平和な世界は嘘だったので、聖女は静かに人類を滅ぼすことにした
花霞の里に、今年も穏やかな春が来た。
この春から学校に通い始めた子どもたちは、家に帰ると教科書の一ページを暗唱して親に聞かせる。
『資源を巡り、大きな争いが起きました。
森のほとんどが消え、海と川は汚れ、たくさんの人が亡くなりました。
生き残ったわずかな人々は、武器をすべて捨て、二度と争わないと誓いました。
平和と自然に感謝して生きることは、何より大切なのです』
親たちが「自分もそうやって暗唱したものだなぁ」と窓の外に目をやると、そこには春の花に満ちた草原と、生活の糧を与えてくれる深い森がある。
「そうだね。平和と自然に感謝して生きようね」
◆
今の私は、「サリラ姫様」と呼ばれている。
花霞の里の里長ヴァルディスの娘であり、植物と心を通わせる聖女だ。
植物の声を聞き、種まきの時期や刈り取りの時期を里の人達に指示する。植物の力を借り、人間の病気を治すこともある。
そして私には、前世の記憶がある。
前世での最後の記憶は、こうだ。
頭に布をぐるぐる巻きにした黒い髪の自分が、助手席にいる。紛争地域に運ぶ食料を山盛りに積んだトラックが通ると、舗装されていない道には土埃がもうもうと舞う。
爆発音がして、トラックが急に止まる。怒鳴り声がして、銃が見えて、運転手が叫びながら銃を抜こうとして、その手ごと撃ち抜かれた。
次に銃口が向けられるのは、私。
――私はただ、困っている人たちを助けたかっただけなのに。
笑いながら荷台の食料を運び出す人たちの姿を目に焼き付けながら、私は死んだ。
最後に感じたのは、努力が報われなかった絶望と、死んですらやまない平和の想い。
だから前世の記憶が蘇って、この世界に生まれ変わったのだと悟ったとき、本当に嬉しかった。
争いは終わり、武器が廃棄された世界。戦争の気配など、どこにもない。窓の外ではただ花が咲き乱れ、木々の葉が揺れている。
平和だ。
「サリラ」
夫のリューダが後ろからハグしてくるので、私は「なあに?」と笑いながら彼の腕に手をかけた。
「何でもないけど、こうしたくなったんだ」
「変なの」
「別にいいだろ?愛してるんだから」と、彼は私の顎を上げてキスをくれる。
完全な、平和。
平和を願いながら死んだ自分が、「完全に平和な世界」に転生したのだと――
そのときの私は、疑いもしなかった。
◆
平和な世界でも、悲しいことは起きる。
里長である父は、私がリューダと結婚してしばらくして、原因不明の病に伏した。
「父に元気になってほしいの。あなたたちの力を貸してくれない?」
《私たちにできることはない。彼を遠ざけないと》
「父を私から遠ざけるの?」
植物の言葉に従って父を離れに隔離したけれど、看病の甲斐なく父は亡くなり、私が新しい里長になった。
「サリラ、辛いときだ。あまり根を詰めるな」
リューダはベッドで私を抱きしめながらそう言ってくれる。
「俺がいるんだから」
リューダは隣里の長の息子だ。跡継ぎの座を捨ててまで、「初恋だ」という私に婿入りしてくれた。
「もっと頼ってくれ」
「……ありがとう。リューダがいてくれなかったら、私…」
《彼をよく見て》
植物たちが囁きかけてくる声は、彼が私を励まし労わってくれる声にかき消された。
◆
そんなある日、夜中に目が覚めた。隣で寝ているはずのリューダはいない。
嫌な予感がして、部屋を出て彼を探す。
まだ父を失って間もない。もし今リューダにまで何かあったら、私はきっと耐えられない。
「リューダ、どこなの…?」
と、廊下に見たこともない穴が開いている。
「地下につながってる…?」
こんなところに、城の地下につながる階段があるなんて、父からは聞いていない。
中から人の気配がして、私は息を潜めて階段を降りた。
石造りの階段の隙間から這い出した木の根が、囁きかけてくる。
《真実に近づいている》
……真実?
階段の一番下、灯りが揺らめく空間を覗き込んで、私は息を飲んだ。
大量の、武器。
鎧、剣、槍…だけではない。
前世で見たような銃や、大砲、手りゅう弾、古びた弾薬箱も。
そしてその武器を嬉しそうに数えているリューダと、彼が雪嶺の里から連れてきた彼の幼馴染。
「リューダがあの平和ボケした聖女を堕としてくれたおかげで、丸儲けだな」
「感謝しろよ。これでうちは戦争に備えられる」
最初は何を言っているのかわからなくて、一瞬ののちに私は口を押さえた。
――リューダは私を愛して結婚したんじゃない。
目的は武器だった。
だから雪嶺の里長も、跡取りのリューダが婿入りするのをあっさり認めたんだ。
「思ったより多いな。ヴァルディスの野郎、"何が自然とともに生きる花霞"だ」
「奴はサリラで稼いでたからな。たっぷり買い込めたわけだ」
裏切っていたのはリューダだけじゃない。
父も私を騙していた。
私の力を利用してお金を稼いで、それを武器に変えて増やしていたのだ。
「サリラの力のおかげで、この里は平和だよ」と笑いながら…
「武器を運び出したあと、花霞と聖女はどうすんだ?」
「どうなろうと俺の知ったことじゃない。戦争が起これば勝手に滅びるだろ」
「利用するだけして、ひでえ」
「利用される側が悪い」
リューダと仲間は「ははは」と笑う。
前世で最後に見た、私を殺した人たちの笑顔が浮かぶ。
笑いながら荷台の食料を運び出していた彼らと、目の前で嬉しそうに武器を数える彼ら。
拳に、痛いくらいに力が入る。
《力を合わせよう》
《我らとて火の時代の再来は許せぬ》
木の根が話しかけてくる。
「…待って。まだ説得できるかもしれない」
そう返事をして、私はリューダの前に姿を現す。
「…サリラ!?」
「リューダ、武器から離れて」
リューダはほんの一瞬目を見開いただけで、すぐ笑った。
「できないな」
「離れて。この武器はすべて廃棄するわ」
「馬鹿なことを言うな。どこの里も欲しがる、貴重な武器ばかりなんだぞ」
「どこの里も…?」
リューダは肩をすくめる。
「どの里も武器を隠してるさ。これほどの量じゃないがな。武器をすべて廃棄するなんて綺麗事の嘘っぱちを信じてるなんて、本当にお前は…心の綺麗すぎる馬鹿だな」
「どうして…どうしてなの…?」
「人間はどうしたって富を求めるさ。隣の奴よりひと粒でも多く麦が欲しくなり、富が増えれば増えるほどもっと増やしたくなる生き物だ」
《そうだ。人間は、欲しがりすぎる》
そうだ。抱えきれないほどの富を得ても、なお欲しがるのが人間。
《我らの命を分け与えるのにも、限度がある》
《自らは、死んだあとすら自分の身体を他の動物たちに分け与えるのを惜しむのに》
どこまでも、強欲に。
「富を得るには力と戦争が必要だろ」
「戦争が…起きるの?」
「もちろん。貧富の差があれば、必ず戦争は起こる。もうそろそろ、近いうちにな」
裏切られた怒りと、火に満ちた時代がやってくる恐怖。
人間の愚かさのために森が焼け、動物が逃げまどい、川や海が汚れて。
人間自身だって…何の罪もない子どもから死んでいくのに。
「だから俺たちは仲間を守るために備えるんだよ」
ほんの小さい、狭い範囲の仲間。
ほぼ「自分」と同義の。
…させない。
私はリューダを睨む。
「武器はすべて廃棄します。長である私に従いなさい」
「黙れ」
「力を否定する奴は滅びる運命だ」と、リューダは拳銃を私に向けた。
「愛してる」「俺がいる」と言っていた彼が、何の躊躇いもなく。
彼が、憎い。
…違う。
人間が、憎い。
《我らもだ》
木の根が床を突き破り、壁を裂き、地下室を埋め尽くす。
「サリラ、何を――!?」
「やめろぉおおおっ…!?」
彼らの叫びは、木の根に押しつぶされ、飲み込まれた。
彼らだけではない。武器もすべて押しつぶされて見えなくなった。
私は、何の罪悪感も抱かなかった。
◆
「リューダはまだしも…長の武器をすべて埋めたですと!?」
翌朝、里の長老たちはそう言って私を責めた。
武器のことは、みんな知っていた。
私だけが、知らなかった。
「姫様、世間知らずすぎます。戦争はいつ起きてもおかしくないのです」
「武器があるから平和だったのに。平和は綺麗事では守れないのですぞ」
「下々の者だけが信じているような”武器なき平和”を、姫様まで信じきっているとは…」
幼いころから私を可愛がってくれて、「姫様が聖女様でよかった」「姫様は里にとって大切なお方です」と言ってくれていた人たちなのに…
「こうなるから、長も姫様には教えなかったのだろう」
「ああ、長が生きていてくれたら…」
「待て、長を殺したのはリューダじゃないのか?」
「それなら、それを理由に雪嶺を攻めて…」
「馬鹿、武器がない」
どうしてこんなにも、憎いのだろう。
胸の奥で、怒りでも絶望でもない、決意のようなものが育っていく。
何度も何度も間違いを繰り返して、それでもまた繰り返す。
「どこに行っても、どんな世界でも、人間は変わらない」という絶望が、身体を貫く。
だったら、すべて終わらせたい。
《手伝おう》
気づいたら長老たちの声は聞こえなくなっていて、広間の床は血まみれだった。
窓から入って来た木の枝が、ぞわぞわと血に濡れた葉を揺らしている。
私はふいっと彼らに背を向けた。
◆
どこかに行きたいけれど、どこに行きたいのかわからない。ただ足が向くままに、庭に出た。
「あ、姫様!」
「……エイファ」
今年学校に通い始めたばかりの、小さな女の子。
「どうしたの?」
「姫様、長が死んじゃって最近元気がないから…」
小さな手には、花が握られていた。
「これ」
無邪気に笑って、差し出してくれる。
「花が綺麗だったから、元気のない姫様にあげよう」
「綺麗な花を見たら、姫様は元気になるだろう」
そんな純粋な、温かい心。
この子は、何も知らない。争いも、裏切りも、欲も。人がみんな傲慢で、悪に染まっていくわけじゃないのかもしれない。
この純粋な心だけを取り出して育てられたら…
《…痛い》
彼女から受け取った花がそう呟いて息絶えて、私は気づく。
ああ、そうなのだ。
自分の大切な人にひとときの慰めを与えるために命を手折るのも、また傲慢。
優しいこの子もいつか、争い、奪い、壊す側になるだろう。この子が悪いわけじゃない。人間という生き物が、そういうものなのだから。
どんな世界でも、どれだけやり直しの機会を与えられても、人間は変わらない。
私は、ゆっくりと目を閉じて、植物に話しかける。
「……お願いがあるの」
《決心したか》
「ええ」
それでも私には、私に純粋な心配を向けてくれるこの子を殺すことはできなくて。
「静かに終わらせたいの」
◆
植物たちは、私の願いを受け入れて、自分たちを作り変えてくれた。
植物を食べて取り込んだ人間の体内で、「人間の種」が毒されて死んでいくように。
終わりの、始まり。
少しずつ生まれる子どもが減っていき、いつか人間には終わりが訪れる。
人間が気づくころ、あるいは滅んだころ、私はもうこの世界にはいない。
「姫様、このお花嫌い?他のお花を摘んでこようか?」
エイファが首を傾げて、私の意識はここに戻ってきた。
「…好きよ。お花は全部好き」
エイファは嬉しそうに笑い、私も微笑み返す。
そしてただ、静かに終わらせる。
許しは、請わない。
この世界を蹂躙しようとする欲深い種を消すことは、罪ではないから。
私自身が、存在するだけで罪深いその種の一部なのであれば、これは償いなのだから。
「おい、大変だ!大広間で長老たちが…!!」
「地下の武器庫に木の根が…!」
私はエイファに手を振って、城を離れた。
人としての道は、終わった。
これからは、植物たちの導くままに。
《友よ、ありがとう》
「…うん」
風が吹き、花が揺れ、花霞の里は今日も穏やかだ。
人間たちは止まることなく、静かに終わりへと向かっている。




