敵と、味方と
足音は教室のドアの直前で止まった。
開かれたドアの隙間からは既に奴の影が見えている。
緊張が一気に高まった。
もちろん、奴を倒す奇策などありはしない。
俺は呼吸を整えて半身に構えた。剣道の癖が染み付いているからか、右前半身となり竹刀の代わりに右腕を軽く前に出すと気持ちが落ち着く。腕の震えが止まった。そのまま正面から目を離さずに左手でポケットを探り――予備の、塩が詰め込まれたビニール袋の感触を確かめる。漫画のように『同じ手が通用しない』のはよほど戦い慣れた手合いだけだ。決定打にはならないが、さっきのように目潰しにはなるだろう。その先は……ノーアイディアだが、そんなもん、やってみなけりゃわからねぇ!
乾いた靴音が数歩響き、静かにドアが開く。
薄暗い廊下の灯りに浮かび上がる長身で細身なシルエット。窓から差す外灯の明かりに照らされた形相。ひと目見て先ほどとは様子が違うことに気が付いた。一見、まともな大人。そこには、焦点が定まらない視線も、とめどなく涎を垂らす口もない。
もしや、話が通じるのではないかと言う期待に一瞬、気が弛む。
だが、淡い期待は一瞬で絶望に変わる。
少し神経質に見える、それでいて気が弱そうな若い男の教師。男子生徒から少し格下に見られがちな物理教師。直接習ったことはないが、その姿は学園で何度も目にしている。
だが、いま目の前に居るのは……その視線はふてぶてしく、口許は不機嫌そうに噛みしめられ、敵意を顕わにした男。そして、手元を覆う青白く禍々しいオーラ。
俺は改めて戦いを決意する。構え直した腕の鎖が鳴った。
左手に隠し持った塩の袋の感触をもう一度確かめる。
「屋守、祐介……」
奴に突然名前を呼ばれ、俺は思わず半歩後ずさった。
「記憶が……記憶が混濁しているのだよ。
私は君を知っているのだ、屋守祐介。
そして、もう1人の屋守祐介も。
これはどういうことだ?
お前は――いったい、どちらの屋守祐介なのだ?」
頭の中に沸く疑問を封じ込める。
奴の動きに集中しろ! 妄言など気にするな!
「そして、この……
とめどなく沸き上がる
お前への殺意は……
なんなのだ」
これ以上、コイツの言葉を聞きたくない。俺は咄嗟に、唯一の作戦を実行に移した。左手の塩の袋を右手に持ち替える。それと同時に袋を裂いた。
「そんなことより――屋守祐介よ
何故、
死んだ筈の私が、ここにいるのだ?」
意味不明な言葉を淡々と吐き続ける不気味さに負け、気が逸る。
タイミングなど考えずに、俺は塩を奴の顔めがけて投げつけた。
そして、自分の目を疑う。
――バリア!?
俺が投げつけた塩の塊は奴の体から30センチほどの空中で、まるで見えない壁に当たったかのようにパッと弾け、床へ散った。
間髪を入れずに椅子を投げつける。
奴は避けようともしない。
避ける必要などないのだ。
椅子は塩とおなじく、空中で跳ねて床へ落ちた。
その事実を否定したくて、俺は手が届くところにあった椅子と机を連続で投げつけた。
だが、結果は変わらなかった。
俺の動きが止むと、奴は青白いオーラに包まれた右手をまるで銃でも持っているかのように掲げた。オーラが輝きを増す。
暗転――目眩の発作。
バランスを失いよろける。
背後で窓ガラスがはじけ飛ぶ音がした。
何かが焦げる匂いが教室の中に漂い、ガラスを失った窓から暗い空へと消えてゆく。
風が吹いた。
視界と意識はすぐに回復した。
体は――無事だ。
また、目眩に救われたのか?
いや、この目眩は……
この目眩は、きっと――!
俺は何かを掴んだ気がした。
「あの時と同じだ。屋守祐介
貴様には何故当たらぬのだ?
調べねば
これは調べねばなるまい
そうだ、分解だ。
分解して調べねば
分解、分解!分解!
分解し――しぃてみ、れ、ば何ぁ――かがわかわかわかわかる……」
もつれる口元から流れ堕ちる涎。焦点を失う瞳。錯綜する視線。歪む顔。痛みに苦しむかのように歪に崩れる姿勢。それと共に奴の両手を包むオーラが勢いを増す。
なにか、大きな攻撃を仕掛けてくる気配がする。
やれる。やれる気がする。
さあ来い、このヤロー!!
さっき掴んだ『何か』が本物ならば、俺は、やれる!!
――そのとき
「ユースケ! 危ない!」
いきなり、タックルをされて横に吹き飛んだ。
タックルしてきたのが例の『白いアイツ』だと言うことは、すぐにわかった。
首の骨がグキッと横にズレる感触がして、ベシャッと壁に叩き付けられて体中の骨が軋んだ。そして鎖が擦れる音と共に、俺はズルズルとその場に崩れ落ちた。目の前に星が舞う。
血の味がした。
俺は選択を間違えた。
先に倒しておくべだったのは『今にもビームの餌食になりそうにボーッと突っ立ってる間抜けを身を挺して守りました』みたいなドヤ顔をキメているコイツだ。
「……このヤローッ!!」
口から溢れた血を手の甲で拭う。舌で触ると歯が少しぐらっとした。ダメージが、でかい。
いや、今はそれどころではない。俺は改めて『ライゲキ』に視線を戻した。
突然の割り込みに出鼻をくじかれて唖然としていた『ライゲキ』が、ふと我に返り銀花の名を叫ぶ。
「サワイ……サワイギンカ!!」
「『ライゲキ』よ。戦争は終わったのだ」
銀花は腕を組んで仁王立ちし、そう言い捨てた。
その姿は――細く、小さく、か弱く、白く。
そして迷いがなく、誇り高く、堂々としていた。
「ギンカ! ウラギリモノ!!」
一層強く巻き上がる『ライゲキ』の青白いオーラ。
その迫力に思わず逃げ出したくなるが……痛みで体が動かない。くそっ!
窓からの風が、渦を巻く。
衝撃に備える腕の隙間から、俺は、未だ微動だにしない銀花の姿を見た。
指が食い込むほどに、組んだ自らの腕を握りしめ
瞬きもせず
だが、その目からは涙が溢れていた。
「香泉!!」
銀花の叫びに応じて、もう一つの影が現れる。
香泉。銀花が『遺書』に書いた名前の――女。その女は夜目にも黒く長い艶やかな髪。銀花の白さとは異なる、蒼白の肌。悲しみに暮れているかのような、または、全ての感情を失ってしまったかのような伏した眼差し。美しい顔立ち。並び立つ銀花と同じく高等部の制服を着ているが、身長差もあって大人に見える。
その女、香泉は、ライゲキの前に立ちはだかった。まるで帯刀しているかのように腰に手を当てる――居合か? 勢いを増す『ライゲキ』の様子を前に、香泉の生気の無い眼差しは冷静で、沈着しており、それでいて微塵も隙がない。
銀花はぎゅっと目をつぶり、香泉に命じた。
「香泉、『ライゲキ』を――斬れ!」
銀花が言い終えた瞬間。
恐ろしく疾い、迷いのない一閃。
全盛期の俺が、『血まみれの幽霊』に呪われる前の俺が、避けられるかどうかわからない、神速の一太刀。
そして――『ライゲキ』の脇をすり抜けざまに一撃を放った香泉の手の中には、いつの間にか、青白い光を放つ……半透明の、日本刀が握られていた。
――静寂が訪れる。
二呼吸後、教師の手からオーラが消える。
それと同時に、その体から輝く霧の様なものが沸き立ち、空中へふわりと消えて行った。
目の錯覚ではない。
奴の、魂が消えた。
俺にはそう感じられた。
事実、教師の体は立ち尽くしたままぴくりとも動かない。
「こ、殺したのか……」
俺は思わず銀花に聞いた。
「安心しろ、峰打ちだ」
銀花がサムアップ&ドヤ顔でウィンクして得意気にそう言った。
涙はすでに乾いている。
「え?」
『峰打ちだ』と言う銀花の言葉に、香泉がピクリと反応する。
「え?」
「え、え?」
「……え?」
銀花と香泉の間で『え?』が飛び交った。
「だって銀花様……『斬れ』としか仰らないから」
香泉の声は、少し暗く、自信がなさそうで、優しかった。
「じゃあ……峰打ちじゃないの?」
香泉がこくりと頷いた。
一呼吸のち、物理教師が派手に血を吹いて倒れる。
「「ぬわああああ!!」」
のけ反って慌てふためく俺と銀花。
香泉は血飛沫を浴びながら、なおも冷静な顔をしている。
銀花はあの遺書を取り出すと遺言を書きなぐった。
「救急車! 輸血! 手術室予約! 外科医! うわぁぁ、早く、早く!」
「銀花様。この血の匂いは……B型」
何事もなかったかのようにぽつりとつぶやく香泉を見て、俺と銀花の動きがピタリと止まる。
コイツにだけは逆らってはいけない。
俺と銀花の心が初めて通じ合った。
「けつえきは、びーがた」
銀花はカタカタと震える手で認めると遺書をパタリと閉じた。
と、同時にけたたましい救急車のサイレンが近づき、校舎の前で止まる。
救急隊員が校舎へ駆け込んでくる音が閑散とした校舎に響いた。
「逃げるぞ!」
俺は銀花の呼び声につられて走り始めた。
走り始めてから怪我人を置いて逃げて良いのだろうかと言う至極当然な疑問が沸きあがったが、とりあえず走った。走りながら、笑いが込み上げてきた。笑ったのは、何ヵ月ぶりだろう。腹の底からおかしいのに、目には涙が滲んだ。
腕の鎖がいつになく楽しそうに、鳴る。
俺は走った。
風に揺れる、白い髪を追って。