狂気と狂喜と赤と白
見上げた階段の踊り場に立つ『白い幽霊』。
突然の遭遇への驚き。死を連想させる真っ白な肌。愛らしい目鼻立ち。小柄だが彫刻のように均整がとれた体のバランス。見慣れた制服。ある筈のないものが一ヶ所に集まって放つ、圧倒的な存在感。その幻想的な美しさと、狂気に似た恐怖との境界線を心が行ったり来たりする。
そして――かつて味わったことのない、この、喜び。
何度挫けそうになり、何度自分を疑ったことか。自分の境遇を何度呪ったことか。この瞬間のために、どれだけの事を引き替えとしてきたことか。
だがやはり、俺が追い続けてきたものは幻などではなかったのだ!
気持ちは逸るが状況の理解が追い付かず、思考は空転し、心臓が口から飛び出し胃がひっくり返り全身の毛穴が開いて背骨がガクガクと震え、視界が少し、涙で滲んだ。
春の夕暮れの風が階段室を駆け抜け、不気味な唸り声を上げる。
「待っていたぞ、この日を――ッ」
俺は貴様を倒す。
だが、焦りと恐怖で体が言うことをきかない。塩が詰め込まれたビニール袋をポケットから取り出そうとするが右腕はガチガチに力んで棒のようにこわばって動かず、右腕を左手でポケットから引き抜こうとしてみるが、左手は逆にふにゃふにゃと力が入らず、右腕を掴むことさえままならない。
最悪なことに下半身はさらに制御不能だ。焦りと恐怖と興奮で震える膝がガクッと折れて、俺はその場にしゃがみ込んだ。
このおッ、動け俺の体!
「――ぬぁッ!」
負けねぇぞ。逃げ出そうとする腰を気合で引き止めて、俺は踊り場に立つ『白い幽霊』をキッと睨みつけた。
「ん? どうした? 体の調子でも悪いのか、ユースケ」
くそう。緊張感のない声で馴れ馴れしく何度も呼び捨てにしやがって。
幽霊は真っ白であどけない顔を心配そうにゆがめ、俺へと一歩ずつ階段を降りてきた。奴の軽い足音が階段室に響くたびに、俺の中のないまぜの感情が「恐怖」へと収束していった。
――と、同時に
この白い幽霊の、まるで妖精のようなその姿と、いつの間にか記憶の中で怪物のように巨大に膨れ上がっていた『血まみれの幽霊』のイメージとのギャップがあまりにも大きいことに、俺はようやく気付く。
――コイツは本当にあの『血まみれの幽霊』の仲間なのだろうか。
別のタイプ? または……色違いと言うやつか!?
一歩ずつ近づく白い幽霊。
いや、惑わされるものか。
待ちに待ったこの好機、絶対に逃しはしない。
俺は息を深く吐いた。体を縛り付けていた緊張の糸がほぐれ、自分の呼吸が戻ってくる。ようやく自由が利くようになった手を床につき、俺は奴の様子をうかがった。
階段を降りる度に揺れる白髪。雪のように白い肌。ピンク色の唇と赤みがかった瞳。高等部の制服。スカートの裾が揺れる。
再び迷いが戻ってくる。コイツは本当に『血まみれの幽霊』の仲間なのか?
「……なんで、なんで今日は白なんだよ」
思わず言葉が洩れた。
「白?」
幽霊は俺の言葉に『はて?』と言う表情をすると歩みを止めてその場で固まった。
すわ、好機!!
俺はポケットから塩が入ったビニール袋を取り出す。腕の鎖が擦れて音をたてた。
「あ! 見たな!!」
『白い幽霊』がスカートの裾をおさえて『くの字』にかがみ、頬をうっすらとピンクに染めた。
「見てねぇし!!!! てゆーかこの角度からじゃ見えねぇし!!!!」
反射的に反論したが、本当はちょっと見えていた。白い――いや、そんな事はどうでもいい!
スクッと立ち上がり『白い幽霊』へ塩を投げつける。
手首から伸びる鎖が張り詰め、鋭く空を切った。
これが、あの夏の日以来、俺が待ち続けた復讐の時。
やり遂げた。俺はついにやり遂げたのだ。
全ての『負の感情』から心が解放されてゆく。腹の底から吹き上げる笑いと、満足感と、達成感と、万能感。この瞬間、俺は自己肯定の塊となった。
ぱしっ
ビニール袋に入ったままの塩がへなへなと弱々しく幽霊のおでこに当たり、間抜けな音をたてた。そしてその場へぽとりと落ちる。
奴は呆気にとられた顔つきでしばらく固まっていたが、怪訝な顔をして落ちた袋を拾う。
「……塩」
「そうだ」
塩だ。幽霊にはこれが効くのだ。でも……袋から出さないと効かない気もするが。
俺は成り行きを見守った。
「くわぁぁぁ!」
おぉ! 怒ってる怒ってる! どうだ、効いたかぁ! はははははは!
「嫁入り前のレディの顔に物をぶつけるとは! くォのッ! あんぽんたんめェ!」
なるほど。幽霊も嫁に行くのか。ネットではなかなか得られない生の幽霊トリビアを聞けたことが妙に嬉しい。
と、感じたのもつかの間。その『嫁入り前の幽霊』が階段を数段駆け降りて助走をつけ、バッと宙を舞い、俺へと飛び蹴りを放った。何が『見たな』だ。スカートで飛び蹴りなんかするから丸見えじゃねぇかよ!
だが、幽霊と言えど所詮は少女の体。元剣道チャンプの俺にそんなヘナヘナの飛び蹴りなど当たる訳がない――――――そう、『血まみれの幽霊』に呪いをかけられる前までであれば。
飛び蹴りの動きに意識が向いた瞬間に目眩――速い動きに集中すると視界が暗転する、あの『血まみれの幽霊』にかけられた呪い――が俺を襲う。世界が暗く途切れる。暗闇の中で幽霊の飛び蹴りが俺の頬を捕らえた感触がした。学校指定の上履きの底の滑り止めの模様が、ぐぐっと肌にめり込んでくる。
「ぐふッ!」
俺は再び、幽霊に負けたのか……。
いや、待て――飛び蹴りって。
幽霊に足ってあるのか!?
暗闇の中を、俺はぶっ飛んで行った。