ディオン
それは、はるかな昔。まだ、神々の末裔が、ひとに混ざって暮らしていたころ。
1・ディオン
薄めたミルクのような霧が、あたり一面に立ち込め、ゆるゆると対流する。
霧に吸い込まれる泣き声は、子供の声である。
靴を片方なくし、直接足裏に感じるごつごつとした地面の感触が、なおのこと切なさを強めてゆく。
足が痛い。
ここは、どこだろう。
お父さんは?
お母さんは?
どうして、僕は、こんなところにいるんだろう。
淋しいよ。
怖いよ。
お腹が減った。
喉が渇いた。
ああ、足が、痛くてたまらない。
はだしの片足が、石に躓いた。
したたかに転び、全身に広がるじんじんとする痛みに、声を限りに泣き喚いた。
どれくらいそうしていたろう。
掠れた声しか出なくなったころ、まだ幼い少年は、疲れきり、全身にまとわりつく湿った寒さに震えた。
なにか。僕が、僕たちが、悪いことをしたんだろうか?
燃えさかる炎。
『行け』
と、
『行きなさい』
と。
地下室からつづく隠し通路から自分を逃がしてくれた父と母は、血に染まり煤に汚れていた。
ああ――僕は、ひとりぼっちなんだ。
それは、冷たい、耐え難いほどの、恐怖だった。
「お父さん、お母さん」
かすれる喉を、裂けよとばかりに震わせる。
絶叫を、霧が吸い込んでゆく。
膝を胸元に抱え込み、しゃくりあげる。
目をつむってからだを揺する。まるで、母の胸に抱かれているかのように。
父が、母が、一族たちが、記憶にのぼり、消えてゆく。
いつの間にか、眠っていた。
弾けるようなくしゃみをして、見開いた白い視界に先に、ぼんやりとした影が見えた。
黒い影が、霧に映る影絵のような黒い影が、ゆらり、ゆらりと、近づいてくる。
少年は、逃げることも忘れて――――否。逃げることなど思いもつかぬまま、それを見上げていた。
一陣の風に、霧が吹き払われてゆく。
少年は、一目で魅せられたのだ。
毛並みもみごとな、金狼犬神――異邦の神、アヌビス――と呼ぶがふさわしいかの、一頭の狼に、魂までをも吸い取られたかのように、一対の翡翠色のまなざしから、視線を外すことができないでいた。
魅了せられているからか、不思議と恐怖はない。それどころか、この美しい狼になら食い殺されてもかまわないと、陶然とした想いに囚われてまでいた。
だから、しっとりと濡れた黒い鼻面が、耳の付け根に寄せられた時も、思わず身を竦めはしたが、目を閉じはしなかった。
生温かな息が、くすぐったい。
肩を竦めた少年の襟首がそっと咥えられ、金毛の狼が、首を大きく一振りしする。
「うわぁ」
少年の短い悲鳴が、静寂の森に響いた。
少年を、撓るその背に跨らせ、金の狼は、森を疾駆する。
頬に感じるひんやりとした風に、目を細く眇めて、少年は狼の首にしがみついていた。
緑の木々があっという間にながれ去る。
やがて、突然、狼は足を止めた。
黄土色にうっすらとピンクがかった、古の城が、小高い崖の上に聳えている。木のはね橋が、深く広い掘割にかかっている。狼は、少年を背に、橋を悠然と越えた。
狼が橋を渡り終えた瞬間、軋る音を立てながら、はね橋が自然に引き上げられてゆく。
少年は狼の背から滑り降りて、橋が動くのを眺めていた。
狼は、石畳の広場の中央にある噴水の溜まり水を飲んでいる。
それを見て喉の渇きを思い出した少年は、噴き上げられている水に、こわごわ口をつけたのだ。
思わぬほどに甘い水だった。知らず喉を鳴らしていた少年が気づくと、翡翠色の双眸が、彼を凝然と見つめていた。なんとなくばつが悪いような気がして、口を袖で拭った少年は、狼に導かれるまま、城の中へと足を踏み入れたのである。
そうして最初に入った城の部屋は、広い浴室だった。
一階の奥、林立する太い柱、立ち込める湯気、床に穿たれた広々とした湯船に、滔々と湯が流れ込んでいる。
狼が首を振って促すのに、ゆっくりと身を浸した。
狼もまた、当然のように湯船に浸かる。
狼が自分から湯に浸かるなどという信じがたい後景を凝視するディオンの目の前で、ふっさりとした金の体毛が、水気を吸いゆらめく。
ディオンは、狼に見惚れている自分に、気づかずにはおれなかった。
狼が湯から上がり、胴震いする。金色の滝から銀のしぶきが立つかのようだった。と、うっとりと見つめていたディオンは、狼の輪郭が、少しずつ歪んでいっているような気がして、目を擦った。
ゆらゆらと、陽炎めいた湯気が、狼の全身から立ちのぼり、わずかずつ、長い鼻面が縮み、四肢のバランスが、狼とはまるで別の生きものへと、変貌を遂げてゆく。
大地を駆けるにふさわしい、地を抉る爪を持った短い指が、長く伸びてゆく。後足が伸び、二足歩行にふさわしい、脛の長い足へと。
狼が、人間になっているのだと、ディオンにはわかった。
人間の姿に近づくにつれて、水をふくんだ金毛が、惜しげもなく、床の上に抜け落ちてゆく。
そうして、遂に、一頭の金狼は、金の髪に翡翠の瞳をした二十代前半ほどの男へと、変貌を遂げたのである。
メルグロフと名乗った男は、気だるそうな笑みを頬にきざみ、ディオンにここにいればいい――と、そう言ったのだった。
何も聞かず、メルグロフは近くにいてくれた。
目尻の心持ちたれた、翡翠色の双眸がそこにあるだけで、どんなに救われただろう。
ただ、時折り、メルグロフは、ディオンを見ているのに見ていないことがある。彼が、垣間見せることのある、なんともいえないまなざしがディオンに与える感情が、淋しさから切なさへと変化したのは、いつのことだったろうか。
気がつくと、ディオンは、メルグロフを目で追っていた。
背の高い、しなやかな筋肉の張り詰めた肢体は、あまりにまぶしく、見ているだけで、胸が高鳴った。
メルグロフはディオンの憧れだった。
いつか、メルグロフのようになって、メルグロフの背丈を追い越したい。
そうして―――――
そうして?
ディオンは、そこまで考えて、ふと、戸惑う。
背を追い越して、それから、自分はいったいどうしたいのか。
その答えは、幼いころに逃げ込んだ霧の中をさまようのに似ていて、ディオンにも、捕らえがたいものだったのだ。
くすぶりつづける、いまだわからぬ感情をもてあましながら、ディオンは、成長した。
一族の仇を忘れてはいない。
何度も、霧の森を抜けて、焼け爛れ瓦礫と化した、生まれ育った家を、訪ねただろう。
草が伸び、かつての繁栄の面影すら想像することが、難しい。それでも、石壁に腰かけて、ディオンはやさしかった両親を懐かしんだ。
悲しみも、憎悪も、ある。
両親が、一族が、なにをしたというのか。ただ、大多数の人々と、少しばかり違っただけだ。
異形であったと――古の神々の血が脈打っているというだけに過ぎない。
殺されるいわれなど、どこにあるのだ。
わからなかった。
静かに、穏やかに、一族で固まって暮らしていただけなのに。
復讐を望まなかったわけではない。
たまさか、ひとを見かけることがある。その瞬間に、胸の中で爆ぜる殺意を抑えるのは、困難でならなくて、ディオンはその場でのたうちまわるのだ。
爆発させてしまいたかったが、ひとりを殺したところで意味がないこともわかっていた。
ひとりを殺せば、次から次へと、際限がなくなることもまた、理解していたのだ。
それにまた、自分がひとを殺したことが、自分の側に跳ね返ってくるだろうことも、想像が容易かった。
なによりも、憎悪と悲しみに囚われている反面、ディオンはメルグロフとの穏やか過ぎる日々をも愛しているのだ。
メルグロフがいるだけで、ディオンは、過去を忘れてしまえる。
両親を、一族を亡くしたあの後から、ディオンの世界は、メルグロフを中心に成り立っているのである。だからこそ、自分の軽率な行動で、メルグロフとの生活まで壊されてはならない――と、常に己を戒めていた。そうして、少しずつ、ディオンは、かつては彼の家であった廃墟から、遠ざかっていったのである。