまり会う機会は無かったが、嫌いではなかった。

 テーブルの真ん中には一輪挿しの真っ赤な薔薇が飾られている。

 食事の際にテーブルに飾られる花は束であることが多く、いつもは柔らかなパステルカラーのアレンジなので、気に留めないことが多かった。

 一輪挿しは珍しい。

「今は薔薇の季節なの?」

 蝶子はそう問いかけた。殆ど喋らず表情も付けない蝶子が珍しく質問したせいか、執事は僅かに目を見開く。

「外に出れば分かります」

 執事は一輪挿しの薔薇の角度を直しながら言った。真っ赤な薔薇の花がこちらを向く。何か血液に似ていると蝶子は思った。




 次の食事の時間の前には、門扉の外に灰色の服を着た男と黒っぽい服を着た男がいた。

 男達は口からそれぞれに薔薇の花を出した。

 その薔薇を蝶子の方に差し出したが、蝶子は受け取らず門扉を閉める。

 特に何かしらの判断があった訳ではなかった。

 自分でもよく分からないのだが、無視して閉めるのが当然のような気がした。

 執事に連れられ部屋へと入り、猫足のテーブルに着く。 

 今日も執事は一輪挿しの薔薇を飾った。

「薔薇、赤いのね」

 何気なく蝶子はそう呟いた。

 相も変わらず同じものばかり出される食事に、不満も何の感情もない。

 ただ口に流し込むのみだ。疑問はない。

 執事が無言でテレビを点ける。

 普段あまりテレビは見ないのだが、ここにいると食事以外にすることがない。

 猫足の白い椅子に座ったまま、蝶子はじっとテレビの画面を見た。

 何かの事件の報道をしているらしかった。ちょうど一年前の事件だと女性リポーターが強調している。

 犯人はまだ捕まっていない。

 画面を凝視するうち、蝶子は目眩を感じた。

 一輪挿しの薔薇の香りがやけに強く感じる。

 香水にでも浸けていたのかと思うほどだ。

 こんなに匂いの強い花を、食事をするテーブルに飾るものなのか。

「この薔薇、下げてくれる?」

 蝶子はそう言った。

 執事が恭しく一礼する。

「残念ながら、この薔薇は下げられないようになっておりまして」

 「なぜ」と蝶子は問いかけようとしたが、なぜか意識がふっと途切れて問う気力が失くなった。

「じゃあ……外の空気が吸いたいわ」

 軽く目眩を感じ、目頭を押さえる。

「それは、外に出ないと」

 執事はゆっくりと扉を開け、外へと促すような仕草をした。




 庭に出る。

 裸足で歩くと、芝生のチクチクした感触が気持ちいい。

 門扉はまた開いていた。門の向こう側ではまた薔薇の花びらが斜めに吹き抜けている。

 真っ赤な薔薇の花びらが舞う様は、まるで飛び散る血液に見える。

 門の両端に寄りかかるようにして群生している薔薇が、一斉に真っ赤な花を咲かせていた。

 強い風が吹き蝶子は長い髪を押さえた。

 足元がふらついて、その場に座り込む。

 まるで長い間歩くことがなかったかのようだ。

 ずっと寝込んでいたか、座りっ放しで生活していたかのように筋力が弱って頼りない。

 いつからこんなだったかしら。そう考えてみるが、はっきりと思い出せない。

 開いた門の向こうに、人影が見える。

 若い男性のようだ。

 赤い大きな薔薇が顔を隠しているので、人相は分からない。

 ちょうどマグリットの絵画にある、鳩で顔が隠れた紳士の絵のようだった。

 誰だったか。

 親しい人だった気がする。

 どんな人だったのか。

 思い出そうとしたが、頭の中で何かが必死で止めているような気がする。

 男性はこちらに近付いて来た。

 薔薇の顔をした男性と真っ直ぐ相対する。

 群生している薔薇が突風に煽られて一斉に一方向に揺れた。

 赤い花びらがぼとぼとと落ち、地面に滴ってバラバラに飛び散る。

 体が震えた。

 横腹に激痛が走り、蝶子は両手で腹部を押さえ屈み込んだ。

 血の気が引く。

 目が回って、脳の動きが鈍る。

 どうしていいのか分からない。

「こちらへ!」

 執事が引きずるようにして部屋に引き戻す。

 猫足のテーブルに座り、蝶子は自分を抱くようにしてガチガチと震えた。

 執事が食塩水をテーブルに置く。

「まだ外に出るのは無理でしたか」

「男の人がいたの」

 蝶子は言った。

「それはどなたですか?」

「どなたって……薔薇で顔が見えなかったわ」

「本当に見えなかったのですか?」

「見えなかった」

 執事は黙ってテレビを点けた。

 テレビはあまり見ないのだけれどと蝶子は思ったが、消して貰う理由も無いので眺める。

 また一年前の事件の話題だ。

 連続殺人とのことだった。

 犯人はいまだ不明。

 ただ一人生き残った女性は、意識不明の状態が続いている。

 重要な証言者であるため病院側も警備に気を使い、警察官が常時出入りしているが、いまだ状態に変わりはなし。

「物騒ね」

 蝶子は言った。

「ええ」

 執事はいつもの薄橙色のスープを蝶子の前にことりと置いた。

 おもむろにお洒落な入れ物から砂糖を(すく)いスープに混ぜる。

「たまにはいいかと」

 ええ、と蝶子は感情もなく返事をする。

 味はどうでもよかった。




 また庭の門扉が開いている。

 門の外では、ここで何度も見た人達が横二列に並んでこちらを見ていた。

 ずんぐりとした体型の初老の男性と、二人の女性。

 暗い色のスーツを着た男性が二人と、薔薇の顔の男性。

 突如、スーツの男性のひとりが蝶子の腕を掴み強引に引っ張る。

 蝶子は悲鳴を上げた。

 体がガクガクと揺さぶられる。

「やめて! やめてください!」

 蝶子は筋肉が衰え踏ん張れない両脚で、何とか踏み留まろうとした。

 他の人間達が慌てた様子で止めに入る。

 執事が助けに入ってくれるのではと蝶子は部屋の方を振り向いたが、執事の姿はない。

 また腹部に激痛が走る。

「痛い! 痛い!」

 蝶子は叫んだ。

 門の両端に群生している薔薇が、何かに強く揺さぶられたように大きく(しな)り、赤い花びらをぼとぼとと落とす。

 芝生の上に散らばった花びらを自分の血液と蝶子は錯覚した。

 こんなに血が流れたら、わたし死んじゃう……。

 死に対する恐怖で目眩がする。

 きつい香水の匂いが鼻を突いた。

 吐き気がしそう。

 力強く間に割って入った腕があった。

 薔薇で顔の隠れた男性が、蝶子の肩を掴み庇うようにして助けてくれる。

 手から体温が伝わった。

 思い出した。この人は(たつる)だ。

 いつも同じ駅を使い、あちらは通勤、蝶子は通学をしていた。

 あるとき、声をかけられた。

 何度か見ている顔とはいえ、ナンパかなと怪訝に思った。

 だが手元を見ると、蝶子の学生証が握られていた。

 カードを出すとき落としたのだと思った。

 それから駅で会うたび話をするようになった。

 付き合っていた訳ではなかったが、いろいろ相談に乗って貰っていた。

 とても頼りになる大人の人だと思った。

 それに優しかった。

 (たつる)が、スーツの男性を(たしな)めるようにして列の後ろに追いやる。

 (たつる)

 そうだ。(たつる)に会わなきゃ。

 そして、言わなきゃならない一言がある。

 蝶子は強い感情に押し出されるように門の外に出た。

 そのまま門から続く一本道を駆け出す。

 道を進むごとに足が重くなる感じがした。(まぶた)も重い。

 先程まで軽々と動いていた体はどんどん重力を感じ出し、脚の動きを牴牾(もどか)しく感じる。

 周囲はいつの間にか延々と続くアスファルトの道になっていた。

 駅に行く道に似ている気がする。

 走っても走っても進まないような気がした。

 だが、この道を行くのが正解だと直感する。 

 違う。行くのではない。

 戻るのだ。

 暫くすると、視界が急に明るくなった。

 自然光の景色から、不自然なライトのある景色に。

 明るいクリーム色の天井が見えた。

 病院の白いベッドの上、蝶子は点滴の管を腕に刺し昏睡状態から覚めた。

 ベッドの横には、初老の医師らしき男性、二人の女性看護師、スーツを着た年配の男性と若い男性、そして(たつる)がいる。

 それぞれに、え、という表情でこちらを見た。

 一人の看護師が驚いてぶつかったため、生理食塩水を入れた点滴の袋が揺れる。

 もう一人の看護師は、薄橙色の流動食を食べさせようとしていたところらしかった。

 医師と看護師が慌てて診察の準備をする。

 スーツの男性二人が落ち着き払った様子で警察バッジを取り出した。

 年配の警察官が口を開く。

「西署の者です。あなたを刺した人間の顔、見てませんか?」

「あ、ちょっと」

 医師が割って入る。

「今やっと目覚めたばかりの人にやめてください」

「いやでも」

「そうですよ、刑事さん、やめてあげてください」

 (たつる)もそう言う。見舞いに来ていたらしい。

 ですが、と若い方の刑事は言った。

「いまだ犯人は掴まってません。ここ一年は何も起こってないとはいえ、不安に思っている人も多いんです。この方には申し訳ありませんが」

 医師は、少しならと話を促した。

 刑事が蝶子の方に向き直る。 

「あなたは殺人犯に襲われた。何人も殺している奴だ。生き延びたのはあなただけなんです。何か覚えてませんか」

「えと」

 蝶子は掠れた声を出した。

 一年ぶりに声を出すせいなのか。(のど)に違和感がある。

「あの、落ち着いたら僕が聞いておきますから。それじゃいけませんか?」

 (たつる)が言った。

 蝶子は手を上げ、(たつる)の言葉を遮る。

「大丈夫です、刑事さん。わたし、話せます」

「無理しない方が」

 (たつる)は言った。

「わたしは」

 蝶子は、渇いた唇を舐めた。

「この人に刺されました」

 蝶子は、(たつる)の顔を真っ直ぐ見据えた。

 これが、何としても言わなければならない一言だった。

 樹の表情が一瞬青ざめ、次に憎々しそうに歪む様を蝶子は目に映す。

 どこまでも優しくして、相手を安心させてから娯楽として殺すのが(たつる)の手口だった。

 刺される直前、蝶子は(たつる)から小さな香水の瓶を受け取っていた。

 妹の誕生日のプレゼントに買ったら使わないと言われたので、ということだった。

 香水よりコロンとかの方が無難じゃないの。そう笑ったところで、表情の無い顔で横腹を刺された。

 香水の瓶が手から滑り落ち、割れて家の玄関先に植えた薔薇にかかった。

 ちょうど一年前。

 意識を失くすまでの僅かな間、蝶子の五感に飛び込んで来たのは、満開の赤い薔薇と滴る大量の血液、薔薇にかかった香水のきつい匂い。

 そして殺人を楽しんでいる(たつる)の声だった。



 終





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