6.イリスの治療
少年を追い、イリスが細く入り組んだ路地を疾走していく。この道の先にイリスの経営を改善する道筋があるのかもしれない。だから幸助はその後ろを、息も絶え絶えになりながらついていく。
それから走ること三分。幸助の体感時間で約三十分後。
「ここだよ! 早く!」
少年はあばら屋のような家へイリスを招く。
外見からして一間しかないのであろう小さな部屋に、かまどのある土間というシンプルな家だった。これで部屋の中央に囲炉裏でもあれば、日本の昔話に出てきそうな家だ。その家の片隅には、藁を敷いただけのベッドに横たわる女性がいた。顔色が悪い。この人が患者さんで間違いないだろう。
「あらあら。だいぶ我慢しちゃったのね」
女性は脂汗を流しながら、ヒューヒューと苦しそうに呼吸をしていた。相当つらそうにしている。
つい最近幸助が罹患した病気とは容体が違いすぎる。イリスの声掛けにチラと目を動かすだけで、言葉を発することもできない状況だった。
「でももう大丈夫よ。君、カップにぬるめのお湯を入れてきてちょうだい」
テキパキと女性を触診しながら、イリスは少年へ指示を飛ばす。
「分かった!」
カップを手にすると、少年はバタバタと足音を立て外へ出て行った。近所からもらってくる方が、今から火をくべるよりも早いと判断したのだろう。
そんなやり取りをしている間、幸助はイリスの一挙手一投足を見守っていた。なぜなら、触診をしているイリスの手から、魔力が出ているのを感じたからだ。
攻撃的でなく暖かい。そんな雰囲気が伝わる魔力が、緑色の靄となって女性の全身を包んでいる。
アレストリアの魔法書店で魔法の手ほどきを受けた後、幸助は魔力が見えるようになった。しかし、同様の能力を持った人に、今のところ会っていない。
だからきっとこの様子も幸助にしか見えていないのだろう、そんなイリスの様子を観察していたところ――――
「んっ」
イリスがそんな声を上げたかと思うと、突如、女性を包んでいた靄が全身へ吸い込まれていった。なにが起こったのか!? こんな光景、初めて見る。幸助があっけにとられている時。ちょうどそのタイミングで、玄関からバタバタと音が聞こえてきた。
「お湯、隣からもらってきた!」
「ありがと」
イリスはポーチの中から深緑色をしたビー玉くらいの丸薬を取り出すと、それを少年から受け取ったカップへと投入。しっかりと混ぜ始めた。たちまち部屋にはイリスの店と同じような香りが充満する。
「君、よく見ておくんだよ」
「うん!」
先ほどよりも幾分か顔色が良くなった女性の背中を支えて起こすと、口元にカップを当てる。
「さあ、これを飲んでね。すぐに楽になるから」
イリスの声に、女性はしっかりとカップを見据えると、少しずつ、また少しずつ時間をかけてゆっくりとその薬を体へと取り込んでいく。驚くことに、喉がコク、コク、と動くたびに、その青白い表情が血色を帯びていった。
それから一分もしないうちに、女性の顔は見違えるほどよくなった。ものすごい変化だ。
イリスは女性を再び横にすると、少年へと向き合う。
「今の見てた? こうやって今夜と明日の朝もこの薬を飲ませて。それでもよくならなかったらまた来てちょうだい」
イリスは紙に包んだ丸薬を二つ、少年へ渡す。
「分かった。ありがと! でも……」
一瞬だけ明るくなった少年の表情は、次の瞬間には一気に冴えないものとなった。
「どうしたの?」
「うち、お金がない」
支払いのことを気にしていたようだ。
「そっか。それならねぇ……」
イリスは小さな部屋を見渡す。
そしてなにかを見つけたようで、台所へ足を運ぶ。
「お題の代わりにこの人参、頂いてもいいかしら? ちょうど薬に混ぜる用の材料を切らしてたの」
イリスが手にしたのは、とうの昔に干からびてしまった、人参だった物だ。これは到底食用にはならないだろう。
「もちろん!」
当然のごとく少年は快諾した。本当にこれが治療の対価でいいのだろうか。医療費としては「超」がつくほどの格安だ。妹のアリスが言っていた悩みが分かった気がする。
しかしその反面、確かにここで商品相応の報酬をもらうことは難しいのかもしれない。がっつりと取り立てたら、来週には親子ともども餓死してしまいかねないのだから。
「で、このおじさん、誰?」
幸助と少年の視線が合う。
「え、えっと……」
無我夢中で着いてきたが、イリスの商売繁盛のため見学をしに来たとは言いにくかった。
だから幸助は助けを求めるようにイリスへと視線を送る。
「……うーん。誰でしたっけ?」
イリスはコテンと首をかしげた。
◇
それからすぐに、名前を思い出してもらった幸助とイリスは店へと戻った。
「ただいま」
「あっ、お姉ちゃん! どうだった?」
「もう大丈夫よ。ねえ、見てみてアリス。こんなに渋い人参、頂いちゃった」
アリスはイリスが懐から取り出した人参を見て固まる。
「……お姉ちゃん、薬のお代、もしかしてそれだけ?」
「そうよ?」
イリスは嬉しそうにニンジンを抱えると、そのまま奥の調薬室へと行ってしまった。
その場には苦笑するアリスと幸助だけが残った。
「ほら、コースケ。見てたからよくわかったでしょ? お姉ちゃん、いつもこんな感じだから」
人参という名の謎の物体をもらって完全に満足している。もう完全に仕事をやり切った感があふれていた。
「うん……」
アリスの抱える悩みは、痛いほどよくわかった。
しかし、付いて行ってよかった。イリスのしたことは、完全に往診そのものだった。そして持ち前の魔力を使って患者を治療している。あの時、薬を飲む前に症状が緩和されていたから、魔力がある程度の治癒力を発揮したことは間違いない。
「だからお姉ちゃんには困ってるの。これじゃあ原材料代にもならないよ」
往診といえば、他の薬店でも往診をしている店はあるようだが、扱っている薬そのものの品質が品質のため、結果は推して知るべしといったところだ。だからほとんどこの町には往診という概念がないと言っても過言ではない。
もしかしたら、ここに店が生き残る道が残されているのではないだろうか。幸助はそう感じた。
「――ねえ、コースケ、話きいてるの?」
「あっ、はい。ええっと?」
自分の思考の世界に入っていたため、聞いていなかった。
「もう。だから、いっつもこんなことばっかしてるから、お金に困ってるの」
「そのことなんですけど……」
「なに、いいアイディアでも浮かんだの?」
「はい。もう一度イリスさんを呼んでもらってもいいですか?」
幸助の言葉で、アリスは飛ぶように隣の部屋へと向かった。
「あら、どうしたの?」
それから程なくして、手に先ほどの人参を持ったままのイリスが幸助の待つダイニングへやって来た。少しだけ人参の先端が削られている。既に何かの調合に使っていたのだろうか。
いや、イリスの口元にオレンジ色の繊維状の物がついていた。もしかして……そのまま齧った?
突っ込んではダメだ。幸助は見ぬふりを決め込むと、気になっていたことを質問する。
「イリスさん。患者さんの様子を見ていた時、魔力を使ってましたよね?」
「魔力?」
はて、といった様子でイリスは人差し指を唇に当てる。
やはり本人は気づいていないようだ。
「なんだか。病気を見ていると、じわじわぁってなって、ふわぁってのが流れてる感じはしますけど……私は魔法は使えませんよ?」
しかしイリスの言ったその感覚は魔力の流れだ。やはり無意識に魔法を使って治療している。
「やっぱり間違いありません」
「なにが?」
アリスが問いかける。
「イリスさんの治癒能力です」
「そりゃそうでしょ。手遅れじゃなきゃ、いつだって完璧に治してるんだもん」
アリスが食いつくように言った。
「でも残念ながら、そのすばらしい能力を適切な方法で現金化することが出来ていません。やはりそこが商売として大きな問題です」
「そんなこと知ってるよ。で、幸助はなにかいいアイディア、浮かんだの?」
幸助は感じていた。
この界隈はスラム街といってもいい場所だ。ここに治療費を払える見込み客などいない。しかし、新たな店を商業街に構えるお金も持っていない。
とはいえこんな能力を持っている人を、他の人たちがあまり寄り付かない界隈でくすぶらせているのは国の損失だ。
幸助の脳内に今すべきことが二つ浮かんだ。
「アリスさん、生活をしていけるように――いや、それ以上の生活を手に入れるための方法が二つあります」
幸助は手を前に出し二本の指を立てる。
「一つ目は、貴族のお抱え薬師になること。この町の領主様でしたら紹介しますよ?」
「それは嫌だね。宮仕えは肌に合わないから」
アリスが即答した。
幸助はイリスへと視線を切り替える。
「私も、同じ。だって、失敗したら首を切られるのよね? スパーンって」
「さすがにそれは……」
ないとは思うが、言い切ることもできない。
幸助が強制することでもないので、本人がそう言うならば仕方ない。
「それなら二つ目ですけど……」
立地が悪い。お金がない。それならば自分で向かうしかない。
きっとイリスは魔力で病気の診断ができている。
ならばやることは一つしかない。
だから幸助はイリスの目をしっかりと見てこう言った。
「イリスさん、往診を始めましょう」




