伊東道場 Part2
新しい畳の匂いが立ち込める離れ。
「お父様、いま道場に誰が来てると思う?」
床に臥せる父の枕元に膝をつくと、卯梅は剣のある声で詰問した。
誠一郎は気だるげに上体を起こす。
「うっちゃしなー。見ての通りガタがきてっから、お前の思わせぶりに付き合う気力はねえよ」
「じゃあ、教えてあげる。私の許婚ってひとがきて、加納さんと平助さん相手に果し合いを始めたわ」
「ああ、アレか」
まるでこの事態を見越していたような態度に、卯梅は顔を真っ赤にして詰め寄った。
「いったい、どういうつもり?」
誠一郎は、はだけた浴衣の襟を直しながらウンザリした顔で手を払った。
「いい年して子供みてえに駄々コネんな。伊東家を潰すわけにはいくめえよ。婿を取るのは当然だろ?」
「だとしても、私に一言くらいあっていいでしょ」
「悪いとは思ったが、急ぐ必要があってな」
卯梅は、その言葉の裏に潜む意味にドキリとして、不安を振り払うように語気を強めた。
「跡取りの心配なんて!まだ早くない?」
「気休めは要らんよ、本当はお前だって分ってるはずだ」
「分からない!」
しばしのあいだ、二人の間に沈黙が横たわった。
やがて誠一郎は、見る影もなく瘦せ細った腕で布団の端をぎゅっと握った。
「なあ卯梅。わしゃ人生に悔いはねえ。だが…こんな時代に国の行く末を見届けられなかったことは、返す返すも無念だ」
卯梅は、あえて父の弱音を聞き流した。
「だいたい、なぜあの方なの?」
「北辰一刀流の繋がりでな、彼は千葉道場の塾頭を務めておる。相手として申し分なかろう?」
「…」
卯梅は唇を噛んだ。
誠一郎は娘の横顔をじっと見つめ、見透かしたように吐息を漏らした。
「やはりな…お前の想い人は、鈴木大蔵か。そうなんだろ?」
卯梅は頬を赤らめ、ハッと顔を上げた。
「奴が望むなら、わしは家督を譲るにやぶさかじゃねえが。わしの眼に、大蔵の心はまだお光殿に囚われているように見えてな」
「じゃ、私の気持ちなんて…!」
卯梅の抗議は、誠一郎が咳き込む音に掻き消された。
「すまん。無論、親としちゃ娘の気持ちも汲んでやりたいさ。今回のことが大蔵の背中を押すことになりゃ、それもいいと思ってる」
「彼が、それを望まなければ?」
誠一郎は、家長らしい威厳を以てそれに応えた。
「お前も武家の娘だ。その時は覚悟を決めろ」
一方。
太っちょの師範代、中西登が道場の塾頭に急を告げていた。
「先生!お忙しいところ申し訳ありませんが…え?ていうか、まだ浴衣姿なんですか」
先生と呼ばれた男は、薄暗い奥書院の片隅で床机に肘をつき、背を向けている。
「すまない。昨日は深酒してな、さっき起きた。で?」
「あ、ああ!その、いま道場破りとかいうのが来ています」
「追い返せ」
『海防私議』と題された本をめくりながら、彼は振り返りもせずに応えた。
「それが…私もそうしようとしたんですが。止める間もなく弟子たちがケンカを買ってしまいまして…」
「どの弟子だ?」
その声には軽い苛立ちが混じっていた。
「加納と藤堂です。まったく、奴らときたら!」
男は深い息を吐き、ようやく振り向いた。
鈴木大蔵。
まだ若いが、伊東誠一郎が病に臥せって以来、道場の一切を任された塾頭である。
「…平助が来ているのか?」
「ええ。どちらが相手をするかで加納と揉めてます。めずらしく道場に顔出したと思えば…ヤツの血の気の多さにも困ったもんです」
中西は、師範代を務める実力者ながら、とかく口数が多い。
「やれやれ、平助はともかく、加納まで挑発に乗るとは。らしくないな」
道場では、その加納道之助と藤堂平助が激しく揉み合っていた。
静と動、まるで対照的な二人の剣士は、互いに一歩も譲ろうとしない。
この道場のもう一人の師範代、内海次郎は首を捻った。
「あいつら、いったい何をムキになっているんだ?」
内海は大蔵に次ぐ席次で、彼の見立てでは、藤堂と加納の実力は拮抗していた。
離れから戻ってきた卯梅が、内海に肩を寄せた。
「ふたりとも、今日はちょっと様子が変じゃないですか?」
そんな卯梅の横顔を、内海は冷ややかに眺めた。
「ああ、お嬢さん…けど、加納の方は貴女のせいかも」
「なんで?」
(そりゃあ、あなたにいいところを見せたいのでしょうよ)
言いかけて、内海は卯梅を見つめ、ため息をついた。
目鼻立ちが整って、気立てもいい。
が、如何せんまだ子供だ。
道場で加納の淡い恋心に気づいていないのは、彼女くらいのものだった。
道場破りを名乗る男、真田範之助は、わざとらしく大欠伸をして見せた。
「どっちでもいいが、さっさと決めてくれないかね?」
振り向いた加納が睨みつけると、真田の連れと思しき坊主頭の小男、藤井が薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「ん?どうも見覚えのある顔だと思えば、きみ、うちの道場から逃げ出した加納君じゃないか」
加納の顔が、屈辱に歪む。
藤堂は二人の間に割って入ると、それぞれの顔を見比べて意地の悪い笑みを浮かべた。
「おっと、どうしたどうした?お二人は、なにやら曰くあり気じゃないスか」
加納は藤堂より5つも年長だったが、とうとう改まった調子で頭を下げた。
「お願いだ。私は故あって江戸を離れねばならない。今日はその挨拶に寄ったつもりだったが…。だからこそ、今の自分がどこまでやれるのか知りたい。ここは先鋒を譲ってくれないか」
その覚悟に押され、藤堂は舌打ちしながらも不承不承先を譲った。
しかし。
立ち合いは一瞬だった。
真田の剛剣の前に、加納は三合と持たず、苦杯を舐めた。
「心意気は買うが、まだまだだな。こりゃあ鍛え甲斐がありそうだ」
真田は竹刀を肩に担いで、ため息をついた。
卯梅の目前で屈辱的な姿を晒したことに、加納は唇を噛んだ。
「これで実力の差がお分りいただけたでしょう?」
藤井は降伏を促すように弟子たちを見渡し、そのとき、道場の入り口でじっとこちらを見つめる浴衣姿の人物に目を止めた。
「…一人娘と聞いていたが、他にも妙齢の美女がおいでだ。私なら、こちらを娶ることをお勧めしますな、先生」
藤井に目配せされて「彼女」の存在に気づくと、真田範之助は大きな眼を更に見開いた。
「バカ、あれは男だ」
真田に睨みつけられたその男―鈴木大蔵は、誰にともなく、気だるげに問うた。
「いったい、なんの騒ぎだ」
真田は竹刀を床について、不敵な笑みを浮かべる。
「鈴木大蔵。なぜあんたが此処にいる」




