風と共に
最上階で階段室を抜け、渡り廊下へ一歩踏み出す。
視線を廊下の先へと向けるまでの刹那。心の中で期待と、緊張が混ざり合う。鼓動は速まり手に汗が滲む。そこに『奴』が居ることを期待する自分と、そんな自分を嘲笑う自分が居る。
ひとつ、深く息を吐いてから長い渡り廊下の奥へと視線を向ける。
――今日も、非日常はそこにはいなかった。
殺風景な長い渡り廊下。
窓から差し込む夕日の色が季節の移ろいを俺に告げる。
髪をかきあげると腕の鎖が、冬よりも少しだけ暖かな音で響いた。
心が渇いて――
「でねでね! ハモニカ横丁にある甘女の鯛焼きがすッごく美味しくて。あー、もちろん虎ノ屋の羊羹に勝る甘味なんてこの世には存在しいんだけどぉ。この鯛焼き激戦区吉祥寺で変わり種に走らず堂々と王道を征く――」
……。
「ね!? アタマに来るでしょ!? だからアタシ言ってやったの! 『ここは男子便所じゃネェんだぞ!』って――」
…………。
「走るトロッコの先にはお母さんと、そしてもう一方にはなんと――!」
立ち止まって振り返る。そして、続きを喋りたくて仕方なさそうにキラキラと輝く赤い瞳を、怒気と拒絶と軽蔑の念をたっぷり込めた暴力的な視線で貫いた。言うつもりはなかったのだが、口が自然に開く。
「失せろ」
澤井銀花は口を尖らせて『ひゅぉー』っと息を吸い、吸い終わると口をぎゅっと結んで頬を膨らませた。そして――唇をぷるるるると震わせて息を吐く。
「おおお、こわい、こわい」
全然こわそうじゃねぇ。てゆうか逆に、飛び蹴り回し蹴りがトラウマとなったのか、澤井銀花がちょっと動くたびに俺の体が暴挙に備えてビクっと反応する。くそうこの女、勘違いして手を出した負い目がなければ渡り廊下の窓から放り投げてやるのに……。
「ねー、ユースケぇー。良いではないか減るものでもなし。アタシもオバケ見たいー!」
澤井銀花は再び頬を膨らませると俺の目を真っすぐに見つめ返した。
その、子供のような眼差しに、奴へ向けた黒い気持ちが鏡のように跳ね返えり、俺へ刺さる。思わず反射的に視線を逸らせた。やりづらい。
すると――逸らせた顔のすぐ横を、柔らかな匂いの風が通り抜けてゆく。顔を上げると、澤井銀花が俺を追い越して渡り廊下を走ってゆくのが見えた。
「やーい、オバケー出てこーい」
「……」
溜め息をひとつつく。
馬鹿め。呼んだり念じたりしても出てこないことは俺が散々実験済みだ。
右へふらふら、左へふらふらと。子供のように廊下を走る澤井銀花の白い後ろ姿を、俺は何も言わずにゆっくりと追った。不思議と救われた気持ちになる。ついつい、そのペースに引き込まれそうになる自分を、俺は手首の鎖を鳴らして戒めた。
窓から見渡すと、空はすでに暮れ始めている。
「やーい、オバ……おば、お、お、お、おおー!」
渡り廊下を抜けた先。物理実験室にさしかかったとき。澤井銀花――ええい、面倒臭い。俺も雑に呼び捨てにされているんだ。こっちも『銀花』と呼ばせてもらおう――の動きが急に止まった。
「おばおばばば――」
騒々しい。今度はなんだ。
「ふぎゃぁ! オバケぇ!」
俺はダッシュで銀花へと駆け寄った。
「どこだァ!」
銀花は物理準備室の開いたドアを指さし、白い顔を恐怖にこわばらせてわなわなと震えていた。目は涙で滲み、腰が抜けたのかその場にへなへなとしゃがみ込んだ。どれだけ脅しても何をしても堂々としていた銀花がおののく姿を見て、俺は『血まみれの幽霊』の出現を確信した。ポケットの中の塩を確かめる。よし、今度はちゃんと体が動く!
「生首!」
銀花はそう叫ぶと俺の足に抱き付いた。
なまくび、だと?
目をこらし、銀花が指さす物理準備室の中を覗き見るとそこには――暗幕が張られた真っ暗な部屋の中で、青白い光で照らされた男の顔が空中に浮かんでいた。
……フッ。
これだから素人は困る。
「落ち着けよ銀花。よく見ろ」
俺は足にしがみつきわなわなと怯える銀花の肩をポンと叩き『青く光る生首』を指さした。
「ノーパソの画面で顔が照らされているだけだ」
「ノー、パン……?」
「……ノーパソだよ。ノートパソコン。よく見ろ。暗い部屋で教師がノーパソを使ってるだけだ。下から青白い光で照らされているから不気味に見えるんだよ」
俺は前髪をかき上げて鎖を鳴らした。
銀花は落ち着きを取り戻し、俺の体を頼りにおずおずと立ち上がる。
「いいか? この程度で取り乱すのなら俺の邪魔だ。わかったら付いてくるな」
自分のことは棚に上げ、追い返す口実へとつなげた……実は以前、俺も同じ状況に遭遇したときには滅茶苦茶ビビッた事があるのだが。
騒ぐ俺たちに気が付いたのか、青白い生首――物理の教師は立ち上がると、こちらへゆらゆらと歩いてくる。
教師なら別に怖くはない。確かに、本来であれば休日に校内を歩き回るのは禁止されている行為だ。叱られてつまみ出されても文句は言えまい。だが、この俺は特別だ。幽霊事件――俺が疲労とストレスで倒れた事件――は部活の延長で学校内で発生した事故として扱われた。その負い目からかは定かではないのだが、学校側は俺の行動に対しては常に寛容なのだ。もちろん、調子に乗り過ぎてその特権が奪われないよう、俺自身も気を付けてはいるのだが。
この場を切り抜ける適当な言いわけを頭の中で2、3用意しながら、俺は真っすぐに教師へと向き直る。
「――!! うぁあ!!」
そして、驚きのあまりその場で軽く飛び上がり、腰が抜け、銀花と入れ替わりにへなへなとその場へしゃがみ込んだ。
暗幕が張られている物理準備室は闇そのものだ。
その闇の中に青白い光に照らされて浮かび上がる教師の顔と……腕、体。
それを照らしているのはパソコンの画面ではなかった。
青白い光を放っていたのは、教師の両手だ。
その手は青白い炎――オーラのようなものに包まれている。オーラがひときわ明るくゆらりと揺れて、暗い部屋と教師の顔に不気味な影を落とした。照らされたその顔はだらしなく歪み、開かれた口からは涎が溢れて目は焦点を失いあらぬ方向へと向けられて、不気味さを一層増している。
「うわあっ!」
俺は尻もちをついたまま後ずさった。鎖が金属音を立てて床を摺る。
一方、銀花は……その毅然とした背中に、さっきまでの取り乱した様子は微塵も見当たらなかった。
「おぉ! この能力は! 貴様『ライゲキ』の継承者だな!」
「ら!? らい、、、げき?」
「さあユースケ、初っ端から『ライゲキ』とは敵に不足はない! 貴様に引き継いだ『極超能力』で奴を倒すのだ!」
銀花は左手を腰に当て、右手で光る教師をビシッと指さし、俺に命令した。
らいげき!?
ごくちょうのうりょく!?
教師が光る右手をこちらに向ける。
手にまとわりついているオーラが一瞬輝きを増したように見えた。
同時に――暗転。目眩の発作が起き、俺は暗闇の中を転がった。
体のすぐ脇で電気がショートしたような破裂音と、何かが焦げる匂い。
目眩はすぐに回復し、俺は自分の体と、銀花の背中を確認する。目眩で暗転している最中に1メートルほど転がったようだ。体に異常はない。銀花は教師を指差した姿勢のまま微動だにしていなかった。
そして……俺が居た場所の床が真っ黒に焦げて煙を上げている。
反射的に教師の手を見た。煙が吹かれたように指先から光るオーラが消えている。だがすぐに新しいオーラが手首から巻きあがり、その指を包んだ――オーラを、指から発射して……それが、床を焦がした……だと!?
「ふむふむ『ライゲキ』よ。その力、継承されても変わらんなぁ。さあユースケ反撃だ!」
銀花は少しイラッとした顔で俺を促したが、すぐに何かを悟ったかのようにニヤリと笑った。
「んー、ユースケお前、ひょっとして『極超能力』を人前で使うのは初めてなのか? アタシに見られるのが恥ずかしいんだろ? 愛い奴じゃのぉ。あははは。大丈夫、こっちは百戦錬磨だ。ちょっとぐらい上手く行かなくてもからかったりしないぞ。えへへへへ。さあほれ、恥ずかしがっておらず、出してみろ」
悪代官が密室で村の娘に向けるタイプの笑顔。
俺は咄嗟にポケットの中から塩が詰まった袋を取り出し、引き裂いて中身を握ると教師へ向けてそれを投げつけた。塩は顔にヒットし、教師がうずくまる。狙い通り、目に入ったようだ。
俺は銀花の手を取って、元来た渡り廊下の方向へ一目さんに駆けだした――と、少し走ったところで銀花がギュっ踏みとどまり、俺の手を引き止める。くそっ、何かあったのか!?
「ユースケよ、何故逃げる」
振り返ると銀花はぷっと頬を膨らませ、腕を組み仁王立ちをした。
その背後で、光る腕の教師――『ライゲキ』が体勢を整え始めているのが見える。
素手であんな奴に勝てるもんか。だが銀花を置いて逃げる訳には――
くわっ
銀花に胸元を掴まれた。
真っ白な顔と、赤みを帯びた瞳が目の前に迫る。
「戦うのはお前の役目だバカ野郎! ケチっとらんでサッサと能力を使わんか!」
「さっきから、の、能力ってなんだよ!」
「……………………ユースケや。お前もしかして」
「能力なんか使えねぇよバカ!」
銀花の顔がシューっと青白くなった。
口元がわなわなと震え出す。
「それを先に言えバカ野郎! ああああぁ相手は『戦車級の極超能力者』だぞ!? 素手でかなう訳ないだろ」
なんとなく嫌な気配を感じて、二人でゆっくりと『ライゲキ』振り返る。
奴は体勢を立て直し、こちらに向かって歩き出そうとしていた。
俺の脇を風がビュッと通り抜けてゆく。
銀花がダッシュで逃げる足音が廊下に響いた。
「ぬあぁぁぁぁぁ! 置いてくなこのヤロー!」