第壱話
軽く頭痛がする、体も重い。今日はいつもよりも症状が重い。いつもなら身体に少し倦怠感がある程度なのだが、此処は他に比べて障気が溜まりやすくなっている様で、障気に当てられやすい自分にとってはあまり長居したくない場所である。
空に浮かびながら爛々と輝くあの紅い月が怨めしい。
だが、ここにはアイツがいる。確かな情報があるわけではないが、この地にはアイツの気配がする。今まで微かに繋がっていた細い糸が、ここにきて一本の太い縄になったような、そんな感覚があるからだ。
そうやって、物思いにふけていたからだろう、周囲の警戒を怠り、完全に油断していた自分は、真横の路地から飛び出してきた何かに、ぶつかる寸前まで気づけなかった。
踏み出した足に力を込め後ろに下がる、それと同時に何か鋭利なものが自分の鼻先を掠めた。飛び出してきた影は、目の前にあった建屋にぶつからないようくるりと器用に向きを変え、此方の方を向く。
自分はそのまま後ろへ二、三歩跳びながら、腰に差してある刀に手をかけた。
相手と視線がかち合う。紅く、不気味な月明かりが相手の姿を照らす。
「でかいな……」
呟くようにして声が唇から漏れた。
鋭く尖った長い爪、骨と皮だけの体にどす黒い肌、此方をギロリと睨みつける濁った黄色い瞳───。姿形は人に近いが、人よりは二回りほど大きい。
「アァ、ウマソウナニオイシテルナオマエ。オレ、ハラヘッタ。ダカラ、オマエクウ」
喋る相手の声は低く濁っていて、言葉を発する口からは刃物のような歯が覗いていた。
「やはり餓鬼か……。通常の個体よりでかいから別の妖かとも思ったが……。どちらにせよ厄介な相手であることは間違いないな」
でかい図体のわりに機敏で、その上小回りも利く。今まで何度となく餓鬼と遭遇してきているので相手の弱点などはわかってはいるが、ここまでの個体に出会ったことはなかった。
餓鬼の弱点は心臓、それを破壊すれば相手は灰になる。しかし、体格や攻撃範囲では此方の方が圧倒的に不利。だからと言って、長引かせるのも得策とは言えないだろう。普通に考えて正攻法で攻めても勝機はないと思われる。
永遠とも思われた静寂の時。しかしそれは先に相手が動いたことにより破られる。
約二丈ほどあった間合いを一瞬にして詰められる。
「……っ!!」
頭上に迫る鋭利な爪を、下から切り上げるようにして抜刀した刀で防ぐ。ガキンッ、という音と共に交わった刀と爪の間から火花が散り、均衡状態になる。しかしそれだけでは終わらない、相手はそのまま更に力を加え、刀ごと自分を地面に押さえつけようとしてくる。
上からの力と下からの力では、当然上から加わる力の方が有利である。それに加え自分はあまり力のある方ではない。押さえつけようとしてくる力に対して、早くも片膝を立てて受けるだけで精一杯である。腕がぶるぶると震え、爪が目前にまで迫る。
「ハラヘッタ。タベル、タベルタベルタベル。アヒャッアヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!」
目を血走らせたそいつは狂った笑い声をあげながら、刃物のような爪で薙払おうとしてくる。自分はそれを前転して相手の股下を潜り抜けて躱し、直ぐに相手へと向き直る。
相手は先程の一撃を躱されたことが気にくわなかったのか、振り向き様に怒りの砲哮をあげた。密度の高い障気を含んだ音の波動を、自分はもろに浴びてしまう。
その途端、自分の体は鉛のようにズシンと重くなり、酷い目眩に襲われる。
目眩は一瞬だったが、その時、自分に隙が生じた。無論、敵がその好機を見逃す筈もない。
口の端をニイッと上げ、不気味な笑みを浮かべながら、攻撃を仕掛けてくる。自分はそれを咄嗟に刀で受けたが、踏ん張りの効かない状態で、尚且つ自分より力の強い者の攻撃を受け止めきれる筈もなく、横に薙払われ、容赦なく地面に叩きつけられる。
「がはっ……!!」
「ヒャヒャッ!!アタッタ、アタッタヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!!!」
そいつは童児のように笑いながら、しかしその目には狂気を携えて、ゆらりゆらりと一歩、また一歩と近づいてくる。
強打した背中が痛むが、動けない程ではない。さっきの攻撃も刀のお蔭で肉を抉られることはなかった。
戦況としては悪いが、隙を作らせるなら好機であるといえるだろう。相手は次の一撃を決めれば勝てると思っているからか、油断している。一か八かの賭けになるが、何もせずこのまま喰われるよりかはましだろう。それに自分には死ねない理由がある。
心臓がドクンドクンと大きく打っているのがわかる。呼吸が速くなり、身体の全神経が張り詰める。だが、視線は絶対に逸らさない。
「──ッ!!」
「ガァッ!?!?」
餓鬼が目の前に来たのと同時に、奴の目に向かって砂を投げつけ目潰しを喰らわせる。そして、直ぐ様起き上がって体勢を整え、怯んだ相手の心臓へと刀を突きたてる。刀を通じて核を破壊する確かな手応えを感じた。
その瞬間から、巨大な餓鬼の姿がボロボロと崩れだし、そして数秒後には大きな灰の山となった。
「はぁっ、はぁ……、げほっ、がほっ……!!!!何とか、殺れ、た……」
痛む背中に、込み上げてくる吐き気。障気にあてられ朦朧とする意識の中で最後に見えたのは───鈍く光る紅い月だった。




