伊東道場 Part3
藤井は明らかに戸惑って、目の前にいる浴衣の美女と真田を交互に見比べた。
「鈴木大蔵?こちらが?」
少年、鎗次郎がしゃしゃり出て、大仰な身振りで大蔵を指し示した。
「そうだよ!うちの若先生だ!」
確かに、その“男”は線が細く、総髪を解いたその姿は、まるで憂いを含んだ絶世の美女にしか見えなかった。
細面に切れ長の眼、高く細い鼻梁、そして薄く形の整った唇、歳は二十代半ばと思しく、「先生」と呼ばれるにはおよそ相応しくない。
加納道之助や藤堂平助にとっても、その面差しは初めて見た時と変わらず印象的だった。
この道場が多くの門弟たちを引き付ける理由は、誠一郎の剣名もさることながら、この美しき剣士が振るう変幻自在の剣に因るところも大きい。
鎗次郎は、今さらながら大蔵に見惚れて立ち尽くす卯梅の顔を覗き込み、ニヤニヤと冷やかした。
「キレイだよね?おれも最初は女の人かと思っちゃったもん」
「なにバカなこと言ってんの」
卯梅は照れ隠しに鎗次郎の頭を小突いた。
「真田さん。なぜって、そう、私はここの塾頭だからだ」
大蔵の澄んだ声には、感情を削ぎ落としたような冷たさがある。
真田は一瞬の沈黙の後、爆発したように笑い出した。
「アハハハ!そうだったのか!皮肉なもんだな」
「何が言いたい」
「俺がなぜここに居るか、お嬢様には聞いてないのか」
大蔵は、卯梅に問いかけるような視線を送った。
「なに?」
「俺は養子に請われた。だが…花嫁の前に、まず俺の継ぐ道場を見たいと思ってな」
「なるほど」
大蔵は、感情の読めない表情で小さく頷いた。
「解せんな。俺はあんたのことを全部知ってるわけじゃないが、実力はよく分かっているつもりだ。相変わらず女形のような見てくれだが、あれから腕が落ちてないんだとしたら、なぜあんたが道場を継がない?」
「伊東先生が決められたことだ。私に聞くな」
「噂は聞いているぜ?麹町の杉山道場を離れ、お光さんとも離縁したとか。それが、ちゃっかりこんな道場で塾頭に納まっていたとはな。計算高いあんたのことだ。御三家に仕える家柄を棒に振ってまで流派を乗り換えたのには、それなりの理由があるんだろ?」
杉山藤七郎は、大蔵が生まれた志筑藩で剣術師範を務めたこともある人物である。
家を取り潰された幼い大蔵の才能を惜しみ、水戸にいる高弟、金子健四郎道場に内弟子として入門を世話してくれた、まさに恩師である。
その後、成人して江戸に出た大蔵は、迷わず杉山道場の門を叩いた。
「勘ぐりすぎだ。もとより、杉山家には立派な跡継ぎがおられる」
真田は、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「ふん、俺の聞いた話とは少し違うな。杉山先生はあんたを後継者に望んだ。それは、過激な攘夷運動に片足を突っ込んでいた嫡男が、家を潰すことを恐れたからだ」
大蔵は、やれやれと肩をすくめた。
どうやら何もかも承知の上でカマを掛けられたらしい。
「ふふ、あなたも人が悪い。では、その後、何が起こったかもご存じのはず」
真田は、淀みなくその続きを述べた。
「案の定、息子は例の桜田門の件に加担して刑死。なりゆき杉山家はお取り潰しの憂き目に会い、あなたは用無しになった妻子を捨てた…そんなとこだろ?」「なんだとてめえこのやろーナメてんじゃねーぞあーん!?黙ってりゃ言いてえこと言いやがって死にてえのかコラ!!」
血相を変えて喰ってかかる藤堂平助を、大蔵は押しとどめた。
「部外者のあなたに釈明するつもりはない」
「どうだ?今日ここで決着をつけようじゃないか」
「この格好で?」
大蔵は浴衣の袖を摘まんで見せた。
「あんたの弟子は歯ごたえがなくてな」
「あー!?言わせておけば!そんな戯れ言は、オレさまに勝ってから吹きやがれ!」
血の気の多い藤堂は、礼を執る間もなく、地面を蹴って真田へ躍りかかった。
真田は、次々と繰り出される剣を軽くいなしながら、尊大な笑みを浮かべた。
「お前たち二人と剣を交えればよく分かる。教えた人間の甘さがな」
加納と藤堂の実質的な師である鈴木大蔵は、はじめ神道無念流に学び、後にいまの北辰一刀流剣術を納めた。
神道無念流は「力の剣法」と言われて、上段からの力強い打突を売りにしたが、一方で胴の防御が甘くなるという弱点がある。
大蔵は、これに北辰一刀流の合理性と緻密な足捌きを取り入れ、緩急自在の剣法を編み出した。
藤堂平助は、まだ少年の頃からこの大蔵に付きまとって厳しく仕込まれたおかげで、かなりの使い手である。
藤堂の勢いはさらにヒートアップして、道場の床板を激しく踏み鳴らした。
「オラオラオラ!ノラリクラリと洒落臭え奴だ!」
若さに任せて打ちかかる連撃。
その激しい攻勢に、観客の鎗次郎は思わず拳を握りしめた。
「おお!すげえや」
しかし、真田の剣は岩のように重かった。
一瞬の隙を突き、下段からの凄まじい突き上げで藤堂のバランスを崩すと、
目にもとまらぬ速さで間合いを詰める。
とどめの一撃が藤堂の右腕を砕こうとした刹那、
鈴木大蔵の竹刀がそれを受け止めた。
「さすがにそれはやりすぎだろう?」
「…あんたがやる気になるまで、ひとりずつ潰してもいいんだぜ?」
「そうまでして、私に何を言わせたいんだ」
「この家の者は知りたいはずだ。そんなあんたが、次にこの道場を選んだ、その理由を」
言外に「両家を天秤にかけ、老中の家臣という肩書きを望んだのではないか」という邪推を臭わせる。
真田が竹刀の先を大蔵の鼻先に突き付けると、
大蔵は、目にも止まらぬ速さでその竹刀を下から弾きあげた。
竹刀を取りこぼして茫然とする真田に、大蔵は微笑んだ。
「いいだろう、教えてやる。妻は自害したのだ」
「…なに?」
「なぜかって?あのあと、兄の事件に連座して、彼女の父も腹を切った。つまり彼女は、私にまで累が及ぶことを恐れ、自らつながりを絶ち切ったのだ」
大蔵は“あの日”、多くを失った。
妻子だけでなく、義父、義兄、そして、古い友人も…。
そしてまだ、その喪失感から立ち直れずにいる。
真田は、少し気後れした。
「どうやら余計なことを喋りすぎたようだ。他人が口を挟むことじゃなかったな」
真田が道場の隅にある板間に大蔵と向き合って座ると、卯梅が不機嫌を隠そうともせず、二人の前に乱暴に湯呑みを置いた。
「はい、頂き物の上喜撰ですが!」
大蔵は、顔をしかめてチラと卯梅を見やると、すぐ正面に視線を戻した。
真田範之助は、竹刀を傍らに置き、面白がるように卯梅の顔色を窺った。
「父上から納得できる話は聞けたか?」
卯梅は父・誠一郎のやつれた顔を思い出し、毅然と胸を反らした。
「事情は理解しました」
「おい!まだ勝負はついてないぞ!」
そこへ、まだ納得のいかない藤堂が追いかけてきて挑発を重ねる。
卯梅は手にしていた盆で藤堂の頭を叩いて追い払った。
「うるさい!この方は、私のお客です!」
藤堂が恨めしそうに引き下がると、真田は改めて卯梅に向き直った。
「やっとまともな話が出来そうだな」
「事情は理解しましたが、納得したわけじゃありません」
「ハハ、そりゃそうだ。俺だって、まだあんたを貰うとは決めてない」
懲りない藤堂が、再び卯梅に這い寄って耳打ちした。
「いやいやお嬢さん、モノは考えようかも。ちょっと暑苦しいが二枚目だし…」
再び引っ叩かれ、藤堂のプレゼンは却下された。
真田はふと表情を和らげ、卯梅を気遣うように問うた。
「お父上の疝気は重いのか?」
「…あ、ええ。たぶん」
真田は懐から何かを書きつけた紙片を取り出し、床に置いてついと押しやった。
「これ…?」
「知り合いの医者だ。ここからだと少し遠いが、腕はいい。私の名を出せば悪くはしないはずだ」
「あ…ありがとうございます」
意外な厚情に卯梅が戸惑っていると、今度は内弟子の鎗次郎が声を張り上げた。
「やい道場破り!恩を売って姉ちゃんの気を引く気か?姑息なヤツめ!」
真田は歯を見せてニッと笑い、
「ハッ!こんなオンボロ道場を継ぐのは、ごめん被りたいね。だが…そうだな、このお転婆のお嬢様が望むなら考えてもいい。悪いが伊東先生には、そう伝えておいてくれ」
そう言って、大蔵の肩をポンと叩いた。
それが自分に向けられた言葉だと気づいた大蔵は、心外そうに顔をしかめた。
「なぜ私が…!」
真田は卯梅を見つめながら付け足した。
「この一件については、あんたも当事者だからさ。断っとくが、無理やり土俵に上げられた俺としては、噛ませ犬を演じるつもりはないぜ?」
冷やかすような視線に晒された卯梅は、ただ顔を赤らめるしかなかった。
真田は大蔵に向き直り、不敵な笑みを浮かべた。
「気が削がれたが、あんたとはいずれ決着をつける。いくぞ、藤井」
連れの男に声を掛けると、真田はさっさと出て行った。
嵐のように過ぎ去る真田の後ろ姿を、弟子たちはただ茫然と見送るばかり。
そんななか、加納道之助だけは大蔵の横顔を見つめていた。
その表情からは何も読み取ることは出来ない。
過去、この二人の間に、どういった因縁があったのだろうと加納道之助は訝った。
自分はこの鈴木大蔵という人物には到底敵わないと認めたからこそ、卯梅への想いを断ち切って道場を出る決心をしたのだ。
それが今さら急に現れた男に彼女をさらわれるなど冗談ではなかった。
加納の顔に苦渋の色が滲む。
「先生、伊東道場の名を汚してしまいました」
「見ていたよ。気合の乗ったいい剣だった。君にも、なにか思う所があるらしい」
加納はますます苦い顔をした。
「…実は横浜に行くことになりました」
藤堂平助は、ケンカまがいの立ち合いなどなかったかのように、悪びれず、首を突っ込んできた。
「そうなの?なんで?」
「実は講武所(幕府の武芸養成所)の方で、横浜港を警備するために臨時の泊り番という役目が出来まして。ですがまあ、旗本・御家人の御子息には、好んで異人街に足を踏み入れたい者などいるはずもなく、人員の空きが出たところへ千葉先生の伝手でネジ込んでもらえたんです」
「へぇ、行動力あるなあ」
藤堂は感心したように頷いたが、大蔵だけは、加納の決意の裏にある「時代」の匂いを敏感に感じ取っていた。
桜田門外という凄惨な結末を経て、大蔵の方は、もはや政治に対する情熱を失っていた。
少なくとも表面上は。




