吾輩は侵入者である
満子は、吾輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。
いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。
しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。
吾輩は再び満子の隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。
吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。
吾輩が最後につまみ出されたときに、満子の手には、食べ残しの魚が乗った皿があり、それを軒先に置いた。
満子はそれを食ろうて、どこかえ行けと言う態度である。
腹が減っていた吾輩は、魚の骨を貪るように食らい。空腹が満たされると疲労困憊していたのか、そのまま軒先で深い眠りに落ちた。
・・・目が覚めた時、暖かい場所である事は、瞬時に理解出来た。
そこは段ボール箱の中に、粗末な布が敷き詰められている吾輩の寝床である。
段ボール箱から外を見ると、そこは何度も叩きだされた満子の家の中であった。
かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極める事にしたのである。
名前はベルと名付けられた。由来は滅多に人が訪ねて来ない満子の家に、人が訪ねて来た時、ベル代わりにニャーニャ泣くからである。
吾輩もこの生活を守る為に、出来得る限り吾輩を入れてくれた満子の傍にいる事をつとめた。
朝満子がお茶を飲むときは必ず彼の膝の上に乗る。
満子が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。
これはあながち満子が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。
その後いろいろ経験の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は椽側へ寝る事とした。
しかし一番心持の好いのは夜に入って満子の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。
満子との平和な生活は、長い長い間続いた。どれくらい? と問われても吾輩には答えられない位、長い時間である。
ある日、陽が暮れても満子が家に戻って来なかった。
たまに、買い物や冠婚葬祭で街へ行き、夜遅くに帰ってくる事もあるので、気にせずそのまま寝た・・・
しかし朝になっても満子が帰って来ない、一大事だ、飯がないのである。
満子の帰りを待ち、窓際でニャーニャと泣きながら外を見ていたら、また陽が暮れてしまった。
「ん?!」
漆黒の闇の中、吾輩は人間とも獣とも違う臭いを感じると、静かに玄関の扉が開いたので部屋の片隅に身を隠した。
見た事がない姿で嗅いだ事がない臭いの侵入者達は、部屋の家具や満子の衣類などを外へ持ち運び始めた。
遂に、侵入者と目が合ってしまった吾輩は、恐怖で身がすくみ動くことが出来ない。
吾輩は、みかんの段ボール箱に衣類と共に入れられ、何処かに運び出されてしまった。
真っ暗な狭い空間で、上下左右の大きな揺れに、胸が悪くなり、吐き気も催してきた・・・デジャヴである。
吾輩は段ボール箱の中で、子猫の時に人間の父親に捨てられた事を思い出していた。
暫くぐったりしていると、揺れは止まった。
不安でついニャーニャと泣いてしまったが、ベル~ベル~と吾輩を呼ぶ満子の声がした。
吾輩は、必死にニャーニャと泣き続けると、段ボール箱が開けられ視界が広がると、そこに笑顔の満子がおり吾輩を抱き上げた。久しぶりの満子の温もりと顎周りを撫でられる至福の時を過ごした。
ふと冷静に戻り、辺りを見渡すとそこはかなり広い部屋で、その片隅に見慣れた家具が並べられ、満子の居間が再現されていた。
吾輩は、満子が引っ越しした事をやっと理解したのだ。
山小屋の満子の家には、滅多に訪れる人間はいなかったのだが、ここにはたくさんの者達が出入りしている。それも人間とも獣とも違う奇妙な者達である。
その中の鳥臭い人間の姿をした少女が、吾輩の心へ直接話し掛けてきたのである。
突然の事に戸惑っていると、その少女は、吾輩の戸惑い掻き消すような笑顔を浮かべ、次々と話し掛けて来た。
長い付き合いの満子でさえ、その口調や振る舞いでなんとか喜怒哀楽を理解する程度であるのに、少女はセシリアと名乗り自己紹介から始まり、この場所の説明や注意事項、吾輩の処遇まで説明したのである。
これには、吾輩も強い刺激を受け、稲光が走るように頭の深部がチカチカと痛む、それもただの頭痛とは違う。脳が肥大し、内側から頭蓋を圧迫している感覚だ。
痛みが消えた頃、吾輩に自我が目覚め、今こうして半生を振り返っているのである。