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蓮井 遼 掌編小説集「ラベンダー」収録例 (詩集は除く)

掌編「届けられた手紙」

作者: 蓮井 遼

お読みいただき有難うございます。



 ここは、命の電話相談室事務局である。何も辛いところがない方は、縁の薄いかもしれないが、精神的に崖っぷちに追い詰められていて、なほ何かに救いを求める気のある者にとっては悩みを聞いてくれるものとして重宝されているのである。が、やはりそこで連絡したからといって、絶望的なものに取り込まれ命を落としてしまう人もいるのが現状である、亡くなった方にインタビューすることはできないので、基準からやや少しずれているだろうが。


 その、事務局に郵便が届いた。一通の封筒であったが、中にはなにもどうしようもないものに対して矛先を向けることができない方はこうやって、事務局に送ることがあるのだ。そういうものも正に命にかかわることであり、局員はじっと傾聴するしかないのであった。だが、局員も傷つきやすい人間であるので、内容が深刻であっても、思い詰めずに他人事だと割り切る潔さも必要だった。人数が少なくて電話が多ければ、需要だけ膨れ上がり、流れ作業的に精神を保つ必要があるのである。局員の数名は自分の考えるべき姿勢と実際の時間に追われ、矢継ぎ早に飛び交うような悩みの流れに対処するしかない現実との間に違和感を覚え、辞めてしまうものもいる。

 最近は、派遣で局には赴かないボランティアも増えてきているので、一人一人に合わせた対応ができるようにもなってきている。だが、深刻な悩みを受け入れるものという職種には、自分で務まるのか不安を覚えるものが多いがため、中々ボランティアも爆発的には増えないのであった。

 局員の一人が郵便の封を開けてみると、そこに便箋が数枚入っていたので、その人は目を通した。手紙だった封筒の内容は非常に濃く悲しいものだったため、その人はこの日、沈んだ気持ちを受け負わざるをえなかった。ただ、幸いなことに、翌日になれば、気持ちを発散させてまた姿勢を保つことができたのであった。その便箋にはこのような内容が書かれてあった。


「相談室 局員様御中


拝啓


本来であれば、私で受け止めねばなりませんのでありますが、その心の持ちようを保てないがためにこうして私の感じたことを文面にすることになりました。それを送ったのかどうかは最終的に私の気まぐれでありますので、この手紙を誰かが読んで下さるということは一つ私の思いを誰かが受け止めるということでして、少し私も救われる感じを覚えますので、ふとポストに滑り込ませるかもしれません。



私は、二年前の都内で起きた交通事故で亡くなった方の友人でいます。自分から、友人というのも変なことですが、その友のことが念頭にあるのですから、それは友人と明記していいのではないかなと思いますし、実際に在学のころは時間を共有させていただきました。友達のみっちゃんは不眠症のバス運転手の不注意により、他の乗客もろとも、ガードレールに衝突したと同時に道に転落して、バスの中で即死しました。その事故からもう二年経つのは早いことのようにも感じます。みっちゃんと私は同じ歳でした。でも、それから私は二つ歳を経てしまったことになります。初めのころは友達が死んでしまった悲しみや喪失感に戸惑いを受け、思う様に身体が動けませんでした。あのバスのなかには観光ツアーバスだったため、本当に色々な年代の方が乗っていたのですが、家族でも若いカップルでもご高齢の夫婦でも、皆死んでしまったことにショックを隠せないのは私だけではないと思いますが、私は時が経つことによってあることに気づきました。周りの人はもうそのことの印象がとても薄まって来ているのだということを。ただ、私は他の人にみっちゃんのことは話しませんでしたので、直接は確認していないのですが、このような事故や事件というのは珍しくなく、次々と新しい死亡の連絡がニュースで届きますから、人々はそっちの方に目を向いて、この事故については触れなくなるがために忘れてしまうのも不思議ではないのかもしれません。だって、人々の皆が悲しみに塞ぎこんで、なにもできなくなったら、それこそ労働は円滑に機能できませんので、ライフラインの管理や食糧の運送までおろそかになるのかもしれないのですから、こういうことがあっても、取り敢えず社会は運用できるようになっているのですから、それは有難いことかなと感じます。

 この前、私は職場の同僚と居酒屋で話していたのですが、その際に、同僚が上司の知人の知人が自殺したと言う話を聞きました。その同僚は、ただあまり悲しみに深く根ざすことはできずに『間接的に知り合っていてもショックはあまり大きくないのね』と言っていたのを聞いて、私は違和感と戸惑いを隠せませんでした。私がみっちゃんの全くの他人であるなら、それは全然悲しめないことなのかなと思うのでした。死というものが、私のなかで向き合わねばならなくなるのですから、当然のように私は書や先人の教え、宗教のなかにでもその対応法を探しました。ただ、私が生き続けているのに、その面影が刻まれているみっちゃんにもう再会することできないし、みっちゃんのご家族の元気の失った表情を見ると、私にはみっちゃんがいないということがただ悔しくて仕方ないのです。

 それでも、生きることはまたそれで苦しいことでもありますから、誰かが生きることから遠ざかろうとしてもそれは仕方ないことかなとも思うのです。私は人間は社会的動物である前に、生理的現象的な生物であることの方が尊く感じてしまうようになりました。多分、現代に侵されているのは、礼節よりも進歩か退化した行き過ぎている思いやりなのだと思います。こういうものは、各々が気づかねばならないものですが、そういうものが当然であるかのように映像が町の至る所に流れて、私は皆病んでもおかしくないなと思うのです。ずっとそれに監視させられているようなそんな気さえするのです、またはこれは現実の人間はもっと傷のつけあいや無関心も入り混じる不純物であるということと宣伝映像に登場するイメージとの溝が私たちに日陰や恥を見せつけ、それで辛く感じるのだろうと思うのです。


 でも、だからといって、例えば、毎年会っていたみっちゃんとの約束の日にもう会えなくなったということはとても私には辛いのでした。いっそ、私も死んでしまえば楽になるかなと思ったこともあるのですが、私は生きていく限りはみっちゃんと別れることができないので、今は仕方なく生きているところもあります。


 小中学校の頃、当たり前のように習いますが、紛争や飢えのない平和な国は世界全国にはないことが私たちの生きている状態に救いはないようなそんなことを改めて感じたりしました。世界の古い歴史のなかには、戦って死ぬことを誉とする人々もいたり、自分達の信じるもの以外への人々には駆逐するべきだという野蛮な思想も感じ取れました。今のような社会に慣れてしまうと、このような思想や意向はとんでもないことだと思うかもしれませんが、ですが私には今の洗練されていることの方が不自然であることを強く感じるのでした。

 多分、私にとってみっちゃんという友人は、同族の味方という存在だったのだと思います。だから、彼女の失うことは私にはとても耐えられないことでした。社会というものは人々が気づいてもそれを変えさせてくれない停滞への圧力があるのですから、今、大事なことは現実の人間というのが、いかに野蛮で影響を受けやすいことかを知り、考えることだと思うのです。


 あのバスの運転手の手取りが少なく、人員も少ないがために止むを得ず運転したのかはわかりません。ただ、いずれにしろ注意力というのは体調が沈み、気力が虚ろになれば散漫するものです。そういうことがわかるにしてもなほ、運転せざるをえなかった理由というのがあるのですから、それはいったい何なのでしょうか?そして、私たちはこの運転手一人を責めることはできないのです、でも会社には会社の運用に限界があった、人員の配置であれば会社を責めるべきです、ですが、この会社の日ごろの利用によって助かっている人も大勢いるはずです、たとえ日常的にではなくても、温泉旅行にこの格安ツアーを利用したことがあるとか、それならば会社という組織に責任を負わせることも本当は望ましくないのです。

私は、悪のない死というものが、常々、悲しみの捌け口がなくとても困るものだと感じます。多くの組織や人々は自分の失態においては、誰も責めはできないので、自らを責め悩み、変えていかなければならないのだと思います。それでも、残念なことに事故というのは確率的なものですから、ゼロにはならないのだと思います。

 だけど、私やあのバスに乗っていたお客さんの家族のように、悪のないものによって死なされてしまうことへは堪え難くあって、やはり誰かに向けざるをえないのです。一人の親友の死というものは私に洞察や分析を深くさせました。一般的に自然的な死というものに直面すれば、動揺以外には何もないのではないかと感じるのです。そう考えると大多数の健全に生存している人はなんとまあ幸運なことだと思うのです。それでも、生存している人はそれはそれで、現代的な悩みに侵されたり、状況によっては孤独に陥らざるをえなくなって、現状を脱却したいと思うのかもしれません。そこに死というものに悲しむ人がいるのだから、死ぬことを辞めさないという提言をすることはできない大まかな理由があるのだと思います。なぜなら、一人一人の苦しみ自体はその人でなければ誰も救えないのですから。


 実はこれを書いている今日は、みっちゃんとの約束の日でもあるのです、彼女は彼女なりに生きているなかで悩みを抱えていました。それから解放されたと思うなら、一人でいる私には嬉しいのかもしれないし、彼女と再会して、変わり行く私達を共有できないのであるなら、それは寂しいことだと思うのです。

生死にも多様な考え方があるということは、私の文面においても混乱を招きました。でも、正直なところ、私はそういう迷いを誰かに伝えたかったのかもしれません。仮に整理されて、気持ちがすっきりしても、みっちゃんには再会できないし、私は歳を経ながら今は生き続けているのですから。一人の存在というものの存在が大きくても、それを受け止めるものがいなければ、つまり私という存在がいなければ、その人の存在も私の外に出てしまいます。社会においては、彼女も私も墓の名として刻まれるかもしれませんが、それも長い間過ぎれば無縁仏と化したただの死者になります。そうなるまえに今は、何をしたらよいのでしょうか、私にはわかりたくありません。彼女と遊べ、話することのできた時間は私には恵まれていました。

 人が死ねば残るのは作り出したものになります、それは教えにしても作品にしてもそうですが、それを受け止める人の選択というのもまた、ものとのご縁になるのではないかと私は思います。そうやって関わり合って生きないと気持ちが落ち着かないのかもしれませんが、そのような関わりは特定の関係にあって、かつそれは広い視野でものや人の対象は変わって存在していくのでしょう。ですが、それを極限に時間を延ばしてしまえば、何も存在しなかったことになるのです。

 やがて、存在しなくなる日のために私たちは存在していることはどうしても拭えません。存在しないということなのですから、私は存在しなくてもよいのだということも拭えません。でも、私は気づいています、彼女という友人を失って、彼女のことを忘れる気にはなれないのだということを。でも、やっぱり存在しなくなるのですから、その過程への老化や幼児化が進めば、彼女も存在しなくなる日はいつか来るのです。海を飛ぶ夢という映画がありましたが、あの映画で扱われた安楽死した患者を最後まで介護した人もその彼の存在を意識的に失ってしまいました。彼女はそのまま生き続けていますが、言葉では存在と忘却、死の間を説明できないのかもしれません。今、私はなんと書いたらよいのか迷っています。今、このときにおいては、なんと書いていいのかについて迷うがために、みっちゃんの存在を忘れていました。多分、私も近しい関係にありながら泡のように彼女を忘れたり思い出したりすることができるのでしょう。年に一度しか会わなかったのですが、今日という約束の日は私には楽しみの日でした。それが亡くなったといえばそうですし、私の中に彼女の遣り残していたことが刻み込まれた、そういう日に変わったのだと思います。生というものが無闇に生きていないだからこそ、死もただの現象的な光では落ち着かないのだと思います。

 もし、この手紙が届いたのなら、より死と残された生を考える為に生きてくれるなら嬉しく思います。何もないと言うのはつまらないものですから、送るかどうかはポストと私の手が決めますが、送らないにしても破ることはできないでしょう。これは私が彼女を介して思い続けた大切なものですから。あ、でもそれを送るのだから私には必要ないのですね、また迷うことばかりです。


                                      敬具

                                     中原 香 」



この手紙は事務局に保蔵されることになった。目を通した局員には、相当こたえたものになったのはその後の会話でわかることだった。生きてない局員などどこにもいないのだから。






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