メルグロフ
2・メルグロフ
メルグロフがそのひとに出会ったのは、彼がディオンを拾い上げるより数十年も昔のことだった。
そのころのメルグロフはといえば、まだほんの子供に過ぎなくて、獲物を深追いしすぎて人間の仕掛けた罠にかかってしまったのだ。
熊や狼の歯よりも鋭い鉄挟みが、前肢に噛みついた。
あまりの痛みに藻掻けば藻掻くだけ、ぎざぎざの歯が肉を食い破り腱を断とうとする。
自分で自分の前肢を食い千切るより、この痛みから逃れるすべはないように思えた。
その選択から彼を救ってくれたのが、彼の領土に隣接する地に住まう一族の、女主人だったのだ。
深紅のドレスを身にまとった、長い黒髪の、いまだ少女めいた女主人は、苦しむ彼をすみやかに、鉄の歯より解放し、傷の手当てをしてくれたのだった。
黒い髪黒い瞳の、彼の祖とは異なる古の神々に連なる彼女に、メルグロフは一目で恋をした。
しかし、彼女には既に恋人がいた。彼女に似合いの同族の男は、メルグロフの目から見ても、いい男だった。それでも想いを止めることはできなくて、メルグロフは幾度も彼女に会いに出かけたのだ。
彼女も彼女の恋人も、いつ訪れても、彼を快く迎えてくれた。
彼女たちが与えてくれるぬくもりは、はるかな昔の彼の一族を思い出させるものだった。
大地を自在に駆け抜けた彼の一族は、衰退し、狩られ、この地にはもう、彼ひとりぎりである。
できうるなら、同族の伴侶を得るべきなのだろう。
そうして、彼と彼の妻となった女と共に、彼の統べる地を駆ける子供たちの姿を見てみたい。それは、彼もまた血肉を持つ生きものであるが故の、本能的な希求であった。
だから、彼は、伴侶を得るべく、旅に出る決意をした。彼女らにしばらくの別れを告げ、そうして、彼は、旅立ったのだ。
しかし、彼が伴侶を得られぬまま長い放浪から帰郷したその少し前、彼の愛した女性とその一族は、人間たちに滅ぼされていたのである。
霧のたちこめる森で見出した少年が、彼女の子供であることは、匂いを嗅ぐまでもなく、面立ちを見れば明らかなことだった。
かつて彼が彼女に救われたとほぼ同じくらいの年頃の少年を、メルグロフは、彼の城へと連れ戻ったのである。
ディオンは、物怖じすることのない、しかし、寡黙な少年だった。
時折り城を抜け出し、彼の家であった廃墟で、ぼんやりと時を過ごしていたのを、メルグロフは知っている。
不在に気づき探しに出かけたメルグロフは、激情をぶつけるかのようなディオンの慟哭を見て、そっと、踵を返した。
見てはいけないと、そう判断してのことであった。
穏やかに、日々は過ぎていった。
森と霧とに囲まれた土地は、あまたの生命を育み、その恩恵は、メルグロフとディオンの上にも、余すことなく分かち与えられる。
一日の大半を過ごす、中庭の泉水を見下ろす一階の部屋で、メルグロフは、ディオンを見上げていた。
ベッドにだらりと寝そべって半分眠っていたメルグロフを、外から帰ってきたディオンが、起こしたのだった。
まだ覚醒しきっていない視界の中で、ディオンが話している。
自分は疾うに成長期を過ぎ、不老不死になる時期を迎えている。ディオンも、また、成長期の終わりを迎えた。人間の年齢に無理矢理換算すれば、自分もディオンも、共に、二十代といったところだろう。が、その実、自分達の間には、数十年の年の開きがあった。もっとも、人間ではない彼らにとって、年齢はあまり重要ではなかったが。
黒い髪、黒い瞳、日に焼けてなお日焼けを知らない、すべらかな頬。
いつもは心持ち食いしばられている、頑固そうな口がなめらかにことばをつむいでいる。
耳をかたむけながらメルグロフは、いつしかいつものように夢想の中へと沈み込んでいった。
「―――!」
肩を揺すられるのと同時に名前を呼ばれて、
「ああ、悪い……」
ぼやけた視界に失われた女性を見出したような思いがして、心臓が跳ねた。
どれくらい前のことになるのだろうか。
『メルグロフは、時々、僕のことを見ていないね。誰を見ているの?』
と、訊ねられたことがある。
目元を今にも泣きそうに染めたディオンの表情は、以前のメルグロフのもっとも苦手とするものだった。
さすがに、今ではディオンがそんな顔をすることはない。
逆に、黒曜石めいた瞳に、すっと膜が下りる。その奥にすべての感情を抑し隠し、無表情という表情を宿すのだ。
ディオンのその顔が、今のメルグロフにとっては、最大級に苦手とするものだった。
いったい、ディオンは、自分になにを求めているのだろう。無表情という表情の奥に、ディオンがなにを抑し殺しているのか。
その疑問は、ある時、突然にメルグロフの中に芽生えたものだった。が、あまり考えることが得意ではないメルグロフには、いつまでたっても、答が見つけられないままなのだ。
ディオンは、
『メルグロフに助けられたんだ』
と、言うが、自分もまた、ディオンに救われている。
互いに別々の一族とはいえ生き残りなのだから、助け合って当然だと、メルグロフは思う。そこに、拘ることは、無意味だと思うのだが、ディオンは、もしかして、引け目を感じているのだろうか。
そんな必要は、ないのだ。
なぜなら、ディオンがそこにいるだけで、メルグロフはひとりきりではないのだ。
ひとりではない。
そんなことが、どれほどの幸福感を自分に与えてくれているのか、きっと、ディオンにはわかっていないのだろう。
(口にするべきか?)
単純に、ディオンがいてくれてよかった――と、そう言えば、あんな表情をすることはなくなるのだろうか。
しかし、
(照れくさいんだよな)
それが、メルグロフの本音だった。
ひとりに慣れていたせいもあるのだろうが、感情をストレートに現わすことが、メルグロフにはどうも、尾てい骨のあたりがこそばゆくなるほど、すわりが悪くてならない。黙っていて通じれば、どんなにいいだろうと、不精と紙一重の都合のよいことを、つい考えてしまうのだった。
「メルグロフ!」
鋭い声に呼ばれて気がつけば、最大級に苦手な表情をしたディオンの顔が、目と鼻の先にあった。
「あ、ああ。悪い………」
炯と輝く黒い双眸が、ひたと見据えてくる。
まるで、視線に灼きつくされてしまいそうな、そんな錯覚に、メルグロフが双眸を眇める。
じわり――近づいてくる双眸に、白々とした表情に、これまで見たことのないような、異質なものを感じて、メルグロフは、上半身を、ベッドの上に起こした。
両肩に、ディオンの手が、乗せられた。
その、あまりの硬さに、背筋が、ぞわりと、逆毛立った。
弾かれるように、思わず、後退さっていた。
それが、悪かったのかもしれない。
気がつけば、メルグロフは、起き上がったばかりのベッドの上に、押し倒されていたのだ。
「お、おい」
なにが起きたのかは、わかる。わかるが、どうして、こんな羽目になっているのか、皆目見当がつかない。
落とされるくちびるに、上くちびる下くちびると軽く吸われた後に噛まれ、歯列を割ろうと、舌先が、探りを入れてくる。じんと、痺れる感覚に、必死になって口を食いしばる。イヤだと、首を左右に振る。押しのけようと、手に力を込めようとして、いつの間にか両手首を押さえつけられているのに気づいた。
「放せっ」
掠れた声が情けない。しかも、言った弾みに、ディオンの舌が、ぬめりをともなって、入ってきた。
無言のままで見下ろしてくるディオンの、黒い瞳孔が、ゆらりと揺らいで、笑ったような気がした。
カッと、メルグロフの全身を、熱が駆け抜けた。
それが、羞恥なのか、怒りなのか、メルグロフにはわからなかった。ただ、ディオンを、跳ね除けたかった。
こんなことは、イヤだ。
意味がない。
張り倒してでもディオンを正気に戻して、そうして、しばらく、ここを離れよう。でなければ、ディオンに、いつもと同じように接することなどできなくなるのに違いない。
そんな考えが顔に現われでもしたのだろうか。
「ダメだ」
ひずんだ声が、メルグロフの耳朶を舐め上げる。
「逃がさない」
首を振るメルグロフに、
「あんたは、僕のだ」
硬く低いトーンの声が、耳から脳へと突き刺さる。そんな錯覚を、メルグロフは覚えていた。
脳が、じわり痺れる。
信じられない状況と、ディオンの変貌とに、ぐるぐると、周囲が回る。揺れる。
目を閉じなければ酔ってしまいそうだった。だから閉じようとしたその刹那に、ディオンの瞳孔がとろりととろけて眼球全体を、覆い尽くすのを、メルグロフは、見た。
黒曜石が溶けて漆めいたその色が、すっと、眼球に吸収されるかのように消え、後には、素のままの、血色を宿した瞳孔が、現われた。
その色の凶々(まがまが)しさに、視線を絡め取られて、メルグロフは、身じろぐことができなかった。