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後編

 

 僕は家に帰った。家に帰って夕飯を食べて、風呂に入って、そして寝る。

 夕飯のとき、母親が「何か悩みごとでもあるの?」と聞いてきたが僕は答えなかった。

 もちろん彼女の扁桃腺について誰かにしゃべるつもりはない。

 あの子の扁桃腺は聖域であり、僕と彼女の二人だけが共有する大切な秘密でもあった。


 その夜僕は夢を見た。

「私……アナタだけに見せたのよ。アナタは大丈夫な人だと思ったから見せたの。他の人に見せたら、どんな反応をされるか分からないし、怖いから」

 その夢のシーンは多目的トイレの中だった。少女はなぜか普段より数段、可愛く見えた。

 僕は一人だけ勝ち誇ったような高揚感をおぼえていた。それは甘い恋心にも似た純情な感情で、僕はこれが夢だと気が付いていなかったから、とても興奮した。

「とっても嬉しかったの。私の秘密を共有してくれる人が現れたこと。私は、アナタに扁桃腺を見せるまでずっと孤独だったの」

 彼女は僕にぐっと近づいた。換気扇の音が非常に強く大きく耳に聞こえた。それは例えるなら付けっぱなしのテレビから流れる砂嵐のように、僕の聴覚をかき乱す刺激的なものだった。

 音が止んだ。

 彼女は僕に口づけをしていた。

 甘く柔らかい感触のあと、全身の血液が沸騰するような興奮が駆け巡った。

 数秒のキスだったと思う。彼女は悲しそうな表情をして、

「扁桃腺、落としちゃった」

 と言った。いまいち言っている事の意味が理解できなかった。それよりも、僕がされた行為が頭から離れなかった。

 嬉しい、非常に嬉しい、嬉しいと何回言えば足りるのだろうか。いったい彼女は僕をどこまで動揺させれば気が済むのだろうか。

 そう思ったとき、目が覚めた。


 ああ。と、落胆した。今まで沸騰していた血液が一気に覚めて、体から抜けていく感覚に陥った。

 あれは嘘だったんだ。現実ではなかったんだ。彼女が僕に口づけをしてくれるなんて、そんなのはありえないんだ。

 僕は天井を見た。

 豆電球のオレンジ色が、部屋を柔らかく照らしていた。それをぼうっと眺めているうちに、さらに興奮が冷めていく感じになった。

 電灯の笠に、ハエの死骸の影が映る。あのハエたちは、なぜそこで死んだのか。なぜいつでも光の存在する場所を求めるのか。

 ため息をつきそうになった時、僕は思い出した。あの子が僕に扁桃腺を見せてくれた事実だけは、嘘ではないじゃないか!

 扁桃腺の秘密は、そもそも彼女だけが保有する聖域であり、それを他人に見せるというのは、その人を受け入れた証拠であるはずじゃないか!

 僕は認められたんだ。

 それはただ甘いだけの純情な色恋よりも数段に価値のあるものだった。

 あの子の聖域に達することは、他の誰にも成し得ない偉業のはずだ。あの子の扁桃腺を僕は誰より大切に思う。

 誰より大切にして、誰よりも尊く思う。

 僕は再び目を覚まし、制服に着替えて朝食を食べていた。


 母親が深刻な表情をして、彼女が交通事故に巻き込まれたという話をしたとき、僕は仰天した。本当に驚きだった。

 幸い、彼女の命に別状はないようだが、今は学校近くの中央病院にいて、安静にしているらしかった。

 お見舞いに行けば、また彼女の口から現れる扁桃腺を見せてくれるかもしれない。

 そんな淡い期待を込めながら僕は学校に向かった。

 その途中、どうしても彼女と話したくなってしまった。彼女の連絡先は知っていた。だから、信号を待っている間に、思わず電話をしてしまった。

 数回のコール音を聞いている間、何故か僕は、いつもの道がおどろおどろしく見えた。

 仁王立ちする自販機は怒っているし、街路樹は不気味で、赤信号は怒りに燃えているようだった。理由の分からない漠然とした不安が僕を襲った。

 彼女が電話に出た。

「……もしもし」

「……もしもし。僕だけど」

 彼女は「ああ」と言ってから、

「心配して掛けてくれたんだ」

 と言った。その声色にまったく覇気を感じられなかった。

「大丈夫?」

「うん。ケガは大丈夫」

「小さい子を助けようとしたんだって? 母さんから聞いたよ。すごいじゃないか」

「うん。ありがと」

「どうしたの? 元気ないね」

「実はね。実は、あの事故で……私、扁桃腺を亡くしたの」

 時が止まった。

 信号は青に変わったのに、僕はその場から一歩も動けなくなった。

 物凄い落胆と虚無感が全身を襲った。もう、彼女の扁桃腺を眺める事はできないのかと、苦痛にも似た感覚に包まれた。

「ごめんね。せっかくアナタに話せたのに」

「君が謝ることじゃない。むしろ僕が……僕があのとき君と一緒に居てあげれば、守ってあげられたかもしれないのに!」

 彼女の泣き声と嗚咽が電話越しに聞こえる。それは僕の心を引き裂くように辛い泣き声だった。

「事故の現場は、どこだったの?」

「学校の、近くのあの交差点」

 僕は走った。走って事故現場まで行き、天に向かって壮絶な叫び声を張り上げた。

 道行く人が仰天した。僕は人目を気にせず叫び続けた。何者も寄せ付けない絶叫だったと思う。我ながら警察を呼ばれたんじゃないかとも思った。


 その時、視界の隅に、妖しくきらめく物体を見つけた。それは、テニスボールくらいの大きさで、桃色の光沢を放っていた。

 僕はふらつく足取りで、その物体に近づいた。近づきその正体が何か分かったとき、僕の目の前は大きく回転した。

「……扁桃腺だ」

 あの日、あの子の扁桃腺を見てしまった時、僕は何とも言えない凄まじい感情に襲われた。しかし今はその異常さを軽く超える感覚だった。再び僕は絶叫した。今度は歓喜の絶叫だった。

 僕は、彼女の扁桃腺を手で拾い上げた。

 ぬるっとした感覚が手に広がってから、つんと錆び臭い匂いを感じた。

 扁桃腺には亀裂が生じていた。たぶん事故の衝撃で傷がついたのだろう。

 僕は、彼女の聖域から流れ出る一筋の鮮血を手の平に受けながら、この血の一滴すらコンクリートに垂らすまいとした。

 両手で大切に拾い上げ、身をよじってスクールバッグを道路にどすんと投げ捨てた。

 僕はこの足で、彼女のいる中央病院に向かうのだ。行って、彼女にこの扁桃腺を渡すのだ。僕は必ずそうしなければならないのだ。

 聖域を抱えたまま走って、走って、病院に向かった。僕の手の中でおしとやかに佇む彼女の聖域は、まだその生暖かさを保持したままだった。

 血が流れ出ないように、卵を包むように、大切に手の中に留めながら走った。

 病院に着き、窓口で話をつけた。

 動揺や焦りが伝わらないように、そして手の平で主人を待つ扁桃腺が見つからないように、できるだけ冷静を保って受け答えしたつもりではあったが、看護師さんは、

「心配しなくても大丈夫よ。彼女は元気そうだったから」

 と僕を慰めてくれた。

 元気なものか、


 彼女は聖域を待っている。だから僕はそれを届けなくてはならない。

 病室の扉を足で勢いよく開け放ったとき、彼女は僕のほうをハッと振り向いた。

「来てくれたんだ!」

 喜びの声が響いていた。

 僕が手に持っていた聖域からは、とうとう血が滴り、病室の床にポタリと落ちた。

 彼女はそれをぜんぜん気にしないで、その血を白い素足でぺたんと踏んだ。

「届けに来た。見つけたんだ。君の扁桃腺」

「ありがとう」

 泣きそうな声で彼女は言う。

 彼女は、僕の手の平から聖域を受け取り、それを自分の口の中へと取り戻した。

 これで何もかも元通りだと僕は直感した。

 僕はあまりの達成感のため、その場に倒れ込んだ。床に手をついたので、聖域の血は手の形に広がった。でも誰が何と言おうとそれは決して汚れなどではない。

 倒れ込んだ僕に、彼女は抱き着いた。

 彼女の髪を感じ、吐息を感じ、体を感じ、その中に含まれる生命の流れを強く感じた。

「ありがとう」

 涙声で彼女はそう言った。


 直後に僕は、彼女の唇を感じた。

 そうして唇の奥に佇む、少女の扁桃腺の存在をも色濃く感じた。

 (完) 



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