歯車は軋む
錆びた歯車に用はあるのか、という問題がある。
答えはあるともいえるし、ないとも言える。
初めから錆びている歯車は返品すれば良い。
錆びてしまったものは錆び取りをしたり、鋳直す事もできる。
歯車はそれが許される。それならば、歯車ならば良かったのに。歯車ならば、僕だって自由に代替され得たのに。
今日も、明日も、明後日も、僕は人だ、人だ、人だ。
人を歯車に例えよう。切り捨てられる人は切り捨てよう。支配者の論理は素晴らしい、僕を切り捨てられるのならば。人を人と見てはいけない。僕は尊重されるに値しないから。
錆びた人間に用はあるのか、という問題がある。
答えはあるとも言えるし、ないとも言える。錆びた人間を焼却処分するのなら、きっとコストの無駄だろう。その人間を奴隷にでもできれば、プラスマイナスはゼロだろう。その人間を再教育すればどうか、コストに見合った働きができれば、上々かも知れない。
今日も、明日も、明後日も、僕は人だ、人だ、人だ。
僕を歯車に例えよう。錆び付いた歯車は軋む。周りに錆びを擦り付けながら。軋む歯車は取り替えられるべきだ。それなのに、皆、優し過ぎないか。
僕は誰でありたかっただろう。きっと今も、誰かでありたいんだろう。そこに救いがない事を分かっていても、軋む歯車は思考を止めない、キリキリと悲鳴を撒き散らして。
胡蝶の夢に沈もう。僕はもう、誰でも無くなればいい。
願わくばこの身に裁きの下らん事を。