伊東道場 Part1
「やれやれ」
手桶と柄杓を手にした卯梅が通りに水を撒き終えて長屋門まで戻ってくると、しばらく姿を見せなかった門弟のひとりが、ちょうど反対の方角から歩いて来るのに鉢合わせた。
「どうも、お卯梅さん!」
門の上でさえずっていた雀たちが一斉に飛び立つ。
「あら、平助さん?ずいぶんご無沙汰ねえ?」
「ああ。どうやら先生も先が長くなさそうだなんて噂を小耳に挟んだもんで、生きてるうちにご尊顔を拝んどこう、なんてね」
憎まれ口を叩いた弟子は藤堂平助と言って、いかにも勝気そうな、まだ二十そこそこの若者だった。
その生傷だらけの笑顔を見て、卯梅は釣られるように苦笑した。
「相変わらず毒舌ね。確かに父も最近は床に伏せがちだけど、あいにく口だけはまだまだ達者よ?ま、さすがにそんな激しい稽古のお相手は無理でしょうけど」
藤堂は、なぜか少しきまりが悪そうに頬の傷を撫でた。
「いやあ、これは違うんだ。道中、湯島天神の屋台で書生風の青瓢箪がノタクタ蕎麦をすすってやがったからさ。『さっさと食って席を空けやがれ』って頭を叩いてやったら、どうやら蕎麦屋の倅だったみたいで、ちょっとばかしモメてね。その親父がまた、熊みたくデカいヤツで…」
「あきれた…いい歳をして、まだそんな下らないケンカを?」
「だって、いきなりオタマで頭を殴りつけやがったんだぜ?こっちも蕎麦猪口で蕎麦湯をぶっかけてやったら、向こうは親子二人がかりよ」
「どっちもどっちねえ」
「バカいえ。勝ったのはオレだぜ?」
下らない話をしながら飛び石を渡って玄関に上がると、ふたりの眼の前をギシギシと廊下をきしませながら少年が走りすぎて行った。
「床が水浸しじゃない!あんたが廊下に雑巾がけしなさいよ!」
卯梅が叱りつけたのは、最近入門したばかりのやんちゃ坊主、金澤鎗次郎だ。
常に道場をウロチョロと駆け回っている。
「あとあと!今日は若先生に稽古をつけてもらう約束なんだ!」
少年は、目を輝かせながら応えた。
「そういう問題じゃない!掃除だって立派な修行なんだから!」
「ハッハ!だったら捕まえてみな!」
生意気盛りの鎗次郎は、卯梅に舌を出して跳ねるように道場の敷居を跨いだが、
入口に立っていた胴着の男にぶつかって勢いよく尻もちをついた。
「…イッテーな!誰だおまえ?」
鎗次郎は、見覚えのないその相手を恨めし気に見上げた。
中背だがガッシリと筋肉質で、まるで根の生えた木のような感触だった。
その後ろには、痩せた坊主頭の男を従えている。
男は、むしろこの威勢のいい挨拶が気に入ったようで、ドスの効いた声でニヤリと笑う。
「ふふ、俺か?俺は道場破りだ」
鎗次郎の後をついてきた卯梅は、藤堂と目を見合わせ、それから正体不明の男に毅然と歩み寄った。
「どなたか存じませんが、お引き取りを。うちでは他流試合はお断りしています」
「他流じゃない。同じ北辰一刀流の玄武館から来たんだ」
神田お玉ヶ池にある玄武館は、北辰一刀流の創始者千葉周作が開いた、おそらく日本一大きな道場であった。
伊東道場も、いわばその傍流である。
「宗家から?なら、なぜ道場破りなどと…」
「その質問に答える前に、まず、あんた誰だ?」
「あ、すみません。道場の一人娘で卯梅と申します」
男は卯梅の周りを品定めするようにぐるりと一周した。
「ほほう…ははあ…あんたが俺の嫁さんか」
卯梅は目を見開いた。
「よ…!え?なんです?!」
男は卯梅の問いを無視して連れの男を振り返った。
「藤井、どう思う?」
藤井と呼ばれたその男は、掛け軸でも品定めするように無感情な眼で卯梅の全身をジロジロ眺めたあと、ボソボソと妙に平板な調子で感想を述べた。
「んー、そうですな。まあ、いいんじゃないでしょうか。ええ」
如何にも脇役然とした、陰気で、狡賢そうな、それでいて妙に間の抜けた感じの男だ。
卯梅の頬がみるみる上気した。
「あなたたち、ずいぶん無礼ね!」
道場破りは気にする風もなく、訝しげに卯梅の顔を覗き込む。
「お父上から何も聞かされてない?本当に?」
「だから何をですか!だいたいあなた、誰?!」
「俺か?真田範之助、あんたの許婚だ」
「い…え?ななな、突然何を?!そんなの…」
卯梅は凄まじい形相で睨みつけたが、真田と名乗る男の悠揚たる態度を見るうち、その自信もだんだん萎んでいった。
「…ホントに?」
「少なくとも、俺は君の父上からそう聞いてる」
きっぱりとした答えに、ようやくそれが真実だという結論に行きつくと、頭に血が昇った卯梅は、父を問い質すべく道場を飛び出していった。
「お、お父様―――っ!!」
道場には弟子たちだけが取り残された。
内海次郎と中西登は目を見合わせた。
「どういうことだ?」
首を捻る中西に内海が耳打ちした。
「先生もそろそろ真剣に道場の将来を考えておられるということだ」
二人の師範代にとって、道場の行く末はおおいに関心事である。
場の空気を読まない藤堂平助が勢いよく名乗りをあげた。
「よーし、分かった!誰だか知んねえがオレが相手してやるよ!」
藤井という坊主頭の子分が、藤堂の襟をグイと引き寄せ、狡賢そうな眼つきでボソボソと囁いた。
「きみねえ、謝るなら早い方がいい。この人はね、数年前、北辰門下に入るや、瞬く間に玄武館の序列をゴボウ抜きにして、『千葉の小天狗』栄次郎殿に肩を並べた、あの真田範之助だよ?同門なら名前くらい聞いたことあるだろ?きみじゃアレだと思うよ、力不足」
北辰一刀流の創始者である千葉周作の次男、栄次郎は、一門が生んだ天才と評されていたから、真田という男はそれに比肩する力があるということになる。
しかし藤堂は、その腕を軽くひねり上げた。
「あ、こら、やめなさい。いたい。あ、いたい」
苦痛に顔を歪める藤井に額を突き合わせると、藤堂は不遜に言い放った。
「この一年、オレは実戦的な剣技を磨くのに忙しくてな。悪いが、そのご尊名も寡聞にして存じ上げないねえ。そんなわけで、今さら道場剣法なぞ恐れん」
ところが、もう一人の門下生が、この怖いもの知らずを押し退けて、さらに前に出た。
「やめておけ。君の言う実戦的な剣技とやらは天然理心流のことだろう?」
加納道之助である。
彼は、玄武館に入門したのち、門人を介して伊東に師事するようになったので、その経歴から、両道場の実力差は骨身に染みている。
向こう気の強い藤堂は、加納にも突っかかった。
「だからどうした?」
「真田さんは、その天然理心流発祥の多摩出身で、かつては理心流始まって以来の天才と謳われた男だ」
(注:真田が学んだ多摩戸吹村の道場は、藤堂が居候していた試衛館とは同じ天然理心流でも別の流れを汲んでいる)
「つまり同じ北辰と理心流を納め、いずれも彼の方に一日の長があるということになる。ここは退け。私が相手を引き受ける」
「は?なんでそうなる!?」
師範代の中西はことの成り行きに慌てた。
「えらいことになった。若先生に知らせてくる」




