ダイスを崩せ
暗号もの――もどきの作品。「Kより愛をこめて」に続き第二弾です。
始まり
「久司さん。私、恩田さんを殺しちゃった」
電話越しに市井志桜里の震える声を聞いたのは、十二月一日の夜、七時を回った頃だった。月初と週末が重なり、さらには今年最後の月ということもあって本来ならば宇都宮久司はてんてこ舞いの状態になるはずだった。だが、彼の勤務する玩具・ゲーム企画会社は週末金曜日の定時退社を死守する勢いで徹底していたこともあり、おかげで志桜里から電話を受ける十分ほど前に自宅のマンションに帰宅することができたのだ。
「おい――どういうことだよ。恩田を、殺した? 一体何があったんだ」
コンビニで調達した夕食の弁当をテーブルに放り、宇都宮は左手から右手へとスマートフォンを持ち変える。てっきり酒にでも酔っているのかと半信半疑であったが、どうもそれほど楽観的な状況でもないらしい。
「だから、殺しちゃったの。恩田さん、息してない。頭を殴ったら、床に倒れてそのまま動かなくなって。ねえ、どうしよう。私、人殺しだ」
「人殺し」の言葉は涙ぐんだ声で、何とか聞き取ったというほど。切迫した空気がありありと伝わってきた。弁当もそのままに、宇都宮は帰宅したままの格好でマンションを飛び出す。恩田功のアパートまでは、車で行けば十分とかからない距離だった。
夜闇に身を潜めるように怪しく佇む、鉄筋二階建てのアパート。恩田の部屋は二階の二○三号室、奥から二番目である。念のために二度ほどノックをすると、鍵を回す重々しい音がしてそっとドアが開けられた。暗がりでも分かるほどに蒼白い顔をした志桜里が、幽霊のごとくそこに立ち尽くしていた。
「どうした。何があったんだ、ちゃんと話せ」
ドアを閉じ、諭すように話しかける。志桜里は唇をきつく結ぶと、宇都宮の腕を引き奥の部屋を指差した。短い廊下を抜けた先には、六畳間より少し広いくらいの空間。薄暗い部屋の照明が、床に横たわる男を頼りなく照らし出していた。
「彼、死んでる。息もしてないし、多分、脈もないと思う」
小さく呟く志桜里の肩をさすり、宇都宮はうつ伏せの状態でぴくりともしない恩田の傍に片膝をつく。今年で三十を迎え早くも後退の兆しがある頭髪に、どす黒いものがこびり付いている。肩に手をかけ仰向けに返すと、光のない虚ろな両目と小さく開いた口、伸びはじめの無精ひげ、たるんだ顎――宇都宮がよく知った顔がそこにあった。だが、顔面は瞬きもしなければ喋りもしない。恩田の顔は、生命活動を断ち抜け殻だけがそこに残されているようだった。念のために脈をとってみるが、志桜里の言う通りすでに事切れていることは簡単に判断できた。
「本当に、死んでいるんだな」
現実味のないまま、ぽつりと漏らす。つい数日前まで言葉を交わし目の前で歩き回っていた男が、次に再会したときは死に姿。しかも、志桜里の話によればまだ死後間もない状態だという。このまま大急ぎで病院に担ぎ込めばもしかすると助かるのでは。希望とも切望ともつかない感情が、宇都宮の心をかき乱す。
「志桜里、ちゃんと話すんだ。どうしてお前がここにいる? 恩田に何の用があったんだ。どうして恩田を殺した」
平静を装ったつもりでも、宇都宮の声には棘があったのだろう。志桜里はびくりと肩を竦ませ、顔を床に向けると黙り込んでしまった。そのまま、気まずい沈黙が辺りを支配する。恐ろしく永いと思われた時間の経過も、実際はせいぜい十分かそこらであったに違いない。宇都宮は腕時計の針が七時三十五分であることを確認すると、大きく息を吐き出した。
「志桜里、話さなきゃ何も分からない。ちゃんと聞いてやるし、頭ごなしに責めたりもしない。だから、きちんと説明するんだ」
な、と華奢な肩に両手を添える。ようやく顔を上げた志桜里の唇は、可哀想なほどに震え色を失っていた。その小柄な身体をそっと抱き寄せ、幼子をあやすように頭を何度も撫でる。やがて、すべてを諦めきったような深い吐息の後、ようやく切れ切れながらも事の経緯を話し始めた。
それによると、どうやら恩田に電話で呼び出され、夕方このアパートを訪れたとのこと。アパートには宇都宮も仕事終わりに来るからと吹き込まれ、馬鹿正直に信じてしまったこと。当然、宇都宮は恩田宅へ立ち寄る予定などなく、恩田と二人きりの空間に足を踏み入れてしまったこと。気がついたときには、身包み剥がされ強淫寸前であったこと。無我夢中で傍に転がっていたガラス製の灰皿を掴み、恩田に抵抗したこと。そして、手元に鈍い感触を得たときには、既に絶命状態の彼が隣で伏臥していたこと。
嫌な予感はしていた。志桜里をはずみで恩田に紹介することになったとき、ショートパンツとシャツの袖からすらりと伸びる彼女の四肢に、舐めるように視線を這わせていた。鈍いのか呑気なのか、志桜里自身は非常にフランクな態度で恩田に接していたものの、宇都宮は内心で舌打ちをしたものだった。それなりにブランドのある会社で、立身出世とまでは言わずともおよそ成功者の類に属していた宇都宮に、小さな印刷会社でどうにかこうにか日々の生計を立てる恩田が嫉妬の念を抱いていないといえば、嘘になるに違いなかった。
恩田は死んだ。志桜里に「殺人者」、宇都宮に「殺人者の恋人」というという最悪の烙印を残して。ある意味、恩田は宇都宮に一矢報いる形となったのかもしれない。今頃、肩を寄せ合い茫然自失とする二人を瞰下しながら、あの世で密かにほくそ笑んでいるのだろうか。
ふと、恩田の右手が掴んでいるものに視線が移った。何らかの意志が働いているかのように固く鷲掴みしていた「それ」を、力ずくでもぎ取る。
無意識のうちに、宇都宮の両手は動いていた。カチカチという乾いた音が、志桜里の嗚咽とともに夜の深閑に染み渡っていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その一 警察の初動捜査状況
「被害者は恩田功、三十歳。県内の印刷会社に勤めており、独身。事件が発覚したのは、去る十二月二日。独り暮らしのアパート一室で午前十一時、撲殺体として発見されました。第一発見者は恩田の知人だという男で、宇都宮久司、三十二歳。宇都宮は事件発覚時の二日、恩田に会う約束をしていたのだそうです。しかし、時間になっても恩田は所定の場所に姿を見せず、彼の自宅アパートを訪ねました。恩田の部屋には何度か足を運んだことがあるそうで、すぐに二階の二○三号室へ行き、ドアをノックします。しかし応答がなく、ドアノブに手をかけたところ鍵がかかっていないことに気がつき、不審に思って室内を覗いたところで遺体を発見。そのまま警察に通報したという経緯です」
白髪を丁寧に撫で付けた小柄な男性は、珈琲を一口だけ啜るとすぐに手元の資料に目を落とす。
「恩田の死因は、頭部を鈍器で殴られたことによる外傷性ショック死。頭部を複数回殴打されていたようで、即死ではなかったと見られています。死亡推定時刻は、前日、つまり十二月一日の十九時から二十時の間。凶器は遺体の傍に転がっていたガラス製の灰皿。被害者の血痕がべったりと付着していました。おそらく、元から恩田の自室にあったものと思われます」
「凶器は現場に残されており、かつ現場にあったものを咄嗟に選んだということですね」
「そう考えていいかと」
「現場の状況は?」
「恩田の部屋からは一切の指紋が綺麗に拭き取られていました。キッチンや浴室には恩田本人の指紋が残されていましたが、犯行現場であろう六畳間の空間からは、被害者および犯人の痕跡が丁寧に消し去られていました。また、玄関の鍵は開いていたということでしたが、恩田の財布から現金が札だけ抜き取られていました。通帳や印鑑の類には手がつけられておらず、盗まれたものといえばそれくらいですかね。恩田の部屋の鍵は二つあるのですが、ひとつは恩田の部屋に、もうひとつは実家にあるということで調べがついています」
「恩田の実家に確認はしたのですか」
「若宮が聴取済みです。恩田は両親と三人家族だったようで、父母はともにご健在のようですね。一人息子が殺されるような心当たりはないと、ショックも相当大きいようです」
悲憤の表情で資料を読み上げるのは、K県警捜査一課に所属する小暮警部。紳士然とした佇まいと物腰の柔らかさが好印象のベテラン刑事である。
「殺人事件の鉄板は『第一発見者を疑え』。さしずめ、県警は宇都宮にターゲットを絞って捜査を進めているのでは」
「お察しが早い。宇都宮は事件当時のアリバイなし、恩田殺害の動機ありという怪しさ満点の男なんです、これが」
「ほう、それは興味深い」小暮警部の対面で、伸びかけの頭髪を掻きながら男が身を乗り出した。切れ長の両目に鋭い光が差し、薄い唇の端が吊り上がる。
「とはいっても、動機に関してはやや説得力に欠けるといいますか。まあ、ひとつ傾聴願います。
恩田の死亡推定時刻は一日の十九時から二十時の間ですが、その時間、宇都宮は仕事場からまっすぐ帰宅して家にいたということです。恩田同様に宇都宮も独り暮らしで、アリバイを証明してくれる人間はいません。帰りにコンビニで夕食の弁当を買ったということですが、裏を取ったところ彼がコンビニに立ち寄った時間は十九時ちょっと前で、明確なアリバイにはなり得ないことが判明しました。恩田と宇都宮の自宅、コンビニの位置関係ですが、宇都宮の自宅とコンビニは徒歩十五分ほどの距離、宇都宮と恩田の自宅は車で行き来すれば十分ほど。宇都宮は車を所持しているので、恩田宅への移動は難なく可能だったということになります」
「恩田が殺害された十九時から二十時の間、犯行時刻に恩田のアパート付近で目撃情報は上がらなかったのですか」
「それが上がらなかったのです。恩田の住むアパートは二階造りで、部屋は各階に四つずつの八部屋。うち、人が住んでいるのは一階の管理人の部屋を含めて四部屋。犯行時刻、恩田以外の住人はいずれも不在だったんですよ。恩田以外の三部屋の住人にも聞き込みを行いましたが、アリバイも確固たるものでしたし、特に恩田とトラブル関係にあった者もいませんでした」
「なるほど」カップに半分ほど残った珈琲を睨み両手を組む男に、小暮警部は現状報告を続ける。
「宇都宮には完全に不利な状況ですね。ちなみに、恩田のアパートは鉄筋構造の中古物件で、宇都宮が住むのは団地の中にあるマンション。いずれにも防犯カメラは設置されていませんでした」
「宇都宮は仕事場から帰宅したと言っていましたね」
「県内に本社を構える玩具・ゲーム企画会社の社員だそうです。こちらは鈴坂くんが当たっているのですが、宇都宮が事件当時会社を出たのは十八時三十分過ぎ。以降の宇都宮の行動を知る社員はいなかったようです。特に人と会う予定もなく、またその後宇都宮を社外で見かけたという証言も今のところ挙がっていません」
眉根を寄せた難しい表情を顔に張り付かせ、資料をボールペンの先でトントンと叩く。
「恩田の事件当時の足取りに関してですが、勤務先の印刷会社から退勤したのが十七時三十分頃。十七時が定時らしいのですが、だいたい三十分ほど雑務をこなした後に帰宅することが多かったようです。当時の恩田の様子について職場の者から話を聞いたところ、『普段と変わらず、いつも通り黙々と作業をこなしていた。大きな問題を抱えていることもなく、会社間との諍いもなかったと思う』だそうです。借金の類もなく、また女性関係も皆無。およそ事件に巻き込まれるような人生は送っていなかったという印象ですね」
「ですが、実際には殺人事件の被害者という悲惨な最期を遂げた――玄関の鍵は施錠されていなかったということでしたね。現場からは現金も持ち去られていた。強盗の線については」
「勿論可能性のひとつとして考えられますが、玄関の鍵は無理やりこじ開けたような形跡がなく、また窓にはしっかり鍵がかけられていました。犯人は、被害者によって玄関から招き入れられたと我々は睨んでおります」
「顔見知りの犯行で、強盗に見せかけようと偽装工作を施した」
「その線で捜査に当たっているところです。ですが、宇都宮を事件の最重要容疑者と位置づけたところで、犯行時刻にアリバイがない奴だけが犯人かと言われると、それはそれで痛い反撃ですからね。現段階では、彼を任意で引っ張るのが精一杯というところです」
額に横皺を刻み資料を睨む警部に、男は小さく片手を上げる。
「宇都宮には、恩田を殺害する動機があるとか。そちらについては」
「それがまた、何とも微妙な動機でしてね」資料の四隅を綺麗に揃えながら、あからさまに肩を落としてみせた。
「宇都宮は、商品開発部という部署で知的玩具の新商品を制作する仕事に従事していました。彼は恩田に、新商品のアイデアについてご意見番として評価を求めることがあったようです。一方で、恩田は普段こそ温厚というか物静かな性格だったものの、こと宇都宮との関係に関しては一言居士な部分があったようで。まあ、シビアというか辛口というか、宇都宮の新案を扱き下ろすことも一度や二度ではなかったとか。これは宇都宮本人が証言しています。もっとも、だからといって殺しなどするわけないと本人は主張しているらしいですが」
「自身のアイデアを散々酷評された腹いせに、ということか。確かに、殺人の動機としては弱いですね。あるいは、衝動的殺人などそんなものか」
独り言めいた男の物言いに、小暮警部はこくこくと頷いた。
「それもまた、分かる話ではあるのですがね。我々が話を小難しく捻っているだけで、真相は案外単純だったりするものです。人ひとりの命を奪った出来事を、そんな理論で片付けていいわけもないのですが」
「恩田の事件が単純かどうかは、まだ何とも断定はできませんが――ところで、そもそも被害者と宇都宮にはどのような接点があったのでしょうか。少なくとも、仕事上の付き合いという風には思えませんが」
「ああ、すみません。説明不足でしたね。宇都宮は、大学時代の恩田の先輩にあたる関係だったようです。二人は東京の大学に進学していたのですが、ともにパズル研究会というサークルに所属しており、そこで接点があったということです」
「パズル研究会、ですか」
「ええ。宇都宮の現職も、もとは知的ゲーム好きが高じた結果だと、大学時代の宇都宮の友人が証言してくれました。恩田もそれなりに熱を入れていたようで、彼の部屋にもその類の物がいくつか見受けられました。『激難! 数独特集』などという雑誌もありましたよ。先生はそういった方面にご関心は?」
「嫌いではありませんが、趣味というほど手をつけているものはありませんね」
「そうですか。私なぞ、見ているだけで頭が痛くなってきましてね」初老の刑事は苦笑を浮かべながら、額に手を当てる仕草をしてみせる。
「それから、若宮が宇都宮の交友関係について現在調べを進めているところです。主に仕事場の人間と学生時代の関係者を中心に聴取を続けていますが、いずれにも恩田を知る者は現段階ではいないようですね。念のためアリバイも虱潰しに確認していますが、もっぱら怪しい人物は挙がってきておりません。それから、宇都宮には恋人がいるようです」
「恋人、ですか」重低音の男の声に、好奇の色が混じる。小暮警部は意味ありげに目配せをしてみせた。
「市井志桜里、二十四歳。県内の専門学校に通っています。宇都宮とは付き合い始めて半年ほどだそうで、恩田とも一度だけ会ったことがあると本人が証言しました。事件当時は近所のCDショップにいたそうで、店主からの証言及び店内の監視カメラの映像でも確認が取れています」
「宇都宮の交友関係で今のところ有力な手がかりはなし、ということですか」
「そういうことになりますね。被害者である恩田についても同様で、宇都宮以外に恩田と不仲であったり和やかでない関係にあった者も、現段階では見つかっておりません。捜査が難航を極めないうちに、ぜひ先生のお知恵を拝借願いたいと思いましてね」
あらかたの説明を終えた資料を男に手渡すと、警部はふと思い出したようにスーツの内ポケットに手を入れる。机上にぽつねんと置かれた一枚の写真に、男は怪訝な視線を送った。
「これは、何でしょうか」
「先生には、こちらについての意見もぜひ伺いたいところでしてね。県警の密かな悩みの種でもあるものです」
男――現役の推理作家である吾妻鑑はしばらく目前の写真を凝視していたが、やがて小さく肩を上げてみせると徐にテーブルの端から灰皿を引き寄せる。どこからともなく煙草の箱を取り出して、右手に一本挟んだ。
「ルービックキューブ、ですか」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その二 関係者らの証言
「挨拶程度ですよ。夕方、時々顔を合わせるんです。日によっては、恩田さんと帰宅時間が近くなるときがあって。あと、バイトの前後とか」
玄関のドアに背を預け、木内麻奈実はパーカーの袖を弄りながら淡々と証言する。
「最後に恩田さんに会ったのは、いつのことでしょうか」
「いつかなあ――先週の、確かバイトに行く前だったから、木曜日かな。七時前くらいだったと思います」
「言葉を交わしたりなどは」
「お疲れ様です、ってくらいですね。ちょうど、玄関先で。私がバイトに行く直前で、恩田さんは仕事帰りって感じでした。スーパーかコンビニの袋みたいなのを持っていましたよ」
「そのときの恩田さんに、何か変わった様子などは」
「普通だったと思いますけど」麻奈実の返事は投げやりだった。もう何回も訊かれましたけど、と言わんばかりの態度である。
「ちなみに、先週の金曜日は夜までご不在だったのですよね」
「私ですか? そうですけど。サークルの打ち上げがあったんです。日付を跨いで明け方くらいに帰って、爆睡していたらパトカーの音で目が覚めました」
「お休みのところを、すみませんでした」低頭する小暮警部に、麻奈実は意表を突かれたように両目をぱちくりさせる。
「いえ、そんな謝られるほどのことじゃないので。犯人、まだ捕まっていないんですよね」
「全力で捜査に当たっているところです」
「通り魔とか、強盗みたいな感じなんですか」うら若き女子大生は声を低くする。警部はペン先で小さく頭を掻いてみせた。
「断定はできませんが、あらゆる可能性を考慮しているところです」
「そうですか。早く捕まえてくださいね。というか、もう引っ越そうかなあ。殺人事件のあったアパートなんて、好んで住むものじゃないですよね」
警部の言葉を待たず、女子大生は独りでに納得したように頷く。最後まで低姿勢を崩さない刑事に好感を持ったようで、別れ際には「お仕事、頑張ってくださいね」と小さく手を振って自室へと消えていった。
階段を下り一階の最端へと向かう。インターホンを鳴らすと、細面に痩身、気の弱さが前面に押し出ているような男が半開きのドアから姿を覗かせた。皆川幸人は独身暮らしの公務員で、恩田と顔を合わせたことは片手で数えるほどしかなかったという。
「二階と一階じゃ、接点ないですから。出勤時間も帰宅時間も微妙にずれているみたいで、すれ違ったことすらほとんどありません。僕は一階の端部屋だったし、なおさら」
「言葉を交わしたことも?」
「一度だけ、帰宅時間が一緒になったことがありました。そのときは、互いにお疲れ様ですとかてきとうに声をかけましたけど。それだけですね」
「ちなみに、恩田さんの交友関係や、誰かがアパートを訪ねてきたようなことは」
「さあ。見たことないですね。仮に人が訪ねてきたとしても、誰の知り合いかなんてすぐに分かるものでもないですし」ぼそぼそとした話し方にも、小暮警部は丁寧に相槌を打っている。だが、木内麻奈実同様、皆川からもさしたる有力な情報を得られないまま、最後に管理人・内海玄造が住む一○一号室へと足を運んだ。内海は齢六十半ばほどで、小奇麗な格好と丸眼鏡が学者然とした印象を抱かせた。
「愛想が良いというわけでもありませんでしたけどね。物静かな感じの方でしたよ。まあ住人もこれっぽちですからね、ご近所トラブルを起こすこともなく、こちらとしてはみなさん平和に過ごしてくれてなによりと思っていたのですが」
深々と嘆息する内海に、警部は同情の面持ちを浮かべながら聴取を進める。
「では、最近の恩田さんに何か変わった様子などはありませんでしたか」
「さあ。特には感じませんでしたけどね」
「では、こちらの方に見覚えは」
宇都宮久司と市井志桜里の写真をつきつけられ、内海は両者の顔を眼鏡越しにまじまじと見やる。しばらく顰め辛しい顔で考え込んでいたが、やがて「ああ」と合点がいったように頭を縦に振った。
「そういえば、一度だけ見ましたよ。ええ、確かにこのお二人がここに来られましたね」
「それは、いつのことでしょうか」警部の声に、俄に緊張が走る。
「いつだったかなあ。夏、いや秋だったか――とにかく、数か月ほど前でしたよ」
「確かに、この二人だったのですか」
「ええ。それは間違いありません。アパートの前を掃除していたときにね、こちらの女性の方が挨拶をしてくれましたよ。住人ではないことは一目で分かったので、誰かしらのお客だろうと思いましてね。男性の方もね、そうそう、こんなハンサムな顔をしていましたよ。背がすらりとしていてね」
「因みに、この二人は恩田さんの部屋に向かったのでは」
「二階に上がっていったことは記憶していますけどね。恩田さんのところかどうかまでは」
「そうですか。お二人を見たのは、その一度きりですか」
「いや、こちらの男性の方はそういえば何度かお会いした気がしますね」
「本当ですか」
「ええ。ああ、そうだ。確か『恩田さんはいるか』と尋ねてきたことがありましたよ。うんうん、そうだ。滅多に客などここには来ませんからね」
しきりに首肯している内海に、小暮警部はさぐりを入れるような目つきで質疑を続ける。
「この方と恩田さんが、例えば話をしているところを見かけたりなどは」
「そこまでは、なかったですね。恩田さんは二階の住人ですし、一階で立ち話をする必要もね」
「内海さんは、こちらの男性と他にお話されたことは」宇都宮の写真をひらりとさせる警部に、管理人は緩やかに首を横に振った。
ところ変わって、小暮警部と吾妻は恩田のアパートから車で十分ほど離れた団地内のマンションにいた。目指す先は六階の六○四号室。事件の最重要容疑者である宇都宮久司の部屋である。幾度目かも知れぬ警察の来訪にすっかり慣れたのか、宇都宮は小暮警部と吾妻の両者をちらりと一瞥しただけで「どうぞ」と部屋に招き入れた。
「お仕事であることは承知していますが、いくら訪ねたって証言することは同じですよ。あの日、私は仕事場から真っ直ぐここに帰りました。途中でコンビニへ寄って、夕食を買って。夜はずっと家で過ごしていましたし、次の日には恩田と約束をしていたので朝の十時前に家を出ました」
開口一番に捲し立て、宇都宮はうんざりした表情で刑事と推理作家を睥睨する。すっかり暗記した台本の台詞を口にするような淀みない調子だった。
「すみませんね。あなたの言うように、これも仕事なので。今日はですね、こちらの件について話を伺いたく思いまして」
テーブルに置かれた珈琲カップを除けながら、警部は二枚の写真を並べた。一枚は彼と意中の仲である市井志桜里、もう一枚は事件現場に残されていたルービックキューブの写真である。
「これが、何か」
「まず、こちらはあなたが半年前からお付き合いしている市井志桜里さん。お間違いないですか」
「ええ」
「あなたは、彼女を連れて恩田さんのアパートを訪れたことがあるそうですね」
「ああ、一度だけね。私の恋人だと、彼に紹介しました。最初は言うつもりもなかったんですけど、ふとした弾みで紹介することになって」
「そうでしたか。では、彼女が恩田さんのアパートへ行ったことはその一度きりしかなかったのでしょうか」
「そうです。別に恩田と会う目的だってないでしょうから」
「なるほど。あなたは恩田さんのアパートに何度がお邪魔することがあったようですね」
「この前もお話しましたけど、私の会社で企画された新商品について意見を聞きにね。商品を購入するお客目線での声は大切にする必要があります。恩田とは大学来の付き合いで、オープンに考えをぶつけ合うことができる関係でもありましたから。消費者としての正直な感想を常に彼には求めていました」宇都宮の声色に熱っぽさが伺える。警部も真摯な態度でその語りに耳を傾けていた。
「では、あなたが最後に恩田さんのアパートを訪れたのはいつのことでしょうか」
「先週の、日曜日ですね。そう、それこそこの新商品を恩田のところに持参しましたよ」
原色が目にも鮮やかなルービックキューブの写真を指して、宇都宮ははてと小首を傾げた。
「これが、何か事件に関係しているのでしょうか」
「あなたは、恩田さんの遺体を見つけた第一発見者でもあります」
「ええ」
「最初に恩田さんの部屋に足を踏み入れたとき、これを目にしませんでしたか」
「あのときはひどく動揺していましたから。部屋の隅にでも転がっていたのかもしれませんが、残念ながらそこまで意識が回りませんでした。恩田の姿を見て、軽く声をかけてもまったく反応がないと分かってからはすぐに部屋を出て救急車に通報しました。正直、部屋の中にいることが怖かったんですよ。それで、警察と消防隊の人たちが来るまではずっと玄関の外で足踏みしていました」
眉を曇らせ、思い出したくないというように首を何度も左右に動かす。小暮警部は手帳に走らせていたペンの動きを止め、隣で二人のやり取りを静聴している吾妻を横目に見た。「先生からは何か」と無言の問いかけを受け、推理作家は寝乱れたような黒髪を手で撫で付ける。
「そうですね――こちらのルービックキューブを開発した意図というのは」
写真をコツコツと指で叩いた男に、商品開発部に所属する男は初めて嬉しそうな笑みを零す。
「こちらのルービックキューブは通常よく目にするものとは一味違いましてね。ほら、いくつかの面に丸い凹みのようなものがいくつか見られるでしょう。あ、実物を見た方が早いかな」
リビングから姿を消した彼が再び戻ってきたとき、その手には写真と同様の姿形をしたルービックキューブが収まっていた。
「これですね。ぱっと見た目はどこにでもあるような、縦横三つずつ正方形のパーツが並んでいるものです。赤・青・黄・白・緑・オレンジの六色の各面を揃えるというお馴染みの遊び方も変わりません。ですが、ところどころにあるこの丸い凹みがちょっとしたアイデアになっていましてね」
確かに、各面九つの正方形で構成させたルービックキューブには、総計五十四の正方形のうちいくつかに丸い凹みを見ることができた。ただし、五十四すべての正方形にあるわけではなく、その配置は一見不規則である。
「色がバラバラの状態ではちょっと分からないのですが、こうやって各面の色を揃えていくと」
宇都宮はルービックキューブを迷いない手つきで操作していく。ものの一分ほどで、六色の面は綺麗に完成された。机上に置かれたそれに、小暮警部が丁重な断りを入れてから手を伸ばす。
「これは――サイコロですか」
「その通りです。各面の色を揃えたら、そのルービックキューブはサイコロにもなるんですよ。ちょっとした遊び心を加えた玩具、ってところです」
完成形となったルービックキューブは、青がサイコロの一、赤が二、緑が三、黄色が四、オレンジが五、そして白が六の数字に対応していた。警部は宇都宮考案の企画品を手の中でくるくると回しながら、「素敵な商品ですね」とお世辞か本音が判別つけ難い声で賞賛する。
「そのアイデアをさらに応用して、例えば」瞬時、言葉が切れる。喉が乾いたらしく、珈琲カップに手を伸ばし一気に中身を飲み干すと、再び自社製品のプレゼンテーションを再開した。
「例えば、視覚が不自由な人にもルービックキューブを楽しんでもらうために、五十四個の面に点字を埋め込もうかという話も出ています」
「確か、世界ではそのようなものが既に開発されているとも拝読しましたが」推理作家が声を発した。宇都宮はにこりと笑ってみせる。
「ええ。ですが、そのルービックキューブはすべての面が白で統一されていますよね。確かに、視覚が不自由だと色なんかついていたって意味がない――と思われがちですが、ひとつの商品でより多くの人に楽しんでほしい。もっと言えば、視覚に障害を持つ人にもそうでない人にも、同じ商品でパズルの世界を堪能してほしい。そうした思いも込めて、今後さらにあらゆる検討を重ねていく方針なんですよ」
「なるほど。大変貴重な意見を、どうも」
こくりと頭を動かし、吾妻は顎に手を当て思案体勢に入った。推理作家からのそれ以上の言葉はないと見た警部は、市井志桜里の隣に置かれた写真を改めて宇都宮の方へと差し出した。
「こちらのルービックキューブには、五十四の面の内のいくつかに被害者のものと思われる血痕が付着していました」
「え」
宇都宮は頓狂な声を上げると、鼻がくっつかんばかりに写真に顔を近づける。
「ああ、確かに。何となく、色が濃い部分がありますね」
「因みに、血痕が付着していたのは白のパーツ四つ、黄色のパーツ三つ、オレンジのパーツ二つ。全部で五十四の内九つの色パーツに、恩田功の血痕が残っていました」
「それって、これが恩田殺害の凶器ってことですか」
「いえ。仮にこのルービックキューブで犯人が恩田を殴ったのだとすると、こうした妙な血痕の付き方はしないでしょう。恩田自身、あるいは犯人のいずれかによって残されたものと、我々は睨んでいます」
「ああ、それっていわゆる、ダイイングメッセージってやつですか。刑事ドラマなんかでよくある」
写真をテーブルに戻し、宇都宮は不快そうに告げた。自分の開発した商品が殺人事件の道具に使われるなど以ての外だ、とその表情が物語っている。
「念のために伺いますが、ルービックキューブに残された血痕の配置などに、何か心当たりは」
「あるわけないでしょう。恩田が死に際に何かを伝えようとしたとか、あるいは犯人がわざと残したとか、ドラマの展開的にはそんなところですか」
気のない声で一蹴した宇都宮に、小暮警部は「そうですか」と二枚の写真を懐に戻した。推理作家は黙ったまま、目前の立方形パズルをぼんやりと眺めているだけであった。
「市井志桜里は、宇都宮が人殺しなどするばずがない、との一点張りです」
K県警察署内の廊下に、女性の涼やかな声が響く。
「恩田との関係は時折宇都宮から聞くこともあったようで、仲良しとまではいかずとも良好な関係を築いていたようだと証言しています。彼には恩田を殺す理由などあるわけがない、と」
「鈴坂くんの目から見て、市井志桜里の態度はどう思う」
先輩刑事から意見を求められ、K県警捜査一課所属の鈴坂万喜子は艶めいた黒髪をひと撫でする。
「彼女の宇都宮に対する想いは真剣なものかと。恩田について特段悪い印象も持っていなかったようですし、事件に関係しているのかは何とも言えないところですね」
「市井志桜里の事件当時のアリバイについてなんだが」自動販売機に小銭を投入しながら問うた推理作家に、鈴坂刑事は手帳を捲り淡々と報告を始める。
「街中にある『ミュージックラバーズ』というCDショップに立ち寄っていました。事件当時の十九時から二十時三十分までの間、店内の監視カメラに市井志桜里の姿が映り込んでいます。最終的に店を後にしたのが、二十時三十四分ですね。出入り口を映すカメラに彼女の姿が記録されていたのは、十八時五十七分と二十時三十四分のみ。この間、CDショップにいたものと思われます」
「店内には他に外部から出入りできるところは」
「外に通じる非常口がありますが、普段は鍵がかかっていて立ち入り禁止になっています。鍵は店のスタッフのみが所持しているので、彼女には無理でしょう。他には一切の出入り口はありません」
「店の従業員で、市井志桜里を目撃した者は」
「店長の風戸という男性は、市井志桜里を何度か目撃していました。ちなみに、ミュージックラバーズは宇都宮もよく利用する店だそうで、店長の風戸も宇都宮と顔見知りのようです」
「ふうん」
「先生は、市井志桜里が今回の事件に関わっているとお思いですか」
上背のある推理作家を見上げる女性刑事に、吾妻は「どうだかね」と手元で珈琲の缶を弄ぶ。
「何か、今回の事件で気がかりなことがおありなようで」
「気がかり、というほどのことでもないが。現場に残った灰皿がちょいと気にかかってね」
「あのガラス製の灰皿ですか。何かおかしなところでも」
「まず、現場にあったものを咄嗟に凶器として選んだところから見て、強盗を装った顔見知りの犯行である線が濃厚だ。玄関の鍵を無理やりこじ開けた形跡がないということは、明らかにプロの手口と推測される。そんな強盗のプロが、万一部屋の主と鉢合わせしたときのために何の護身道具も持参していないというのは考えにくい。しかも、結局現場からなくなっていたのは恩田の財布にあった数枚の現金札のみ。その上帰宅した恩田と鉢合わせともなりゃ、下調べも何もあったもんじゃない。以上のことから、強盗に装った第三者の犯行であるという仮定が成立する」
「その強盗に装った恩田殺害を企てたのが、市井志桜里だと?」猫目の女刑事は吾妻に猜疑の目を向ける。
「企てたわけではないだろう。恩田は頭部を複数回、しかも位置的には正面から殴打されたと見ていい。確か、鑑識はそういう見解でしたよね」
「ええ。右前頭部、額の上辺りを数回ですね」小暮警部は自身の右額辺りを拳で小さく叩いてみせた。
「意図的に恩田を殺害するなら、もっと確実な手段をとるはずだ。同じ撲殺にしても、背後から一発強打するなり、刃物で一刺しなり。恩田の傷は、どちらかというと犯人と揉め合った際にできたものと考えた方が自然かもしれない」
「犯人が、恩田に抵抗して負わせた傷――」
「あまり想像したくはないがな」皆まで言わず、吾妻は珈琲をぐいと仰ぐ。三人の間に流れる短い沈黙を破ったのは、廊下に慌しくこだまする急いた足音だった。
「小暮警部! ミュージックラバーズの監視カメラ、確認してきました」
息も荒く駆けつけてきたのは、同じく捜査一課の若宮暢典。栗色のウェーブがかった髪と丸っこい目が、愛嬌を振りまく子犬のようだと署内では何かと可愛がられている若刑事である。
「若宮、ご苦労だったな。それで」
「店を出る際に会計をする姿が映っていました。そのときの手元を見る限り、市井志桜里は左利きと思われます」
「警部。彼女に話を訊いた際、一度だけ携帯電話を使っていたときがありました。確か、左手で操作していたかと」
若宮に続き、鈴坂刑事が素早く指摘する。小暮警部は缶珈琲をすっかり飲み干したらしいロングコート姿の推理作家に向き直った。
「吾妻先生。市井志桜里に、もう一度事情を聞いてみようかと思います」
「もう少し揺さぶりをかける価値はありそうですね。警部」
「はい」
「市井志桜里についてはお任せします。現場をちょいと拝見したいのですがね」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
幕間 吾妻鑑の考察
「こちらが、恩田さんの部屋になります」
「どうも」
「私は一○一号室にいますので、何か御用の際はまたお声かけください」
「ええ。ありがとうございます」
内海玄造は背中を折り曲げるように一礼すると、階下へと姿を消した。吾妻に続き恩田殺害現場に足を踏み入れた鈴坂刑事は、部屋に入るなり木製の本棚にさっと近づいた。
「恩田がパズル好きだったというのは、本当のようですね」
『世界の絶景パズル特集』と題された厚みのある箱を棚から取り出す。箱の裏面に表記された説明文を精読する女性刑事に、吾妻は「パズルゲームはお好みか」と世間話のノリで声をかけた。
「嫌いではありませんが、趣味というほど熱心に取り組んだこともありませんね」
「どこかで聞いたような回答だ」小さく笑った長身の男に、鈴坂刑事は不思議そうに首を傾ける。
「ところで、先生は気になることがあるからとここに来られたのですよね」
「ああ。それなしにはパズルの謎は解けそうにもないからな」
「それ、とは?」
「パズルを完成――いや、崩すための鍵さ」
にやり、と意味ありげな微笑を見せた男だが、猫目の刑事は「意味が分かりません」と言いたげに相手を見つめるだけである。その後しばらく無言の捜索活動が続いたが、内海玄造がふらりと様子を見にやって来たのと、推理作家が「ビンゴだ」と口笛を吹いたのは同じ時であった。
「先生。探し物は見つかりましたか」
「ああ。鈴坂くん」
「はい」
「小暮警部に伝えてくれないか」
「事件は解決した、と?」
「いや、解決にはちと早い。だが、そのうち真相は解かれるだろうさ」満足げにひとり頷く推理作家の手元を覗き込み、鈴坂刑事はやはり「ピンときません」という表情を顔に張り付かせたまま、渋々といった様子で先輩刑事に電話をかけ始めた。恩田の部屋にいそいそと足を踏み入れた管理人が、興味深そうに吾妻の背後でキョロキョロしている。
「刑事さん。何か進展は見られましたかな」
「ええ、お陰様で。内海さん」
「はい、何でしょう」
「ちょうど良かった。ひとつ、伺いたいことがありまして」
くるりと向き直った男が予想外に長躯であることに驚いたのか、内海玄造はやや背中を反らせながら首だけを頷かせた。
「恩田功は、何か日常生活に不自由をしていたことはあったでしょうか」
「は、不自由と言いますと」
「例えば、足に怪我をしていたとか。聴覚に問題があったとか。あるいは、極端に視力が悪かったとか」
「いいえ。見る限りでは至って健常者でしたよ。部屋を契約するときにも特別そういった話は聞きませんでした」
「では、彼のご家族、あるいは縁者にそのような気のある人がいたとか」
「さあ。そこまでは」
「そうですか」
「あのお、それが何か」
「いいえ、個人的な興味です。どうも」
吾妻の一見脈絡のない問いに、管理人は頭上にクエスチョンマークを浮かべたような顔で腕を組む。一通りの連絡を終えたらしい女性刑事が、猫のような忍び足で部屋に舞い戻ってきた。
「さて、俺の野暮用は済んだことだし、退散するか」
「もうよろしいのですか」鈴坂刑事と内海玄造の異口同音に、推理作家は「ああ」とひとつ返事。その右手では、玩具のパッケージらしきものがペタンコに潰された状態になっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
真相 ダイスを崩せ
「あの。わざわざここでお話するのですか」
「いけませんか」
「いえ、いけないというわけでは。ですが、少し寒くはないですか」
ダッフルコートに身を包んだ宇都宮久司は、しきりに肩を竦める仕草をしてみせる。対して、手元でルービックキューブを忙しなく組み立てながら、ロングコートの男は呑気に口笛などを吹き始めた。
「あの。それで、話というのは」
「ああ、失敬。いえ、一度始めると存外に夢中になるものですね」
「ルービックキューブですか」男が掲げた立方体のそれを、宇都宮は目を細めて見やる。
「ええ。これは、あなたが独自に開発したというサイコロ型ルービックキューブです。正式な呼称は知りませんが」
「いいですよ。商品名なんてまだまだ未定ですから」
「そうですか。では、以降はこれをサイコロ型ルービックキューブと呼ばせてもらいましょう。余計な前置きは面倒なので、単刀直入に、結論から申し上げます。事件の起きた十二月一日、この部屋で恩田功さんを殺害したのは、あなた」
骨ばった手が、唖然とした顔の宇都宮を指した。
「――では、ありませんね。あなたの恋人である、市井志桜里さん。彼女が事件の犯人です」
飄々と言ってのけた吾妻鑑に、今まで事件の最重要容疑者と扱われていた男は一変、「何を言い出すんですか」と冷静さを欠いた声で叫んだ。
「人を散々容疑者扱いしておいて、今度は志桜里が恩田を殺したって! 警察の捜査はどこまで杜撰なんですか。第一、彼女にはアリバイがある。事件があった日、彼女は十九時から二十時三十分までミュージックラバーズというCDショップにいたはずだ。本人からそう聞いたし、警察も店内の防犯カメラで確認したと」
「警察の捜査が杜撰だとしたら、ミュージックラバーズの十二月一日の防犯カメラの映像がすり替えられたものであることにすら、おそらく気が付かなかったでしょうね」
絶句する宇都宮に、推理作家の背後で執事のように控えていた小暮警部が初めて口を挟む。
「ミュージックラバーズの店長、風戸さんでしたね。彼を聴取したところ、あっさりと白状しましたよ。『札束を押し付けられて、市井志桜里が今日の十九時から二十時三十分まで店にいたことにしてくれと頼み込まれた。彼女が宇都宮の可愛い恋人だということは知っていたし、有無を言わせぬ調子で金を積まれたらつい魔がさしてしまった』と」
「店長の風戸以外に、市井志桜里らしき人物を目撃した従業員はいなかった。警察の地道な捜査の結果ですよ。ついでに、私が途中で放り出したこれを最後まで仕上げてくれたこともね」
右手でルービックキューブを軽く持ち上げてみせた吾妻に、宇都宮は刺すような視線を投じている。
「とはいっても、弁護士の腕前によっては、市井志桜里は正当防衛ということで裁判に持ち込まれる可能性もあります。それに、あなたも」
サイコロ型ルービックキューブ、と名付けられたそれは、推理作家の手を離れ床に転がった。プラスチック製で見た目よりも軽いらしいパズル形玩具は、宇都宮の足元でぴたりと止まる。
「市井志桜里を庇い、事件現場に隠蔽工作を施した罪に問われることでしょう。恋人だけが刑務所送り、ということにはならないのでご安心ください」
「隠蔽工作? はっ、一体何を言っているのやら」
「随分と余裕があるようですね。それもそうでしょう。どんなにルービックキューブを完成させたところで、そこに残されたダイイングメッセージが解けるはずもない。そうなるように、あなたは細工をしたのですからね」
「細工、ですか」嘲笑する宇都宮に対し、吾妻は悠然と頷く。
「あなたは事件当夜、揉み合いの末に誤って恩田功を撲殺してしまった市井志桜里に呼び出された。そして、ここで屍となっている彼と対面する。賢いあなたは、その時点で救急隊を呼んでも手遅れだと瞬間的に悟ったのでしょう。そして、このままでは最愛の女性が殺人の罪で裁かれてしまうことも」
コートから煙草の箱をまさぐり出すと、一本を抜いた。だが、火を着ける気配はなく、ただ指先でくるくる回しながら先を続ける。
「最初に話を聞いただけでは、単純に犯人が被害者の前頭部を殴った、それだけのシンプルな状況を考えていました。ですが、犯人が視覚的に障害を持っていたとしたら話は違います」
宇都宮は、真相を訥々と語る男にはっとした顔を向ける。
「被害者は、右前頭部を複数回殴られていました。ですが、鑑識の話によるとそれぞれの傷痕の位置が少しずつずれていたのですね。右の額辺り、こめかみ、前頭葉部分――連続で殴打したにしては、この位置のずれが気にかかりました。これほどまでにバラバラになるものかと。ですか、犯人が視覚的に問題を抱えていたのだとしたら、至って自然なことです。犯人は感覚を頼りに、恩田を幾度か殴りつけた。そして、ふと気が付いたときには既に後の祭り。目が見えないのなら、恩田がとうに反撃してこないという状態も即座には判断できなかったのでしょう。恩田の気配が途切れてようやく、自分が犯した事の重大さを知った」
「それが――それが、どう志桜里と関係するのですか」
「関係するも何もないでしょう。市井志桜里さんは視覚障害者ですよね。さすがにそれをごまかすことはできません。尤も、あなただってごまかすつもりなどないでしょうが」
「無論ですよ。私が言いたいのは、恩田を殺した人間が仮に視覚に障害のある人物だったとしても、それがどうして志桜里と結びつくのかということです」
「市井志桜里と結びつく、というよりも、あなたと結びついた故に彼女に辿り着いた、という方が正しいでしょうね」
「私に?」宇都宮は困惑の色を隠そうともしないまま、問い返す。
「ここで恩田の遺体を目の当たりにし、市井志桜里からおよその事情を聞きだしたあなたは、恩田が強盗と鉢合わせをして襲われたことにしようと画策した。恩田の財布から現金の札を抜き取り、この六畳間からすべての指紋を綺麗に拭き取った。そして、絶命した恩田が手にしていたものを見て、警察の捜査をかく乱させようと咄嗟に思い立った」
「私が、警察の目をごまかそうとしたということですか。さすがにそこまでは頭が働きませんよ。私はパズルに関してはそれなりの才があると自負していますが、推理に関しては完全に範疇外ですからね」
「推理の世界と無縁であったとしても、血痕がこすり付けられたルービックキューブの面を見て、あなたは直感的に察したのではないですか。『これは、恩田が市井志桜里を示すために残したダイイングメッセージではないか』と。何より、血痕が付いた面を見たあなたは、すぐにピンときたはずです」
「何故、そんなことが断言できるのですか」
畳み掛けるような口調の男をしばらく無言で眺めていた吾妻だったが、やがて試合の結果を宣言する審判のように、
「点字、です」
短く、だがきっぱりと言い放った。宇都宮は深い呼吸ひとつ分の沈黙の後、「そうですか」と力なく笑い床にぺたりと尻を付く。
「あなたは、恩田功の血痕がこびり付いた面を見た瞬間、脳内にルーブックキューブの展開図を浮かべたのではないですか。そして、血痕があるパーツを並び替えると、それらの配列がある点字の文字配置に当てはまるという事実に直面した。
あなたが開発したサイコロ型ルービックキューブは、日本配色のものですね。それを参考にすると、青がサイコロの一、赤が二、緑が三、黄色が四、オレンジが五、そして白が六の数字にそれぞれ対応しています。これは、この部屋から押収したルービックキューブのパッケージにきちんと記載されています」
小暮警部が、拉げた紙製のパッケージを丁寧に広げてみせる。軽く首を回した宇都宮は、無言で肩を小さく動かすだけだ。
「血痕の部分とルービックキューブの展開図とを照らし合わせてみると、サイコロの四に当たる黄色の面では、三つのパーツに血痕が残されています。同じく、五に当たるオレンジの面では二つ、六に当たる白の面では四つ。一見規則性のないこの並びは、点字で考えると綺麗に説明をつけることができます。
白の面で血痕が付いたパーツの並びは、点字でいうところの『シ』、オレンジの面の血痕部分の並びは『ヲ』、そして黄色の面は『リ』――出来過ぎた偶然ですね。私の書く話などよりよほど小説的だ」
吾妻のバリトンボイスは、微かに皮肉交じりだった。畳に座り込み頭を垂れていた宇都宮は、のそりと胡坐に体勢を変えると、足元で沈黙するルービックキューブを手に取り、転回させた。カチカチ、という無機質な音を立てながら、立体パズルの模様が次々に変化していく。
「無意識でした。気が付けば、ルービックキューブをバラバラに解体して、また組み立て直して。けれど、パッケージのことは念頭にありませんでしたよ。それを回収していれば、もしかすると完全犯罪になっていたのでしょうか」
「完全犯罪か。そんなもの、この世にありはしない」
推理作家は吐き捨てた。宇都宮は悲しげに顔を歪めると、ルービックキューブから手を離す。ものの一分も経過しないうちに六面を鮮やかな色に染めた玩具は、男の賭けを勝利の女神へと導いてはくれなかった。