旅立つ日 Part1
道場主、伊東誠一郎の病状は日に日に悪化し、稽古場にも重い空気が沈殿している。
弟子たちは剣を振りながらも、どこか動きが鈍い。
誰も口には出さないが、皆が同じもの――命の灯が消える瞬間を、薄々と感じ取っていた。
年が明け、文久三年二月六日
そんな沈滞した空気の中、藤堂平助がまた、道場に現れた。
ひとしきり稽古を終えたあと、藤堂は大蔵が引き篭もる奥の間を訪ねた。
「…浪士組に加わろうと思います」
その声には、密やかな覚悟が込められている。
大蔵は、読みかけの書物から目を上げず、短く「そうか」とだけ応えた。
「加納さんに触発されたわけじゃないが、もうじっとしていられない。行くからには身命を投げ打ち、存分に腕を振るう所存です」
大蔵はようやく本を閉じ、振り返った。
そしてしばらくの間、藤堂の瞳を無言のまま見つめた。
「…手放しで賛成する気にはなれんが。もう決めたんだな」
「ええ」
大蔵が、口を開きかけたその時、襖が勢いよく開いて、
そこには蒼ざめた顔の卯梅が、肩を震わせて立っていた。
「大蔵様、お父様がいません!」
「…どういうことだ」
「離れにお薬を持っていったら布団がきれいに畳んであって…どこを探してもいないんです」
泣きじゃくる卯梅の肩を抱きながら、大蔵は藤堂に鋭い視線を投げた。
「すまんが、先生を見た者がないか、道場に残っている連中に訊いてくれないか」
しばらくすると、藤堂とともに師範代の内海が血相を変えて戻ってきた。
「鎗次郎が、門の外で先生を見たと!」
「あんな身体で何処へ行くというのだ」
「それが、『すぐ帰る』とのみ言い置いて、永代橋の方へ歩いて行ったと言うのです」
「永代橋…か」
大蔵は眉をひそめ、しばらく考えてからふと顔を上げた。
「残っている者で、この近辺を捜させろ。私も心当たりを当たってみる」
死を覚悟した者の執念か、誠一郎は病を圧して神田お玉ヶ池の玄武館を訪ねていた。
奥の間に通された誠一郎を、真田範之助が神妙な面持ちで迎え入れた。
誠一郎は溢れ出る咳を拳で押さえ、それでも鋭い眼光だけは衰えていない。
「御身に道場を譲るには条件があります」
「お聞きしましょう。わざわざ病を押してお越しいただいたのだ。無碍にはいたしますまい」
「あなたの真意を問いたい」
「真意?」
真田が首を傾げると、誠一郎は深々と息を吐き、言葉を絞り出した。
「拙者の仕えるご家老戸田銀次郎様は熱心な攘夷派であられる。当然道場の門下にも同じ志を説いております。いざ事あらば、御身も陣頭に立って夷狄に斬りこむ覚悟がおあり、と考えてよろしいか」
真田は考えるまでもないと頷いた。
「無論、望むところでござる。」
「それを聞いて安心し申した」
誠一郎は満足げに頷き、力なく席を立った。
誠一郎が外に出ると、さらに雨脚が強くなっていた。
「濡れて帰るか」
呟いたとき、すっと傘を差し出す者があった。
鈴木大蔵である。
「やはり人情よりも義理を通されましたな。これで私との約束は反故ですか」
「お前は大義のために死ねるか?それが娘と私の道場をやる条件だ」
大蔵は薄く微笑んだ。
「私の信条はともかく、それを若い者たちに強要する気はありません。これからの国の在り方は次代を担う彼ら自身が決めるべきでは?」
「はぐらかすな。門弟らには攘夷の先駆けとなるべく剣技を磨けと常日頃説いておる」
「もちろん、大義のために命は惜しみません。ただ、私の信じる正義があなたと同じかどうかは、また別の問題だ」
「わしを倒せれば、その条件を飲んでやろう」
「その痩せさらばえた身体で?」
大蔵は冷笑した。
誠一郎は無言のまま、雨に濡れた鋭い眼で大蔵を見据える。
「いいでしょう。攘夷派のご老体を鞭打つのは気が進まないが、お望みとあらば」
雨の中、二つの影が激しく交錯した。
誠一郎の振るう剣を、大蔵はすべて真正面から受け止める。
鍔迫り合いの最中、誠一郎は刀の背に額を押し付けるようにして大蔵に肉薄した。
「同情など無用ぞ!」
「御意」
大蔵は力任せに誠一郎の身体を撥ね退けた。
この、華奢な体躯の何処にこのような膂力が宿っているのか。
悲しいかな、その力の差は歴然だった。
「くっ!」
誠一郎は歯噛みして大上段に振りかぶった。
大蔵はひらりと体を躱して、誠一郎の放った渾身の一撃は虚しく空を切り、勢い余って泥濘に膝をついた。
大蔵は冷ややかな眼差しで、地に伏した師を見下ろした。
「道場はあなたのものだ。お好きになさればいい」
突き放すようにそう言うと、開いたままの傘を置いて、雨の中をひとり去っていった。
道場では、依然行方の知れない誠一郎を案じて、卯梅と弟子たちが右往左往していた。
ずぶ濡れになって戻った弟子が、力なく首を振る。
「この辺りにはいません」
その声には、探し続けるうちに募った不安と諦めが滲んでいる。
そのとき、激しく門をたたく音が聞こえた。
「先生!」
弟子たちが門を開くと、そこには、ぐったりとした誠一郎を担いだ真田範之助が立っていた。
雨に打たれた真田の着物は、泥に塗れている。
誠一郎の首は力なく折れ、呼吸のたびに細く喉が鳴っていた。
弟子たちは慌てて駆け寄り、なんとか玄関の式台まで引き上げたが、誠一郎は額から血を流し、意識がなかった。
身体は異様なほど熱く、荒い息が胸を上下させる。
「先生!いったいなにが!?」
怒号が飛ぶより早く、藤堂平助が一歩踏み出した。
腰の刀に手をかけ、今にも抜き放たんばかりの勢いで真田に詰め寄る。
「やったのはおまえか、この野郎!」
「うちの門の前で斃れておられた。見つけた時はなんとか返事もあったのだが…どうしても道場に帰ると仰るので駕籠でお連れしたのだ」
「ぬけぬけと!」
「誰の仕業かは分からん。例の医者に遣いをやっておいたから、追っつけ道場に着くはずだ」
踊りかかる藤堂を、真田は軽くいなした。
「気持ちはわかるが、私に突っかかるのはお門違いだ。卯梅殿、お父上をお大事になされよ」
真田は神妙に告げると、雨の中へと消えていった。
「おいまて!まだ話は終わっちゃいねえぞ!」
追いすがる藤堂の腕を、内海次郎が掴んで引き戻した。
「藤堂、やめろ。まだ何も分からん。いま、話をややこしくするな」
「…けど!」
藤堂は雨に打たれながら項垂れた。




